この年になると夜更かしがこたえますわ。しかしさらにへとへとこなすぜ講義。ジェフから引き続き長いインタヴュー解答。ブルース・ハークスの話とかビデオゲームの話とか。おもしろいんだけど、これ、全部のっけられないだろうなー。
聞いたことなかったファジル・サイの「春の祭典」、ええやん。わー、手で弦おさえてミュートしてる。おまけのビデオクリップに入ってたガーシュインとバッハが相当よかった。ガーシュイン集って出てるのかな。かなり聞きたい。
「浅草十二階」何度か読み直して数ヶ所ミスを発見。この読み直しを出す前にやっときゃ、理屈の上では防げた間違いだ。なのに、出す前はテンパってて気づかない。とにかく正誤表を作って公表しよう。
へとへとの季節。朝からへとへとこなすぜ。講義、ゼミ、ゼミで夜はゼミの新入生歓迎会。一次会の居酒屋がうるさくてちょっと閉口。みなさんを家に招いて二次会。はじめっからそうすりゃよかったかなー。あまりの大人数に猫が押し入れでごーごーうなってた。
先日タワレコで買ったファイヤーアーベントのプライベート録音CD。オペラや映画やTV番組の話をしゃべってるだけなんだけど、声を出すことをいかにも楽しんでるその語り口に、思わず通して聞いてしまう。ファルスタッフの筋を話しながら、レコードをかけに行く、その間も楽し。
クリネックス、またはリリパット。なんと二枚組で登場。岡崎京子を初めて読んだ(『ヴァージン』だっけな)ときのようなすがすがしさ。
どうにも我慢できなくなり歯医者へ。レントゲンを撮るとき「はい、これ一周しますんで」と言われ、感心する。ここのレントゲンは頭のまわりを一周して撮影するのだ。いや、レントゲンの機能に感心したんじゃない。「一周します」と言われてカメラが動き出した瞬間、ぼくは頭を前後にも左右にもしばらく動かさずじっとすることを覚悟したのだが、そういう覚悟を「一周します」という短いことばで的確に引き出す歯科衛生士のねーちゃんの指示にぐっときたのだ。ぼくだったらきっと、「これ、ぐるっと頭のまわりをまわりますんで頭動かさないようにしてくださいね」とかなんとか長々としゃべってしまうだろう。
で、そのでかいカメラが頭をめぐって撮影したのは奥歯の黒い影で、「手術しますね」と言われる。「歯を抜きますね」じゃなくて「手術しますね」。一大事なんだろうか。そして口の中に注射針が入ったかと思うと、何か、おもらしをしてしまったような冷たい感触が歯ぐきのあたりに広まって、確かなことはわからなくなった。途中で口をゆすぐときそっと舌で触ったら、奥歯にびっくりするほど深い穴が開いてた。もはや歯っていうよりあご骨まで行ってるんでは。そりゃ大げさか。
しかし、今の歯医者って、あの脱脂綿を茶色い液に浸してじじっと焼いたようなやつで消毒したりしないんだな(いつの話だ)。歯医者っていうと、あのヨード色の脱脂綿の焼ける匂いなんだよね。
小さなねじを切った針みたいなやつが何本も深い穴を出たり入ったりしてるみたいだったが、痛みらしい痛みもなく、いっそどうなってるのかテレビ中継してほしいくらいだった。なんというか、ここぞ我慢のしどころっていう痛みのクライマックスがないもんだから、自分がいま「手術」の何合目にいるのかよくわからない。
で、なんとなく先生の手が空いたと思ったら「おつかれさまでした」と言われ、うがいをうながされる。ここが頂上か。
レントゲンを見せてもらったら、全部の歯が水平に並んでた。口中パノラマ写真。なんでも神経を3本くらい抜かれたらしく、拡大された奥歯の穴にはなるほど白い糸みたいなもんが3本出てた。
演習は今日もドア開け行動観察。時系列に注意することを喚起する。
大学のドアは重たい。開けたドアを調節するためのさまざまな動作。開けきったドアのへりに左手を添えてドアの速度を測る人。肩と腕を差し出してドアを支えるように出て行く人。ドアが慣性で開いていくところを狙ってスピードアップして出て行く人。などなど。
二人並んでドアに近づくとき、どちらがドアを開け、その役割をいつ引き継ぐか。
支点がどこにあるか分からんドアを作ったらおもしろかろうな。
夜、かなり歯痛。ビール飲んだらさらにキビシクなってきた。
SLUD用原稿。へとへとこなす。なんとなく歯痛。
ちはるの多次元尺度構成法に「人はなぜコンピューターを人間扱いするか」評。すなおにうれしい。
今日も朝からテアトル新宿。
