ああ、今日は(も)おもろかった。演奏してるというよりは、その場で起こってることを楽しんでました。真夜中フォークミュージックいいね!みんなあのぼろぼろの詩情に触れにいくといいよ。それにしてもボーカリスト木下和重・・・・
posted at 01:32:21
それぞれの作者の「日曜の朝」、楽しかったなー。日曜の朝ばかり集めたくなりました。
posted at 01:36:30
半年間、いい「朝の」連ドラやったなあ。年をとった主人公が節目節目で「おはようございます」と挨拶するのが、「朝の」やった。早起きするようになったオノマチ糸子、交代したての夏木マリ糸子の「年をとりました」、そして今日。
posted at 20:50:09
左上に二つの朝の時刻が表示されるところも、きゅーってなった。10月にこの歌をきいてきっといいドラマだと思ったのだった。半年経ってんな。半年前にこの人がテレビを見ててんな。テレビでないとありえない表現。
posted at 20:53:21
そば/そら、しょうてんがい/しんさいばし、みどり/ひかり。うっかりポエムになりそうな連なりのまんなかに、「しょうてんがい/しんさいばし」というあきないの単語が入ると、わらべうたのような稚気が出て楽しい。今日の朝の連ドラの話。
posted at 22:15:56
そして、「みどり/ひかり/みずのうえ」と続く。みどり/ひかり、だけだと「緑/光」かなと思う。しかし三つ連なると、「緑/光り/水の上」のようでもある。「ひかり」は名詞と動詞のあいだで揺れて、その揺れで声の主が動くよう。
posted at 22:18:29
善作が死んだあとに、仏壇を拝んでた糸子と優子のとこに線香の煙がすうっと漂ってきて、そこから優子が散髪にいかされて変な髪になって隣のおっちゃんとこに行って軍服作る人連れてきて、そこからがーっと巻き戻して、あ、おとうちゃんやな、って気づく回があったなあ。今日は自動ドアがあいとった。
posted at 23:03:20
神田へ。あれこれ資料を買いあさる。宮本常一『塩の道』、たぶん20年前に読んでもぴんと来なかっただろう。いまだからいろいろ考えさせられること多し。スタジオイワトへ。昨日に引き続き真夜中フォークミュージックとの対バン(今日は中尾さんはお休み)。
東京堂書店新装開店。年配の常連らしきお客さんが感想を言い合っているのが漏れ聞こえる楽しみ。一階中央、知の泉には二階堂和美「しゃべったり書いたり」が立ててありました。
posted at 11:35:11
昨日、中尾さんと、なぜかフエキ糊の話になった。幼稚園の頃、大きな黄色い丸容器から、めいめいさじですくってペタペタ塗ったなあ、と。それであとで気になって調べてみたのだが、フエキ糊って、トウモロコシが原料だったのだな。あの黄色はトウモロコシだったのか。
posted at 11:51:36
身振り研合宿二日目。夕刻、横浜に移動。試聴室その2にて、真夜中フォークミュージックとかえる目の対バン。最後は大谷能生くんとウィーアーザワールドにインスパイアされた歌詞をがーっと作る。その歌い出し「おれリッチー、世界ってなんだろう?」。柴田聡子さんの未発表CDをきいたが、すごくいい。来月の対バンが楽しみ。
身振り研合宿@伊東。ひさしぶりの山喜旅館。
昼、食堂の副食に、あげもんがこわれたようなんと、あげもんがこわれたようなんと、肉団子のつぶれたようなんが、小皿の上であわさって100円てのがあった。食ってみたら、春巻の味とカツ丼の味と肉団子の味がした。あれ、うまかったな。
posted at 01:32:55
にゃにゃ。
posted at 08:49:42
にゃ〜。
posted at 12:43:07
にゃ〜〜。
posted at 12:43:44
にゃぎー!!
posted at 15:03:21
さて人になる。
posted at 18:20:35
書類を見ているときに勘定(問題)が高まるとバンパイヤに変身する。月を見ると静まる。
posted at 18:22:53
畑中章宏『柳田国男と今和次郎』(平凡社新書)を読む。遠野物語にあらわれる海辺の話に始まり、白茅会調査、柳田の東北紀行を経由し、後半は今の民家採集、考現学を紹介しながら二人の対照へ。よく渉猟され選び抜かれた引用。関係人物が豊富に盛られ話はあちこちしながら不思議と先を読みたくなる。
posted at 01:06:05
それにしても、昨日の今日、いきなり柳田国男と今和次郎を対比する新書が見つかるとは思わなかったなあ。
posted at 01:07:25
おそらく通常なら、考現学を宣言した今和次郎が柳田国男に「破門」された経緯が二人の対照の中心になるところだったかもしれない。しかし、畑中さんは三陸大津波の物語を追う柳田と関東大震災前後の二人の行動に多くの頁を割いている。
posted at 01:16:14
そして比嘉慂のコミックスは彦根では見つからなかった。週末に探しに行こう。
posted at 01:27:06
nuの戸塚さんが『10年メモ』なるものを出したんだそうだ。10年!そんなに一つの冊子を使い続けることができるだろうか。そもそもメモをとり続けることができるだろうか。あ、でも、考えてみたらweb日記をもう14年近くもつけているのだった。
posted at 01:40:21
試みに10年前の日記を読んでみた。BとSの音の話を書いている。ついこの前書いた母音の話とあまり変わらない。人はなかなか変わらない、ということか。 http://t.co/4BahC6pl
posted at 01:41:37
あまり急いで開きたくないのだけれど、『3.11 キヲクのキロク』を少しずつ。プライヴェートな写真に表れる、その場所を撮る理由。ものや場所があるのではなく、意識の来歴がものや場所に凝っている。その来歴をほどく、小さなほつれのようなもの、
posted at 10:39:09
@kawasusu 最初のところもいいですね。遠野という山あいに、海の物語が流れ着いている。「平地人」の柳田国男が「遠野物語」の中にその海の物語を忍ばせている。そして後に明かされるその命運のことも。
posted at 10:42:35
そうやった、『ファイト』の最後は西原理恵子の絵やったなー。
posted at 10:43:29
三中信宏さんの日録に深くうなずくであります。「研究者がどのようなライフステージあるいは状況にあっても短期的効率のみを要求するのは,一生物個体としての「人間研究者」であることをそもそも否定している.」 http://t.co/oQIu19tF
posted at 12:30:09
さーてーーとーーー
posted at 12:53:32
「さてと」という掛け声はいろいろ言い換えが聞きそうでアル。
posted at 12:54:34
とーさーーかーーー
posted at 12:54:49
へーぱーーどーーー
posted at 12:57:01
掛け声に淫しているとなかなか立ち上がれないな。
posted at 12:57:59
どうしよう ああどうしよう どうしよう (高木東六風)
posted at 17:43:34
おれはもう四月からはにゃーにゃーしか言わん!
posted at 17:45:59
にゃにゃにゃにゃーにゃにゃにゃにゃにゃにゃ、にゃーにゃーにゃにゃにゃにゃん!
