日露戦争後、明治38年(1908)10月の海軍士官凱旋に始まって、日本各地で凱旋歓迎会が行なわれ、あちこちに凱旋門が建った。
ここに挙げた絵葉書はそうした凱旋門のひとつ、日本橋凱旋門である。凱旋門の装飾の由来と変容は橋爪紳也「祝祭の<帝国>」(講談社選書メチエ)に詳しい。この日本橋凱旋門についても書かれているので、その部分を引いておこう。
総工費は二〇〇〇円、間口八間、奥行き五間、なかなかに立派な物だ。設計および施工を請け負った業者は清水満之助本店という。一〇月一五日から一週間ほどで仕上がっている。様式は「所謂ゴシック形」と記録にあり、ペディメントに大きな錨と蹄鉄の草食を取りつけている。柱の頂部には、日本橋区の徽章に月桂樹と桜花をあしらった装飾が置かれていた。
(橋爪紳也「祝祭の<帝国>」講談社選書メチエ)
さて、絵葉書の写真の下には通信文がしたためてある。そこに書かれているのは、当時の絵葉書の異様な売れ行きぶりだ。
今朝七時半頃顔も洗はず小石川局へ紀念絵葉書かいに
飛び出したが辛くも最後の一枚を手に入るを得たり
然し○○君より前より約束済みとなりし為め
御送り申すは出来ざるも
□紀念スタンプ□けとも御目にかけん
之れ小石川の田舎にて巳に右の次第
凱旋将軍に対する熱誠の程察す可しではないか
「七時半頃顔も洗はず」絵葉書を買いに行くという感覚は、いまからすると信じられないが、それでも「辛くも最後の一枚」とあるので、他の人はよほど早くから並んでいたことになる。しかし、その一枚はどうやら他の知人のために取っておかれたらしく、その代わりがこの日本橋凱旋門絵葉書ということらしい。
「紀念スタンプ」をお目にかけよう、と書かれているが、このハガキにはただ小石川局の消印のみと京都の受領印のみが押されている。もしかすると別便で送られたのかもしれない。
「紀念」とは、特定の日時に起こったことを、特定の期間に念ずることである。では、この絵葉書の言う「紀念絵葉書」「紀念スタンプ」は何を紀念しているのか。
絵葉書の自筆日付は明治38年12月7日、小石川局の日付は12月8日となっている。明治38年12月7日は、ちょうど日露戦争後の陸軍の凱旋大会が行なわれ、大山巌が満州総司令官として帰国した日である。となれば、文面にある「凱旋将軍」とは大山巌のことだろう。
凱旋式の当日朝いちばんに紀念絵葉書を買い求めようとするその熱狂を、書き手は「凱旋将軍に対する熱誠の程察す可しではないか」と書く。当時、紀念絵葉書を買うという行為を、凱旋に対する「熱誠」に重ねる感覚があったことがわかる。
この年、長期間にわたった日露戦争は明治38年8月からようやく講和会議に移行した。が、8月末に成立した「屈辱講話」の内容に憤慨した民衆は、軟弱な政府に対して9月5日に大規模な「国民」集会を行ない、これが日比谷焼き討ち事件へと拡大した。その記事に、やはり「熱誠」ということばが見える。
国民が屈辱的講和に反対するの声は必ず之を天□に達せざる可からず、熱誠なる国民は予報の如く昨日午後一時より日比谷公園に集会して、決議する処あり、国民の輿望のある処を発表せんと企図す是れ元老閣臣に取っては由々しき大事なり。(中略)
国民は更に激昂したり。さあ国民を殺せ、さあ陛下の赤子を虐殺せよ、露探よ露探よと群衆は叫び出したり。(中略)
集まれる人々の種類を見るに、元老閣臣、其爪牙たり奴隷たる者、売国奴、露探、御用記者等を除きて殆どあらゆる階級、あらゆる職業を通じて実に無慮七八万人、老翁あり老媼あり、うら若き婦人あり、少年あり、是等は皆な其父兄愛子を犠牲としたる人々にして元老閣臣に向つて深き憤りを有し深き怒りを抱ける人々にして軍人、軍属、官吏も亦少からざりき。
(萬朝報/明治38.9.6)
群衆は講和に与する者を「露探」「売国奴」と、非国民として呼び、自らを「天皇の赤子」と呼んだ。そのことで「国民」ということばはリアリティを得た。屈辱的講和という現象によって、逆に、誰がこの国にあって「国民」として行動しているかが問われ、非国民から区別される形で「国民」は創生した。
この後、9月にポーツマス条約は調印され、10月以降に兵士たちは次々と帰還する。凱旋への人々の熱狂は、兵士たちへの報いの少なさを憤る「国民」の精神が裏返ったものであり、弱腰の内閣にかわって自らが兵士たちをねぎらおうとしたものであろう。凱旋や歓迎会に合わせて発行される紀念絵葉書への熱狂は、そうした兵士たちへの「熱誠」によっても支えられていたのだ。
こうした時代の感覚をとらえて始めて、明治38年から39年にかけての戦役紀念絵葉書ブームが理解される。それは単なる絵葉書ブームではなく、「紀念」という行為と深く結びついたものであった。
明治39年四月から五月にかけて神田郵便局にできた、紀念絵葉書とスタンプを求める長蛇の列は絵葉書にもなっている。それはおそらく、日比谷焼き討ち事件に匹敵する、きわめて政治的な「事件」だったのである。
20030812