『俺に賭けた奴ら』南田洋子のマンションで回り続けるポータブルプレーヤー、かっこよすぎ。これほど酷薄なレコードの撮られ方がかつてあったであろうか(いやない)。車の屋根もリングも回る。キャバレーの赤、マンションの赤。ベッドに立つトレーナーの過去告白シーン、バックに娼婦館?JOKER。この別世界が勝手に進行してる感じ。シネスコ回廊シーンのあとには館内から思わず笑いが漏れる、清水まゆみの柱ぶつかり。そして、奇想天外な8ラウンド以降は、めくるめく乱闘シーン、そしてエキストラ総動員のラスト合唱。耐えられずに出ていく洋子はやがて「あしたのジョー」に再登場? リングサイドの恋人の「ねえ、この声が聞こえる?」というセリフは、ほとんど清順映画そのもの。
『密航0ライン』ええと、標的をライフルのファインダでアップにしていくのってこの映画だっけ?(すでに記憶朦朧)で、そのアップされるのが「注意」とか「事故」とか「多発」とかなんです。ファインダで観る必要なし!必要ないものを観るのが映画だ!で、川沿いで長門にあしらわれた小高雄二が屋台をすぎていくワンカット。ウグイス嬢の上に試合のスクリーンプロセスと、異世界が無断侵入してるみたいな画面割り。これまた清順調なり。車をなぶり車で止まる妹カメラ陵辱。何回往復するねん。少なくとも前半の長門裕之は裏切りに次ぐ裏切りですばらしい悪徳のスピード。音楽がすごくいい。
『くたばれ悪党ども 探偵事務所23』燃える車をバックにドンパンジャズ。ペプシコーラ売り上げ倍増!明るい明るい。初井言栄の探偵助手、「0ライン」で密航手引きの娼婦役を見たところだったので、よけい楽し。かけあいミュージカルなど、ICレコーダーを持ってこなかったことが心から悔やまれる内容。むろん、割れた鏡、アスファルトをぶっぱなすマシンガン(シネスコを斜めに構えるマシンガンってほんとかっこいい)と画面的にも見所多し。
30代後半から40代に撮られた映画。どの作品もなんて若々しいんだろ。
帰りにぼうっとして階段を上がってたら、「わあ、握手してください」とすぐそばで女性の声。振り向くと清順監督が。別に個人的に存じあげてるわけでもなんでもないが、姿を拝見しただけでとてもうろたえてしまい、ぼうっとしたまま新幹線に乗ってしまう。
帰ったら、ジェフから長い長いインタヴューの答えが来ていた。アーカイブ仕事の話、涙ちょちょぎれそう。がーっと訳す。
テアトル新宿で鈴木清順『暗黒の旅券』。トロンボーンの朝顔の反射がゆらゆら。うーん、トロンボーンって、シネスコのための楽器。画面を斜めに横切るスライドがかっこよすぎ。タイトルバックには旅券、そのまんまやんけ!あ、「地獄めぐり」なんて旅券もあるぞ。そして「スナック壷」!。画面いっぱいピンボケでわずかに右上隅に出るツボまたツボ。画期的に人を食った心神喪失表現!その他、そのスナック壷のスリット仕切り越しに主人公が女と会話をかわすシーンがたまらん。キャバレーの照明が落ちてフィックスで撮られる群集劇、パンパンと銃のかそけき音。シネスコ的に手錠でつながれた手をいっぱいに広げて倒れる岡田真澄。ゲイボーイと抱き合うフランス野郎の横で格闘、などなど見所多し。おれが承知してもこのトロンボーンが承知するもんか。筋は複雑でよくわからんかったがちっとも退屈しなかった。
『その護送車を追え』。シネスコ的銃身の長さ。そして汽車の車輪ってシネスコのためにある。何がすごかったって、水島道太郎と渡辺美佐子が去った部屋で電話が鳴るシーン、誰もいない部屋を横にパンしてさらに引いて、なにがあるんだ、なにがあるんだって思ったら、なんと、それだけ。すげえ。カメラ暴走。ガソリンの燃える音。矢を射て女を殺したのは結局だれだったのか。筋は複雑過ぎてちっともわからんかったがちっとも退屈しなかった。
こうしてみると、鈴木作品の初期以来、二人の対話から一人を切り出して正面から撮るスタイルが存在したことがわかる。会話というより、カメラに向かって独白している女に合いの手が入っているよう。これがかっこいいんだ。
映画館で落ち合った宮田さんに「浅草十二階」の見本いただく。高麗さんの装丁素晴らし過ぎ。この装丁だけで買う価値あり。浅草に移動、十二階の跡地の焼肉屋街の一軒に入り、お祝いに飲んで食う。
帰りにタワレコでまた物欲発揮。
朝イチのゼミをこなして夕方東京へ。テアトル新宿で「鈴木清順レトロスペクティブ」。