posted at 17:46:42
そんなささくれだったオレのにゃにゃにゃ心のもとに、田中美穂さんの『わたしの小さな古本屋』が届きました。ううう。ありがとうございます。
posted at 17:52:50
一〇月二六日革命…(読み始めている)
posted at 18:02:49
ああ、こうやってうろうろしながら読んで、合間にパソコン打つような読書では失礼だ、失礼だが、読み始めてしまった。読み始めたらいかなる状況であろうと読み切る。あたかもポストから手に取った手紙を机に置くまもなく読み切ってしまうように(でもときどきパソコンを打っている)。
posted at 18:07:37
ようやく貯まっていた連続テレビ小説に追いついたのだが、中村優子の第一声はしびれたなあ。ドラマの中でこういうトーンでしゃべる人はこれまでいなかった。
posted at 00:08:22
来年度、講習会の候補地となっている作並温泉が、田沢稲舟と山田美沙の訪れた場所であることを知る。やはり高田宏『雪日本 心日本』による。
posted at 02:55:06
もうすぐ日曜の朝ですが、この、けだるい後悔の気分の中で、Sunday Morning を日本語で口ずさんでみるのはいかがでありましょうか。3/30の歌い替え、課題曲はこちらです。 http://t.co/S2Adu7uc
posted at 03:34:57
海からあがったおひさまで蒸気があが〜る〜。雲になるのだ。雲になるのだ。しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん。川になるのだ。アース!(地球環境高校校歌一番)
posted at 13:11:40
そばを茹でるタイマーを3分ではなく3時間にしていた。やけに粘度を増していくので変わったそばだなとおもっていた。途中で引き上げたので、ただのボソボソのそばだったが、ずっと茹で続けたら、新しい食べ物になったかもしれない。
posted at 14:33:39
どっどどどどうど どどうど どどう ああまいざくろも吹きとばせ すっぱいざくろもふきとばせ どっどどどどうど どどうど どどう (地球環境高校校歌2番)
posted at 15:28:45
今和次郎展@汐留ミュージアム。そのあと月島へ。相生の里古本まつり。彦根に戻る。
ラーメンでも、と一人入った店。席につくとラーメンはなく、居酒屋だった。ビールとつまみでも、と一品頼むと、向こうの女性が高い声で社長をdisり始めた。そして、目の前に鉄板が据えられ、パフォーマンスが始まった。
posted at 00:11:39
向こうの客は帰り、店員がアルコールをスプレーしてテーブルを拭き始めた。わたしが去ったあとも、きっとアルコール消毒される。
posted at 00:23:19
そんな店だが、すこしなじんできた。
posted at 00:24:05
藤井光さんの新作(の前編)を3331で見る。福島の夜。みどりいろの街灯がともるアスファルトに、長いフィードバックの音。動かないカメラは、時間の先を見通さない。空間の距離をとりながら、時間を俯瞰しない方法。
posted at 00:54:56
山形蓮さんの田の浦での聞き取り http://t.co/pps86WHW 、そして小森はるかさん、瀬尾なつみさんの陸前高田での聞き取りは、これから折りにふれて読み返すことになると思う。小森さん瀬尾さんの日記も少しずつ読み始めてます。 http://t.co/zL3nUcbV
posted at 01:55:32
小森さんと瀬尾さんの日記をまだ読んでいる。じつに柔らかい文章だ。びっくりしている。
posted at 04:00:44
小森はるか、瀬尾なつみ、二人の視点を往復する一ヶ月の東北記。慎重に、柔らかく、不意に思い切った考え。いい文章を読んだ。 http://t.co/zL3nUcbV
posted at 10:41:27
俯瞰しないことは、問いを手放さないこと。藤井さんの映画の背後に、しんとした夜があって、そのくらがりにカメラは(まるで暗い観客席にあるように)据えられている。
posted at 10:48:50
山岸さんの番組(ETV特集)には山岸さんが写り込んでいる。そのことで、作品の内外が逆転する。カメラは動くのだが、それは山岸さんが動かされているようでもある。あんざい果樹園の話は、そこに山岸さんが入り込むことで、ドキュメンタリの鍵になっている。俯瞰を許さないもう一つの方法。
posted at 10:53:04
佐藤さん、グスコーブドリ、いよいよですね。可視化される言語空間、ひたすら楽しみ。
posted at 10:55:06
今和次郎展(汐留ミュージアム)。走り出したくなるような展示だった。特に若き日の詳細なスケッチの数々。観察眼と、そしておそらくしつこいほどの聞き取りと、それらを総合する力。たとえば津久井郡内郷村のスケッチ。
posted at 17:06:23
実は、考現学については、以前からなんだか数えることに淫し過ぎている印象があってなじめなかった。著名な『東京銀座風俗記録』を見ても、そのモードの抽出ぶりや数量化の手管に、どうも面白さを感じることができなかった。
posted at 17:09:02
しかし、「日本の民家」時代の、ひとつひとつの家に分け入って物の来歴をたずねるような数々のスケッチ群を見るうちに、その印象は大分変わった。震災後の東京は、こうした物の来歴を持たぬ既製品によって生活が埋められていく時代だった。
posted at 17:18:21
手作りから既製品への過渡期にあって、手作りに込められてきた生活をいかにすくい取るかという葛藤として今和次郎の昭和の仕事を見るなら、『東京銀座風俗記録』のような方法はむしろ、個別の観察へと誘うためのチャーミングな入口に見えてくる。
posted at 17:18:41
関東大震災後、今和次郎がバラック装飾社と起ち上げたときの文章。「そのときの気持ちは、本当になさけなかったからである。仕事をはじめるとなると気持ちが緊張する」。
posted at 17:19:17
汐留から月島に移動。しかしイベントの時間をきちんと調べていなかったため、ゆるゆるもんじゃなど食っているうちにトークショーは終了していらしい。残念なり。『3.11 キヲクのキロク』を買う。
posted at 17:44:16
古本まつりでは高田宏『雪日本 心日本』。ちょうど、今和次郎が中谷宇吉郎らと組んで山形県新庄市に『雪国試験農家家屋』を建てた資料を見たばかりだったから。高田宏が中谷宇吉郎と同郷の石川県大聖寺の生まれとは知らなかった。「雪国人」の雪語り。
posted at 17:48:47
高田宏は『雪日本 心日本』で柳田国男が実は雪国を知らなかったことを指摘し、「雪国の人間がただただ雪の消えるのを待っているというのは浅見である」とし、西日本や東日本といった呼称とは別に「雪日本」の存在を唱える。ふいに、兵庫出身の柳田国男と青森出身の今和次郎との対比が思い浮かぶ。
posted at 18:10:51
そういえば、「冬のある日、ことばのない手紙がぼくに届く」と、まるで中谷宇吉郎の随筆のような歌詞を書いた小西康陽氏は北海道育ちではなかったかしら。
posted at 18:22:19
ワークショップ三日目。宇野さんのウェブ新語の話。午後、東京に出てから3331へ。藤井光さんの映画、山岸さん、藤井さんのトーク。
