Paul McCartney「I Don’t Know」のこと

 先行発売された「I Don’t Know」をきいて、ちょっと驚いたのはこの曲に見られるメランコリックな気分だ。若い人が「どこで間違えたんだろう?」と自問自答する歌をうたっているのなら、まあまたやり直しがきくじゃないかと慰めることはできる。でも、もう64才をはるかに過ぎ、70代後半になるポールが、行き先も見えずに迷う歌をうたうとき、それはもう取り返しがつかない感じがする。男女の人形が並んだPVを見ながら、わたしは、ベルリンで我が身を振り返るデヴィッド・ボウイの「Where are we now?」のことをちょっと思い出したりもした。


 いや待て。わたしは「ポール・マッカトニー詩集」を読んでいるのじゃない、ポールの歌をきいているのだ。これはただのゆううつな歌じゃない。周到に踏んでいくBbとEbのあとに「もう無理」でさっと声が高くなってGbに飛躍するとき、そしてその「もう無理」というメロディをベースラインがなぞるとき、そこには逃げ場のない確かさがある。その逃げ場のなさをまたなぞりたくなる。BbとEb。カラスを窓に。BbとEb。犬をドアに。ほら、もう無理だ。詰め将棋の行方をたどり直すとき、もう詰んでいるのはわかっているのに、ひとつひとつ置かれていくコマが示す手の鮮やかさに惚れ惚れとしてしまうように、「I don’t know」の足取りの確かさは何度もこの歌をきき直させる。


 そして、もう無理、の確かさと同じくらい、大丈夫、ぐっすり眠ろう、ということばもまた、確かに響く。もちろん痛みはきえないし、やり直しはできない。でも、「alright」の「ight」が「sleep tight」の「ight」と響き合うことから逃れられないように、大丈夫であることはぐっすり眠ることから逃れられない。Gmを鳴らしたなら、たとえ次がDmであろうともベースラインはFへ降りていくしかないように、このタイトな確かさこそが、「I don’t know」という事態を受け入れる最善のやり方なのだ。だから、終盤に女声コーラスまで入って、どうしてしまったんだろう、わからない、ととどめを刺すように歌っても、この曲はけしてどこにも救いのない絶望的な歌には響かない。わからない、というこのどうしようもなく避けられない事態は解決しないし、痛みも消えないけれど、眠りの確かさによって(まさに「ゴールデン・スランバー」によって)、きっと大丈夫になる。

(ミュージックマガジン2018年9月号 細馬宏通[『エジプト・ステーション』を読み解く」より)

再掲:パルクールとアフォーダンス(2012.12.1)

 人と人との身体関係を研究してきたユルゲン・シュトリークが記述するコロンビアのこどもたちの身体の動きは、ストリートとは何かをまざまざと実感させてくれるものだった。

 コロンビアはゲッセマナの教会の前。昼間は結婚式が行われることもある扉の前の石段が、夕暮れるとこどもたちの集う場所になり、カップルが睦み合う場所になり、携帯で話す者が束の間右往左往する場所となる。

 仲間との会話に飽きた小さな兄妹が、石段の周りをうろつき出す。兄が石塀をよじ登ると妹もよじ登る。兄が石塀を蹴ると妹も蹴る。柱にもたれかかると柱にもたれかかる。こうして兄は次々と「新しいルーティーンを試していく」。彼らはいわば、「アフォーダンスを探索し」「そこで何ができるかを『開示』していく」。 ここで、重要なのは、ただ誰かが一人孤独に環境とつきあっているだけではない、ということ。兄が動くことで、妹はいままでありふれた塀や柱に見えたものに、思いもかけないアフォーダンスがあることを発見する。

 シュトリークはこうした行為をパルクールになぞらえる。パルクールとは、階段、壁、屋根、手すりなど、街のあちこちにあるありふれた構造物を使って、ありえない方法、ありえないルートで駆け抜け、飛び越えていく運動のこと。ダヴィッド・ベルのパルクールを見てみよう。

http://www.youtube.com/watch?v=x98jCBnWO8w&feature=fvst

 ベルの動きを見ているだけで、街の、隠されていた性質が次々と顕わになっていく。わたしたちは、ベルの身体能力にただ驚くだけでなく、そこで明らかにされるとんでもない街の姿にショックを受ける。壁は歩く方向を強制するのではなく飛び越えるためのもの。屋上は旅の終わりではなく、ギャップを飛び越える踏み台となるもの。そして手すりは歩きながらつかまるものではなく、思い切り飛んだ向こうできわどく手をかける係柱となる。  あたかもベルの動きのように、小さな兄妹の動きも、何気ない教会の構造物に隠されたアフォーダンスをあらわにし、「そこではそんなことができるのだ」ということを開示しているのだ。そうシュトリークは論じる。

 学術的なアフォーダンスの議論からしばしばコミュニケーションの問題が抜け落ちることにずっと釈然としなかったわたしは、このシュトリークの議論に胸がすく思いだった。ただわたしたちが動きさえすれば、すぐに環境の不変項が抽出され、アフォーダンスが明らかになるとは限らない。まず、誰かがそこを走り抜け、飛んでみせなければ、そもそもそこが移動できる場所だということさえわからない。そんな誰かの行為を体験したときはじめて、そのなんの変哲もない環境に、抽出しうる不変項があると意識される。ちょうど、マリオがブロックを叩くことで、そこに花があることをプレイヤーに気づかせるように。

 アフォーダンスは、世界の可能性に関する概念だ。しかし、そこにどんな可能性があるかは、単に、一個人と環境との関係に閉じているわけではない。その環境でどんな身体運動が可能かは、自分以外の他者の行為によって明らかになる。そう考えたとたんに、アフォーダンスを介したコミュニケーションの回路が開けてくる。

(2012.12.1 comics & songsに掲載)