「いだてん」周回遅れその4:弁髪

 物語の上では点景に過ぎないが、羽田の陸上競技場を手伝っている「弁髪の連中」がいる。弁髪は清朝の象徴であり、まもなく始まる辛亥革命によってこの風習は消え去るのだが、この場面を見てわたしはふと魯迅の『藤野先生』を思い出した。

 「東京もどうせこんなものだった」と『藤野先生』は書き出される。「こんなもの」という情景の典型として、魯迅はそこから、上野の桜に集う弁髪姿の留学生の姿を描写し、「まったくお美しい限り」と皮肉っている。同じ留学生でありながら、彼には旧来の清の風習を引きずった同級生たちの姿がおもしろくなかった。

『いだてん』に現れる弁髪の人々は、おそらく嘉納治五郎の作った清国留学生向けの予備校、弘文学院速成班 *1 の学生たちなのだろう。魯迅は『いだてん』の時代より少し前の1902年、この速成班に居て二年間を過ごした。先の『藤野先生』の冒頭に書かれているのもその頃の話だ。魯迅は、東京での生活に満足できず、1904年、仙台の医学専門学校に移り、そこで藤野先生に会う。

 「藤野先生」には、人を教えることに対する藤野先生の誠実な態度が静かに、情を込めて綴られる一方で、いくつか見逃せないできごとも記されている。ときは日露戦争の最中(ちょうど四三が熊本で日本の活躍に飛び上がっていた頃だ)、魯迅は学校で日本に勝っている場面を次々と写す幻灯を見せられる。ところが、映し出される写真にたまに中国人が混ざっていることがあった。「ロシア人のためにスパイとなり、日本軍に捕まって、銃殺されるところで、周りを囲んで見ているのも一群の中国人、講義室にはもう一人僕がいた」(『藤野先生』 *2 )。この経験から彼は「およそ愚弱な国民は、たとえ体格がいかに健全だろうが、なんの意味もない見せしめの材料かその観客にしかなれない」と知り、自分たちの最初の課題は医学ではなく「精神を変革すること」であると考えたと、『吶喊』自序 *3 で記している。

 弘文学院は実際には革命前の1909年に閉鎖しており、羽田運動場を作る頃にはすでになかった。一方、魯迅は1906年から1908年まで東京に暮らし続け、文芸誌の発刊を計画したが頓挫する。彼はその後も1912年までたびたび日本を訪れているが、「狂人日記」(1918)を書いて小説家として名を成すのはまだ先のことだ。

 「弁髪の連中」は、『いだてん』の時代が、実は清から中華民国への革命期でもあったこと、そして東京には、日露戦争の戦勝にわき講和に悲憤慷慨する人々とは全く異なる心情を持つ人々が存在したことを、思い出させるのである。

*1 弘文学院(宏文学院)での教育内容や当時の留学生の感情については、坂根巌子「宏文学院における日本語教育 」など、いくつか論文がある。

*2, 3 「故郷/阿Q正伝」藤井省三訳、光文社古典文庫