3331 アーツ千代田で「つくることが生きること」展。「Kさんの話していたことと、さみしさについて」。陸前高田のある女性の話が、ていねいに聞き取られた。向かいでは畠山直哉さんの写真のスライドショー。3月11日以前の風景で構成されていた。大写しでディティールがよくわかる。
posted at 18:55:20
3/30 スタジオ・イワトでかえる目、真夜中フォークミュージック。その歌い替えのお題がmapupにあがってます。もっさりした和訳もヒントに。 http://t.co/S2Adu7uc
posted at 22:48:27
二日目。午前、神田先生の講義。午後ワークショップ。夜、懇親会のあとも学生さんたちもまじえてにぎやかに飲み会。
埼玉、国立女性会館で「言語と人間」研究会(HLC)。介護の動作について話す。
午後は談話分析のワークショップに出る。物語構造のはっきりしたデータでとてもおもしろい。夜は平賀先生の部屋で飲み会。明日も楽しみ。
卒業式、謝恩会。
劇伴もまた物語に開かれている。作曲家がある場面や情感にあてて書かれた音楽が、のちにさまざまな場面で繰り返し使われる。一つの曲はそれぞれの場面の情感に添いながら、次に鳴るときにはそれらの場面を呼び覚ます力を得ている。それがどんな力なのかは作曲家にも予想がつかない。
posted at 02:06:15
@KishinoYUICHI 特にあらかじめバンクを作っておく場合、演出・選曲家の裁量で作曲家の想定を超えた選曲がなされるんじゃないかと思います。多くはステレオタイプな場面構成になりますが、たまに曲が化ける、という現象が起こる。このあたり、ぼくもあれこれお話したいところです。
posted at 11:48:50
これまでは夏木マリの活気と貫禄に隠れていた糸子の「うかつさ」が、江波杏子との短いやりとりでぱあっと浮かび上がる。おもろいなあ。
posted at 16:27:45
奈津に再会するところ、つっけんどんなことばの劇伴よかったなあ。ミシンにマジックがかかるとき、つぼみがほどけるときの曲。
posted at 21:11:56
合格者高校別ランキング、という黄色のけばけばしい表紙をやり過ごし、「サンデーらいぶらりぃ」まで来るとようやくほっとするサンデー毎日。見開きの右に、田中美穂『わたしの小さな古本屋』、左に大谷能生『植草甚一の勉強』。リラックス。
posted at 00:00:45
昼間、音韻の話を書いたので思い出したことを。昔、馬渕和夫の『五十音図の話』(大修館書店)を読んで興奮したのを覚えている。これは、現代の五十音図を振り出しに、五十音図の系譜を平安期以前にまで遡っていくという内容で、橋本新吉の『古代国語の音韻に就いて』 に匹敵するおもしろさだった。
posted at 00:40:27
『五十音図の話』で述べられるのは、そもそも五十音図は、日本語の発音を表すために作られたものではない、という驚嘆の論。仏教とともに伝来した梵語の発音、そして中国の漢字音の発音を、なんとか日本語の発音でシミュレートしようとする過程で現れたのが、五十音図だという。
posted at 00:44:37
かつて漢音の読みを表すにあたって、ひと文字の漢字の発音を、ふた文字の漢字の連続によって表す、というアクロバットが行われていた。これを反切という。たとえば「菫」には「多動」という反をあてる。多 ta +動 d'ung でtungと読む。
posted at 00:52:36
ふた文字のうち、一文字めの頭の音と二文字めの後半の音を担当し、音を表す。いわば漢字の音をパーツに分解し結びつけるセンスが、反切にはあった。しかし、この複雑な反の音を漢字でなく仮名で表してはどうか。梵語を仮名と対応させようとしていた平安の明覚は「反音作法」にこの方法を記した。
posted at 00:58:51
つまり日本語の子音と母音という構造をあらかじめ見抜いていた人が五十音図を作ったのではなく、外国語を手持ちのことばの音韻で表そうとした人びとが、その音韻構造をマトリックスに表し、そのプロセスで日本語の五十音図が見出された、という話なのだ。
posted at 01:02:31
つまり、『五十音図の話』では、外国語との接触をきっかけに、自身のことばの構造をたずねることになった、という歴史が述べられていたのだった。
posted at 01:04:46
さてその「五十音図の話」を紐解くと、あいうえおに関する江戸期の論考もちゃんと載っていて、たとえば賀茂真渕『語意考』には、 ア段:はしめのことば 初 イ段:うごかぬことば 体 ウ段:うごくことば:用 エ段:おふすることば 令 オ段:たすくることば 助 とあるという。
posted at 01:12:21
賀茂真渕『語意考』の「あいうえお」のイメージは、活用を意識したものだが、本居宣長の場合はさらにおもしろい。彼は、漢字の音を表そうとして、あいうえおを「開」「合」の二極で表す。開の極には「い」、合の極には「う」、二つの中間に「あ」をおき、「イエアオウ」と並べる。
posted at 01:21:00
一方、本居宣長は、日本語の音韻を表す『字音仮字用格』で、「軽/重」という二極を使っている。イが軽の極で、ウが最も重い。アは真ん中。「イエアオウ」の順に軽から重。「イエアオウ」を分類するにあたって、軽重の向こうに開/合というイメージが透ける、というネーミングをとった。
posted at 01:29:37
開/合は、唇の位置や運動に即したネーミングである一方、軽/重はむしろ音の意味やイメージに寄り添ったネーミング。これら二つを往復したところが、本居宣長の言語観のおもしろいところ。
posted at 01:33:59
さて、ここまで来ると、昼に考えた「すいー」の語感に現れる抵抗と解放、重さから軽さが、本居宣長的には、口の運動、音韻のイメージと重なっていることがよくわかる。
posted at 01:34:59
本居宣長は外国語である漢語を考える上で口の運動(開/合)そのものを分析的に考える一方で、和語を考えるときにはその響きのもたらす軽重に注意した。その結果、運動のイメージと音韻のイメージとが重なりあうような「イエアオウ」観が生まれた。
posted at 01:40:08
五十音図を事実上編み出した明覚と同じく、本居宣長の国語音分析もまた、外国語との接触から分析的に編み出されたことが、『五十音図の話』からはうかがわれる。
posted at 01:44:02
このような言語観の系譜は、たとえば母国語しか学ぶ必要のない地域の話者にはなかなか理解できないだろうな。
posted at 01:45:42
本居宣長の「イエアオウ」観で、もうひとつおもしろいのは、この分類が、口の横方向の広がりを重視していることだ。現在、開いた口というと、イよりもアやオを思い浮かべる人が多いのではないか。それは口の縦方向を意識しているからだ。
posted at 01:49:43
しかし、音の響きをたずねるならば、口の縦方向よりも、横方向の開かれ方に注目したほうが、その印象のグラデーションがうまく表される。「イエアオウ」という並びには、そういう含意もある。
posted at 01:51:22
アよりもイのほうがよりはっきりと開かれて軽く、だからこそ「いーーーーーーーだ」は最も軽く強烈な反抗の音であり、ショッカーの「イー!」はくっきりとした音でありながら日本語を話すものにとってはとても真面目には感じられない異様な同意に響く。
posted at 01:54:48
と、軽いたとえをあげたところで珈琲館閉店のお時間となりました。うー!
posted at 01:55:41
以前も書いたけれど、糸子の「鈍さ」はドラマの鍵で、それはナレーションにも表れている。天国からでも見るように主人公が自分の居ない場面の説明を加える手法は使われない。糸子が見聞きしないことはナレーションに現れず、そのことで、何が糸子の意識に届いていないかがよくわかる。
posted at 12:22:38
孫娘である里香目線のショットが用いられるとき、ナレーションは休んでいる。里香は糸子の意識(ナレーション)から逃れて、一人黙って店やショーでのできごとを見、今日着る服を選ぶ。そういうショットを積み重ねて、里香の成長や変化が描かれている。
posted at 12:26:02
渡辺あやさんのインタビューに、撮影と脚本執筆は並行で、俳優の演技を見て脚本の進行が変わる、というおもしろい話が載っている。あの主人公(ナレーション)の「鈍さ」はそこでも生きているのだな、と合点した。主人公が物語を支配していないから、キャラクタが自由に動き出す余白が生まれる。
posted at 12:31:56
こんなときは旺文社全訳古語辞典を見てみよう。ええと、動詞の活用形が整理されたのは賀茂真淵より100年ほどあと、江戸後期の本居春庭、東条義門らの時代になるようです。だから賀茂真淵が活用をほのめかしているといっても、今わたしたちが知るものとはだいぶ違うかもしれません。
posted at 13:17:55
動詞の活用、という点から「イエアオウ」を考えるのはおもしろい問題かもしれません。語尾変化によって次にくるできごとのイメージが喚起され、いわんとすることが予測される。その規則に母音が深く関わっているのだから、これは無視できない問題。
posted at 13:20:22
かときち冷凍讃岐うどんにヒガシマルうどんスープという日曜のお昼をキメてきましたよ。
posted at 14:54:02
バスがシッと気を吐く。もうすぐ信号が変わる。
posted at 19:15:22
昨年のF/T、村川拓也『ツァイトゲーバー』。介護士が自分の介護行為を舞台上で再現する作品だったという。まさにぼくがグループホームで観察している現象だ。見逃したの、痛恨だなあ。
posted at 23:09:03
R-MIXをワンポイントステレオマイクで録音した会話データの分離に使えないか試してみているが、なかなか難しい。しかしグラフィックにマスクするこのインターフェースはおもしろいな。データによってはある人の声が聞こえやすくなるときがある。
posted at 01:19:06
先の「君が代」唄い替えの話で、「君が代」にはなぜか「う」段が終盤に偏在する、ということを書いた。そのときにちらと思い出していたのは、「海という言葉は、だれかが昔、海を見て『う』といったからできたのではないか」という話だった。確か『言語にとって美とはなにか』に載っていた。
posted at 14:02:41
「海」を見て「う」という、というのは、指されるものと指される音との間に特定の関係があるということであり、それは、指されるものと指すものとが恣意的な関係を結ぶ、という(よく言われる)記号の性質とはまったく異なる。トンデモ、と思う人もいるかもしれない。
posted at 14:05:44
けれどもぼくは、わたしたちのことばの音韻は、どんな対象に対してもあらゆる音韻が結びつくことができるようには、なっていないと思う。そして「うみ」ということばが「う」や「み」の音によって生き残ってきたことにも、偶然ではない性質がある、というのはトンデモではない、とぼくは思っている。
posted at 14:07:45
「うた」も、おそらくそう。
posted at 14:08:03
音韻がもっとも現象とよりそうのは、擬態語と擬音語においてだろう。口の中の運動は、目の前のできごとを起こしているものとものとの関係、近接性やスピード、つまりは運動の変化とその環境を、驚くほどうまくシミュレートしている。
posted at 14:12:43
「すいすいすーだららった」というときに、「すいすい」という音は、舌と口蓋の狭い空間から何かが危うく通り抜ける「す」の音、そして舌が少しく下りて口蓋との間がやや弛緩した「い」の音とで構成されている。推進力の始まりに感じる抵抗と、その後に脱力して慣性で進む感覚が「すい」になる。
posted at 14:18:20
「すい」と口に出すときに感じられる快楽は、わずかな「す」の推進力を加えたあとにやってくる慣性「い」。平泳ぎでひとかきしたあと、脱力したきをつけのまま水の上を進むときの心地よさ。櫂の静かな手応えのあとに船が水を切って進むのを見る時間。
posted at 14:23:00
「すい」と口にするだけでこの世の現象が実現する。口の運動は持ち運びのできる小宇宙であり、誰かの前でそこにはない現象を再現することのできる劇場である。
posted at 14:25:25
他者の口の運動によって音が生まれるときに、「あ、あれだ」とわかる力、口の小宇宙性、劇場性を、複数の人が即座に理解できる能力が、おそらく、ことばの発生のごく初期にあったはずだ。たぶん最初は、実際にその現象によって生じる音に近い音でなければ、お互いに通じなかったかもしれない。でも。
posted at 14:28:31
少し「下手」な、さほどうまくシミュレートできていない声を聞いても、たとえば「すい」のような声を聞いても、それが身振りや実際の動作とともに発声されたなら、理解することは可能だっただろう。
posted at 14:29:52
さらに、「すい」の「す」という音は「ssssss」と風の音を模したり、「すう」となにものかが通り抜ける動作とともに発せられることによって、イメージの厚みを増していったかもしれない。
posted at 14:33:18
「す」といっただけでもう、そこに風があり、通り抜けるなにものかがおり、水を切るときに肌に感じられる抵抗があり、それが櫂に伝わってくるその手応えまでイメージされるほどに。
posted at 14:34:43
ひとつひとつの音に、世界の現象から抽出された運動が凝っていくにしたがって、特定の音韻から喚起するイメージは濃くなっていっただろう。記号の恣意性は、単なる音韻と現象とのランダムな結びつきとしてではなく、むしろひとつの音韻が担うイメージの豊かさによってもたらされたのではないか。
posted at 14:37:41
誰かと誰かとの間で交わされる音韻イメージの蓄積が膨らんだ果てに、何が起こったのか。誰かと誰か海を見ながら、「う」と「み」という音の連なりを唱えるとき、そこにどのようなイメージの重なりを持っていたのかという問題は、このような点で、切実なものとなる。
posted at 14:42:06
古語を斉唱する時間は、かつてことばの始まりにおいて広がったであろう音韻の意味をたずね、それを誰かと誰かが共有した(しそこねた)場面に思いを馳せる時間であり、そこでは機械のような口の動きではなく、小宇宙を宿す柔らかな口の運動、声によって再現された現象に他者を誘う構えが望ましい。
posted at 15:45:25
儀式において古語の斉唱を司る者は、小宇宙を宿す柔らかな口の運動、声によって再現された現象に他者を誘う構えをいかに産み出すかに、心を配ればよいと思う。歌っているか、立っているか、口を開けているか、そのような皮相な現象に目をらんらんとさせている者のいる場で、それが可能だろうか。
posted at 15:49:10
これ、おもしろいなあ。脚本家・渡辺あやインタヴュー(前編) http://t.co/EfXLFRvI
posted at 20:39:40
大友さんが芸術選奨に選ばれた。おめでとう!受賞理由は「プロジェクトFUKUSHIMA!」に関することで埋められている。文科省はこのプロジェクトがいかなるものだったかについて今後も真摯に問い直すことになるだろう。PDF: http://t.co/92gFnVIZ
posted at 01:54:03
賞は、受け取る人よりも与える人の未来を問う。なぜなら与える人は、なぜ自分が与えるかを知らないからだ。
posted at 12:35:55
多くの賞がそうであるように、「芸術選奨」もまた、文科省なる抽象的な存在が選考したわけではなく、数人の選考審査委員によって選ばれており、それが誰であるかもpdfで公表されている。おそらくそこではわたしたちが目にする「選考経過一覧」よりも具体的な議論がなされたのだろう。
posted at 12:39:46
しかしこれまた多くの賞がそうであるように、公表される文書を公正かつ事務的なトーンで統一する過程で、本来の作品やプロジェクトが持っていたディティールはごっそり切り落とされ、キーワードをつなげた目黒のサンマのような受賞理由が最後に残る。
posted at 12:42:27
(ちょっと急な仕事が入ったので中断しました)
posted at 13:31:17
だから、贈賞理由にある「故郷 福島で「ポジティブな未来像」を描き」も「福島から新たな文化を創造するために」も、全くの間違いというわけではないにもかかわらず、プロジェクトに参加した人なら感じたであろう、さまざまな矛盾する感情がすっぽり抜け落ちているように感じられる。
posted at 13:32:34
そして多くの場合、賞状を渡す人は何も当該の作品やプロジェクトをつぶさに見ているわけではなく、この、すっぽり抜け落ちた文言をもとに、とりあえず賞状を渡すに過ぎない。
posted at 13:36:56
もちろん、この賞にたずさわった公務員の中には何らかの見識を持った人がいるのかもしれないし、選考の過程で「文科省」という権威について何らかの配慮をほどこそうと考える人もいるかもしれない。が、今回の大友さんの受賞に関しては、たぶん、緻密な権謀がほどこされるほどの話ではない。だって、
posted at 13:39:19
プロジェクトFUKUSHIMA!に賞を渡すなら、プロジェクトじたいを贈賞対象にすればいいし、ミチロウさん、和合さん、大友さんの連名にするような配慮があってもいいはずだからだ。おそらく選定のどこかの過程で、そういう配慮がもれるような漏れかねじれがあったのだろう。
posted at 13:42:58
賞は、作品やプロジェクトではなく記号なのであって、そこに深みを求めても、紋切り型の意味以外何も発生しない。むしろ賞を通じてプロジェクトを知った人は、受賞理由にその本質を求めるのではなく、実際のプロジェクトに近づきに行けばいいと思う。
posted at 13:47:46
プロジェクトFUKUSHIMA! のサイトにいけば、このプロジェクトが進行形のできごとであることがわかる。 http://t.co/pwqm5lFA 昨年のイベントについては青土社のクロニクル、磯部さんのルポ。映像では、NHKのドキュメンタリ。いまは藤井光さんの映画が上映中。
posted at 13:53:24
(また仕事が入っちまった)
posted at 14:16:24
賞を与える人は、その意味を、事後に与えられる。進行形のプロジェクトによって、それについて考える人びとによって。
posted at 14:16:55
文科省(という記号)は、プロジェクトFUKUSHIMA!に賞を贈ることで、選定に携わった人にも予見できないような形で、意味を与えられる存在になった。ぼくは、昨年8月15日に訪れた多くの人の一人としてこの先に起こることを楽しみにしています。
posted at 14:24:04
ブラザーズ・フロム・ザ・ファースト(ぴんから兄弟)
posted at 17:01:19
波止場兄弟(ブラザーズ・クェイ)
posted at 17:16:32
愛破奴
posted at 18:20:32
愛不穏
posted at 18:20:44
iI
posted at 18:21:33
(おさるさんだよ)
posted at 18:21:45
顔本
posted at 18:28:50
ときに、顔という字は願いに似ているな。あとで白川静先生の本をひもといてみよう。
posted at 18:30:37
わたしの顔いをきいてちょうだい。
posted at 18:32:12
わあ、澁谷さんの詩読んでるおれ、かっこいい。いや、詩がかっこいいのだ。
posted at 21:20:12
ああようやく前の日曜日を取り戻しつつある。
posted at 21:37:01
顔のへんは「彦」。常用字解によれば、彦は一定の年齢に達した男子が額に美しい文身(朱色などで一時的に描いた入れ墨)を描いて成人儀礼を行うことを示す字。がんだれは額、その上に文の字の入れ墨、下の三つの線は色や形の美しいことを示す記号。成人に達した男子(ひこ)のこと。
posted at 22:43:40
彦根に居ながら「彦」のことをしらんかったな。ひこにゃんは、成人男子にゃん。
posted at 22:44:21
頁は儀礼のときに礼拝している人を横から見た形(常用字解)。ひこの礼拝、そのかおつきが「顔」。
posted at 22:46:10
これから「彦」の字を見たら、上半分は額の入れ墨だと思うことにしよう。下の三本は、「☆ミ キラーン」とかに近い感じ。
posted at 22:49:08
3/29は横浜試聴室で「替え歌スター誕生」、3/30は東京イワトで「日本語で唄いカエル」、かえる目と真夜中フォークミュージック((植野隆司・三沢洋紀・ゆっこ)による古今東西の唄い替え。3/30には替え歌ワークショップも。詳しくは http://t.co/0eHVvw66
posted at 12:37:06
田の浦で3月11日に行われたキャンドルナイトの模様。 http://t.co/2io0opgI
posted at 16:31:57
あー。 http://t.co/D1OcmqwK
posted at 16:36:45
3/29(横浜:試聴室その2), 3/30(東京:イワト)で行われる「唄い替え」とは何か?とお思いの方に。たとえばこんな歌をこんな歌詞で歌います。「青い月」。 http://t.co/P97Nfgn3
posted at 17:10:13
アメリカホウの実。風で転がってきて、ここにはまったらしい。 http://t.co/JcvPLwrE
posted at 17:42:07
こんなロケーションで。 http://t.co/j7mJOi3v
posted at 17:43:33
今日は風が強かった。長浜では雪だった、と、看護実習の先生。 http://t.co/Hb4a1urh
posted at 20:43:33
夕方に書いた「アメリカホウ」、ほんとは「アメリカフウ」だった。ホウじゃなくてフウ。
posted at 22:34:19
顔洗うにもコカコーラ(アメリカフウ)
posted at 22:35:07
会議会議。那須先生の退官記念パーティー。
この東風、すばらしすぎるなあ。 http://t.co/3wjwj7BW
posted at 17:22:51
懸案の論文がかえってきた。どんどん赤を入れて再投稿。
こちらはEttといぬんこさん。「楽しや汽車の旅」動画。 http://t.co/7mBkn9F6 RT @gabin 行きたいぜ。。。 おかめ列車で行く 〜目白ポポタム おかめ祭の旅〜 http://t.co/ROa6YhdH
posted at 04:21:08
意味は問うな ひとりはひとり 語れ日記を 詩はノート借りて 声をぶつ場で #声を出さずに唱えると国歌に見える
posted at 11:06:35
今日良かったやん、朝の連続テレビ小説。
posted at 12:00:06
3月3日のほっしゃん。のセリフがきいとったなあ。
posted at 12:02:27
ねむ毛が生えてきた。
posted at 14:59:56
うぶ毛がそそり立つ、という歌もあったなあ。
posted at 15:00:35
ねむけがそそりたつ。
posted at 15:01:01
ねむ毛立ち 身を横たえる 憂き春日
posted at 15:06:56
日々啼こうか きっといいわ 愛しサタデイ 四季の庭の隣で ホケキョぶる真似 #口元を見ると国歌に見える
posted at 17:47:10
リミッター動作ひどいな ひとり鳴らせ キーを ギターソロなしで 俺のブルーマンデー #口元を見ると国歌
posted at 20:15:03
@KishinoYUICHI わはー、この考えが岸野さんとかぶるとはおもろすぎる!
posted at 20:44:45
@KishinoYUICHI 意外にハリウッド向きかもしれないです、ジュードー着コミック。東京に出てきたのに「むっつ」は「どばっと丸裸」というところも、どぼちてどぼちて、です。
posted at 20:49:37
@KishinoYUICHI ぼくはどうも洋楽を歌い替えるのと同じ頭で作ってるようです。志、低っ! しかしカタカナ語を入れるとメロディの特異さが際立つのは発見でした。
posted at 21:00:11
@KishinoYUICHI 作ってみて気づいたのですが、う段が妙に少ないのですね、君が代。最後の「むーすー」に偏在する。あきのたのかりほのいほのとまをあらみわがころもで「つゆ」に「ぬ」れ「つつ」。あ、やっぱり終局に偏在。閉じる感覚か。ということは「『う』た」、は開く感覚?
posted at 21:46:00
@detunedetune 斉唱って!「オ〜レ〜の〜」で大太鼓がどん、どん、どん、ときますね。
posted at 21:54:21
朝6時品川発。彦根で試験監督。さすがにくたびれる。
社会言語科学会大会二日目。午後に黙祷の時間。発表を終えて夕刻、池袋に移動。
南池袋ミュージックオルグにてyumboとのライブ。かえる科は前座ということもあり、へんなリズムであっさり終える・・・はずが、「前のクリスマス」で木下くんが暴走し楽しい展開となった。
澁谷さんの、唐突にやってくる詩のような説明で始まるyumboの曲また曲。静かで確かな足取り。
宿に戻る途中で、ふと、Twitterで見かけた西荻窪のカフェに寄ってみる。店主は仙台の人だった。ぽつぽつと不思議な話をされる。珈琲をいただく。
社会言語科学会大会一日目。桜美林大学は意外に遠い。
夜、渋谷に移動。かえる科のリハ。スタジオを借りてリハなんて何年ぶりだろう。しかもドラムもミキサーも使わず。アンプを通しているのは宇波くんのギターのみ。駅前のスタジオは2700円/1h。値段に見合う使い方だったとは到底言えない。
東京で雨に濡れる人をよく見かけるようになった。
posted at 00:03:42
夜半を過ぎても満員の横浜線に乗りながら「東京フォールアウト」ということばを思いついてしまう。もう落ちきった fall out。雨に濡れてもよい。濡れてもよいここに、こんな時間、こんなに人がいる。談笑の声がひりついている。雨が流したものの上で揺らされている。東京フォールアウト。
posted at 00:39:34
コンビニで夜食を買うワタシの頭上に、「処女航海」のテーマ高らかに鳴る。
posted at 01:44:06
強烈な眠気きた。今日は珈琲飲んでなかった。ワタシダケ?
posted at 17:51:42
予約は売り切れたそうですが、明日は南池袋ミュージックオルグで、yumboとかえる科ですよ。
posted at 23:08:18
@KishinoYUICHI 小梅ちゃん、なぜかいま、川崎のぼる描く「いなかっぺ大将」の涙と比較してみたくなりました。重力と張力でできたアメリカンクラッカー。涙の系譜、いいですね。
posted at 23:57:02
浅草へ。お世話になった旅館にちょっとご挨拶。今年で閉められるという。
久しぶりに以文社宮田さんと飲む。宮田さんは『浅草十二階』『絵はがきの時代』単行本の産みの親。
まだ果たしていない約束がある。今年はなんとかしたい。淵野辺のホテルへ。
好きなキャラクタがおらんようになって、電話がリンリンやなくてトゥルルルって鳴って、ワープロで書かれた企画書差し出されて、さみしさに肌理のないのんがさみしい、孫のなけなしのクリスマスケーキがぶいんぶいん言う音でつぶれて、そのつぶれたんを噛みしめる80年代。ええ脚本やなあ。
posted at 11:11:34
読むのが遅くなっちゃったけど、週刊ポスト3月9日号に「復興の書店」。ジュンク堂仙台ロフト店の佐藤純子さんがどーんと写ってました。書店取材に16ページ割かれ、読みごたえがありました。
posted at 15:17:52
11日の発表の準備。東京人の原稿15枚。
そういえば昔、プリン&キャッシーのやってた「パクパクコンテスト」で夏木マリの「絹の靴下」を妖艶にやってた男の子がいたなあと思って調べたら、のちにユーミンのバンドでベースを弾いてるので驚いた。
posted at 00:48:22
桂雀々『必死のパッチ』を読んだらプリン&キャッシーの番組が出てきたのにも驚いたなあ。あのバタバタしておもろい子が後の雀々さんになるとは想像だにつかなかった。
posted at 11:34:31
「プロジェクト」ということばを、語源にヒントを得て「投射」と訳したのは誰だろう。含蓄の深いことばだが「forward」感が薄いのが惜しまれる。「投射X」と行ってもどこかそぐわない。会話分析で飲み込みにくい概念の一つ。
posted at 11:38:07
現象学の術語を借りて、「project」を「投企」とするのはどうか。これもかなりゴリっとして頭に入りにくい。「ここに噛み砕きにくい(注意すべき)概念がある」ということを示す意味ではいいのだが。たぶん「企」という字のイメージが、ピンとこないのだ。そこで。
posted at 11:52:50
「企:人が踵(かかと)をあげて立つ形。(中略)かかとを、わが国の古語で「くは」「くはびら」という。鍬先の曲がる形と似ている。踵を立てることを「くはだつ」という。かかとをあげ、遠くを望むのは、他に対して何らか画策するときの姿勢であるから、ものを企てる意図となる。」(字通)
posted at 11:56:32
やはり白川静先生はすばらしいな。
posted at 11:56:47
「企」の字を、人の下に足のある形、つま先立って遠くを望む形に見ると、projectの感じが出る。「企業」「企画」といったことばが手垢にまみれすぎているため、こうした「企」のイメージがわきにくいが、「企」には「企踵」(きしょう:つま立ちする。願い望む。)という語もあるという。
posted at 12:03:18
そういえば、R2D2って、足つきプロジェクターにもなる。「企の字」って呼びたい。 http://t.co/VEzrs3Lu
posted at 12:11:59
だいぶ「企」の字に慣れてきた。
posted at 12:13:37
会話分析の「project」が分かりにくいのは、それが人によるものではない、という点にある。話者の意図やこころを会話分析では扱わない。話者ではなく、発せられたことばが何かを「project」する、と考える。ことばがあちこちで「企」の字に立ち、聴く者に先を望ませる。
posted at 12:27:59
いっそ「projection」の訳語は「企」でよいのではないか、という気がしてきた。projectは「企する」。projectorは「企の字」。projectabilityは「企の可能性」もしくは「可企性」。
posted at 12:34:36
そういえば、「外」は「と」、「門」も「と」ですね。
posted at 12:46:33
「胆」は「い」、「眠」「寝」も「い」(いぎたない、の「い」)。
posted at 12:48:32
眠っている間にヴィジョンが忍んできてその種が頭に植えられていた、という「Sound of Silence」の詩は、ひとことで言うと「い」なのかもしれない。
posted at 12:50:16
こう考えていくと、漱石の時代に「ふと」が「不図」とあてられていたのは、実に趣深い。
posted at 12:51:06
「ふ」は「経る」の「ふ」。時を経る。古くなる。(この辺、「字訓」に依ってます)。「ふと」は、漢字から言えば「図」の否定なのだが、音から言うと時間の経過を伴う外への志向のイメージ。
posted at 12:57:02
「ふ」と息を吐く。唇はていねいにすぼめられる。「ふ」く。遠くへ届く。ふきようによっては笛になる。音が遠くに現れ、遠くで消える。出現と消失。おそらく人間の創造で語られる命の息も「ふ」ではなかったか。 http://t.co/pTiv4u0e
posted at 13:04:50
子どもの頃、火を吹き消すはずの「ふ」の息で、逆に火が燃えさかることがあると知ったときは、何か不思議な気がしたものだ。
posted at 13:14:03
呼気をことばの中に盛り込んでいる言語には含蓄があるな。フランス語ではなぜHを発音しないのだろう。呼気に対する禁忌でもあるのだろうか。
posted at 13:18:03
ちょっくら飯を食ってきますよ。
posted at 13:32:48
先日、研究会で、文楽の人形遣いである吉田勘彌さんと研究者の森田寿郎さんとのお話があったのだが、そこで人形遣いの間で行われる動作のことが話題になった。主遣いは人形の頭と右手を動かしながら、左遣いに対して次にどんな動作が行われるかを伝えるのだが、その動きを「ず」と呼ぶ。
posted at 14:36:47
文楽の「ず」は、主遣いの人形動作の中に埋めこまれたもので、人形の頭部や肩などの動きに現れ、左遣いはその「ず」を見ながら、次はおじぎだな、ここは歩を踏み出すなと判断して左手を動かす。ところでここでおもしろいのは、「ず」に先だって「ほど」なる動きがあるというのだ。
posted at 14:38:45
「ほど」は「ず」の先触れとなる動きで、それだけでは先の動作の手がかりにはならない。体がくっとあがったり重心が変わったりする微細な動作。そういえば、人形が動き出すと、ううっと震えるような動作が見られることがある。勘彌さんは「『こっち注目』みたいな指示」とおっしゃっていた。
posted at 14:41:08
相手に何かを伝える動作の最初に、(トマセロのいう)注意獲得行為のような動きがくるところがおもしろい。主遣いの遣う人形の動作には、いわば、一連の所作の中に、左遣いの注意を惹き、次の行為を企す project 要素が埋めこまれている。
posted at 14:44:26
「ほど」と「ず」の関係のことを考えていくと、それは子音と母音との関係のようでもあるなと思いつく。母音が何かを伝えるとき、その起点で相手に注意を向けさせる「ほど」としての子音。
posted at 14:47:49
子音のおもしろいところは、注意獲得の性質があるだけでなく、触れあわされる物質の材料性や摩擦感が埋めこまれていることだ。もれいづる気が開口部をふるわせ、その気をもらすものの持つ固さ、厚さ、狭さが表される。注意は固い/柔らかいもの、厚い/薄いもの、狭い/広い場所へと誘われる。
posted at 14:52:27
@yokomoling いやあ、どうでしょう。エスノメソドロジーや会話分析が生成文法からことばを借りるというのは、ちょっと想像しにくい。むしろ現象学から来たと考えるのがストレートな気がしています。
posted at 15:03:32
@yokomoling なるほど、日本語訳のほうは言語学からの影響があるかもしれないですね。生成文法の場合は時間に沿った発話連鎖構造を問題にしていないので、「投射」でも問題はないと思うのですが、会話分析では、時間の感覚がないとちょっと困る感じがします。
posted at 15:26:26
一つの問いは、その問いに答えてもらう以上のことを企していることがある。たとえば「今、ヒマ?」という問いは単なるイエスノーの返事を企するだけでなく、その先で何らかの依頼や誘いをすることを強く企している。
posted at 16:24:53
次に何が行われようとしているかはっきりとした形をとらない問いもある。たとえば「私にできるでしょうか」という問いはもしかしたら、問いへの答えだけでなく、もうしばらくここにいたいことや、もう少しやりとりを続けたいことを企しているかもしれない。
posted at 16:28:45
直枝さんは何度「そっちの『カーネーション』じゃねえ!」と思われたことであろうか。
posted at 16:43:35
「連続テレビ小説」(夏木マリの声で)
posted at 18:03:27
酒井さんたちの「概念分析の社会学」あとがきで主張されていることは、身体動作分析にも重要だ。単に「会話分析」と非言語コミュニケーション研究とを混合するのでなく、規範の運用技能と方法がどのように身体に表れているかを考えるために。 http://t.co/9NCT8BTA
posted at 18:50:36
こ、これは… The Smith "This Charming Man" ニンテンドーバージョン http://t.co/iGCoy7Am
posted at 20:06:19
"This Charming Man" ("The"は間違い。痛恨なり。)のニンテンドー版、みじめな私のもとにチャーミングな車現る、というときにスーパーキノコ食った音がするのがよいですね。
posted at 21:23:13
SiriはやっぱりELIZAのこと知ってるんだなー。ELIZAって言ったら教えてくれたわ。
posted at 21:36:19
「あなたは人間ですか?」「私はアシスタントです。肝心なのはそのことだけでしょう?」という返しが、ELIZAっぽいなあ。
posted at 21:41:53
会議会議。
さーてー、今日こそあれをやらねーばー。
posted at 17:49:18
夏木マリの非関西弁的間に慣れつつある。
posted at 17:55:03
あの、そこにはいない人のマジックがかかるときのシタールっぽい音楽はいいですね。
posted at 17:56:17
尿が多いとき、尿パッドを二枚重ねるとしたらどう使うか。介護者によってその答えは違うのだが、それは身体で話し合われる、という話を、「訪問看護と介護」に書きました。 http://t.co/Z4svr8dr
posted at 18:03:26
ことばのスピード感は速度にあるのではなく、緩急、つまり加速度にある。抑揚を丁寧にたどろうとすると、加速度が失われる。夏木マリの独白にもう少し加速度が欲しいと思うが、一方で、この加速度の欠乏感、プラスチック感で昭和60年を測るんやなと思いながら見ている。
posted at 18:14:14
HCS合宿続き。結局、浜名湖にもどこにも遊びに行かず、ずっと合宿地にいた。
風呂上がりに頭傾けると、耳の奥から温められた水が、川のよう。ほんとうはひとしずくなのだろう。
posted at 00:12:58
浜松がえらくあったかいと思ったら彦根もか。春か。
posted at 18:03:35
たそがれどき、ふと、共感を得る必要のない考えに「それって私だけ?」と添えてみたくなったの。
posted at 18:36:31
コーヒーを飲みたい。それって私だけ?
posted at 18:36:50
夕刊を読もう。それって私だけ?
posted at 18:37:04
夜が来た。それって私だけ?
posted at 18:37:19
ワタシダケ。食用。食べ過ぎると、私だけなのか不安になる。
posted at 18:37:49
矢切のワタシダケ。
posted at 18:47:37
ワタシダケ山頂からお送りしております。
posted at 18:48:14
ワタシダケ ←ヒメワタシダケ
posted at 18:49:22
いろいろと やらねばならぬ ことがある (575)
posted at 19:00:48
だがしかし あたまにゃくだらぬ おもいつき (575)
posted at 19:01:37
あ、7じ。もうこのみせも しまるとき。
posted at 19:02:06
小学校二年のとき、同級生の宮崎さんから母親宛てに投げ手紙が届いた。「おかあさん、ホソマくんは机の中に給食のパンをいっぱいしまっているのでこまっています。」いまだに苦手なものを見えないところにしまっておく癖が治らない。
posted at 19:17:00
そんなわけで、録画していた今週の「カーネーション」をおそるおそる見ることにするか。
posted at 19:17:30
「カーネーション」で尾野真千子が絶妙に演じていたくだりのひとつに、ナレーションが知らん間にひとりごとになっている「めぞん一刻」メソッドがあったが、あれはかなり高度な技やってんな。
posted at 20:10:33
部屋を出てしばらくして戻ったら、トラックパッドの上に、抜けた猫の爪。
posted at 21:49:34
浜名湖にてHCS合宿。じゃんけんの相互行為について話す。大坊先生、根ヶ山先生とも久しぶりにお会いする。文楽の吉田勘彌さんの話はおもしろい。主遣いが左遣いに動きを伝えるときの「ほど」と「ず」の概念。
昨日は、ほたてあかりのろうそくに灯をともし、語りの会のみなさんの昔話を聞いた。数十分にわたって昔話に聞き入るという体験はなかなかないが、いいものだった。声を頼りに組み立てられる情景は、声のありかを探るよう。山姥が呼びかけ、森のカラスが呼びかける場所を思い浮かべる。
posted at 00:35:20
東北は昔話の宝庫だという。「日本昔話通観」という80年代に編纂された28巻のうち、近畿圏は細い一巻。それに対して岩手は一県だけで分厚い一巻を為す。宮城も一巻。
posted at 00:38:02
雑誌『日本語学』に「考えを表しあう身体─会話のなかのジェスチャーと身体動作─」を寄稿しました。お年寄りの回想法で身体がいかに用いられているかを分析しながら、ジェスチャー研究の仮説をいくつか紹介しました。 http://t.co/7L1SFyKK
posted at 21:46:39
カフェ朴にて、「ほたてあかりの会」。東北の昔話をろうそくのあかりで聞く。これは実にいいものだった。ついで山形蓮さんによる宮城県田の浦での活動報告。これまた、詳細な聞き取りに裏打ちされたよい話だった。最後に三曲ほど歌わせていただく。
帰ってから明日の発表の準備。なんだか発表ばかりしているな。
わかめの歌できた。しかしまた、自分でよう演奏せえへん歌作ってしもた。
posted at 10:22:53
ギターはコードしか弾けないでずっときたから、コードを弾かない伴奏をしようとしてもうすら寒くきこえる。そこをぐっと我慢してしばらくやってると、ギターが三味線の爪弾きに聞こえくる。あ、ここなんやな。
posted at 11:39:00
多賀の一円邸にて、回想法でのジェスチャーについて話す。帰りに山ほど野菜をいただく(この謝礼はうれしい)。
いまハラカミさんの曲がかかってるところ。 RT @kbs_jamjam 大友良英のJAMJAMラジオ 100回めの放送が間もなく始まります! #kbs_jamjam
posted at 00:45:16
「あらたにす」の終了お知らせ画面は、なんとなくテレビの「しばらくお待ち下さい」っぽいなあ。 http://t.co/OFmHfvJI
posted at 01:34:04
気がついたら北村が勘助みたいに居るがな
posted at 18:23:56
善ちゃんが垣間見えるのはあの二人の向こうで、その見え方もよかったなあ。
posted at 18:27:51
などといまごろ書いているが、実は朝に見たのを反芻しているのである。
posted at 18:28:33
今朝は多賀の一円邸で回想法と所作のことをお話させていただいた。帰りに野菜をどっさりいただいた。
posted at 18:30:26
久しぶりに渋谷さんにお会いした。多賀大社には各地から講が集まったので、渋谷さんの研究されている道標は、その講のまさに道しるべとなる。現在明らかになっている道標をプロットしていくと、多賀大社に放射状に道標が並んでいる。
posted at 18:33:52
わし、宮川大輔くらいあせってカーネーションの感想言うてんな。
posted at 18:53:40
久しぶりにBBC(びわこ放送のほうね)見たら、「電車すわれたか?」のよし子さんが子連れになっとった!
posted at 19:39:01
昨日、控室に行ったら、いつもカーネーション話をする職員の方が開口一番「ほっしゃんがついにコクったのにスルーでしたね!」とにこにこ。しかし、木金と早朝出張で見ておらず、口ポカン。ね、ねたバレ…。 でもあのカーネーションの無茶な量、予想がつかんかった。
posted at 19:47:44
品川6時発、といういつものパターンで彦根へ。会議会議。
昨夜、あらゆるダジャレは恥ずかしくないと確信したが、あれは気の迷いだった。
posted at 06:50:11
CISCOでVNV大会。聴者、ろう者の遠隔会話を比較分析するというセッションで、ぼくは聴者の分析担当。これは無類におもしろかった。アイディアがどんどん出る。
夜、とあるメンバーでカラオケに。数年前、結局徹夜をした危険なメンバー。東山くんが岡村ちゃんをほぼ歌えるということが判明。岡村ちゃんを歌える人に悪い人はいない。
ペアイルカ…
posted at 00:28:36
東京駅。なんかあったかいな。本当に昨日雪降ったの?
posted at 10:16:56
しじみのCG見ぃ〜
posted at 20:27:12
ひらめのヒーラーめ
posted at 20:29:42
カレイ臭
posted at 20:31:33
かいわれかい?ワレ〜
posted at 20:34:11
もうおわかりかと思いますが、居酒屋からお送りしております。
posted at 20:35:07
スタジオジドリ
posted at 20:36:22
既知との遭遇
posted at 21:05:23