とりたてて語られることの少ない『関東無宿』がすでにして圧倒的におもしろい。任侠ヨロメキ。そうなんだ、東映任侠と圧倒的に違うのはこのヨロメイちゃってるところなんだ。シネスコだから、男が立つとその横に何もない。女の顔をアップにするとその横に何もない。そこに声がして音がする。女たちの声は妙に声優っぽい。艶っぽいというより人工的。伊藤雄之助が花札に仕込む針を折る、そのぽきりぽきりという音に伊藤弘子がはっと立ち止まる。すでにしてツィゴイネルワイゼン。「しきしまのーやまとおとこのゆくみちはー、あかきころもかー、しろきころもかー」、廊下を渡る中原早苗。「花様年華」に欠けているのは、こんな風にヌケヌケと映画を横切るもの。親分と小林旭が対峙する場面で画面を横切る濁った血筋のようなセロファン色におおいにとまどう。野呂圭介が画面全体に響けよとばかりにうなる節回しにもしっかり当惑させられた。俳優のむやみなアップも、宣伝の事情からぐっとはみ出してしまっている。何の事情かわからないものが我が物顔で映画を占領している。遺漏堂々。しかしこの時代の「関東」には路地が多ござんすねえ。
しまったと思ったのは、この映画と「花と怒濤」を思い違いして十二階映画として単行本に書いてしまったこと。記憶だけで書いたら間違うなあ。
帰りにタワレコで物欲爆発、もうええっちゅうくらい買う。
ゼミの連絡はメールで。ただし携帯電話の。で、ぼくは携帯電話を持つのが苦手なので(呼び出されるのが苦手なので)、持たない。発信はパソコンからやる。発したいときに発し、受けたいときに受ける。
でも、学生は携帯でメールを受ける。あっという間に返事が来る。電話で呼び出すのに近いくらいの速さ。じっさいにやってるのを見せてもらうと、打つのもやつらは速いんだ。これなら数十文字くらいのメールをやりとりするのにはさほどストレスを感じないだろう。ぼくなんか、あのちっちゃいボタンで文章打つって考えただけで、モヤシのひげをバケツいっぱい取れって言われるくらいのしんどさが体いっぱいに広がってダメ。
夜中、RaymondScott.comのジェフからインタヴューの返事。ジェフ自身の音楽遍歴も含め、いろいろ情報満載。レイモンド・スコットの「Manhattan Research INC」の続編についてもあれこれ返事をもらった。うーん、待ちきれない。詳しくは来月発売の「map」にて。
「ためらいの倫理学」内田樹(冬弓社)。はさみこまれていた増田聡氏の推薦通り、じつに凝りのほぐれる一冊。なんというか、書き手が書きながら自らの凝りをほぐしている、それが伝染するようなほぐれ方で、じつにすがすがしい読後感。
ぼくも自分の論理の強引さを審問の語法で突破することがあるだけに、イタイところを突かれたという感じ。すべての審問の語法が悪いわけではないが、少なくとも審問することで取る覚悟もない責任を引き受けるのは、無責任なので止めねばならないのではないか。おっと審問してしまった。もって自戒すべし。
この本の歴史修正主義批判には激しくうなずくワタシ。前に「ショアー」の記憶について考えたことと相通じる。
一回生実習は、例年のバッドデザイン調査に加え、三回目のブラインド・ウォーク。一回目はナヴィ付きの短距離、二回目はナヴィなしの階段登り、そして今日、三回目はナヴィ付き長距離だ。実習としてはくどいくらいだけど、三回目は必要なことだと感じた。というのは、一回目、二回目のレポートからは「怖かった」とか「ナヴィがいないとたいへんだった」という、切迫と恐怖感が目立ったから。目が見えないことが人生の終わりみたいに思われて終わるとしたらこの実習は失敗だ。目が見えないことを楽しんだりリラックスしたりそしてやはりつらいことがあったり、ということの入り口くらいまで行くには、もう少し時間をかけた方がいい。というわけで、今日は数百メートルの距離を歩いてもらう。
おもしろいと思ったのは、立ち止まって、しばらく周囲を説明している組が何組かあったこと。これは短距離ではなかったことだ。別にぼくの方からそうしてくれと頼んだわけじゃないんだが、学生たちは頻繁な方向転換を繰り返したり歩き疲れたりするうちに、立ち止まってゆっくりする、という時間の必要性を発見したらしい。
3分くらい立ち止まったまま、ゆっくりとナヴィが周囲を説明している組もいた。ナヴィは指差しながら目を移し、アイマスクをかけた側はそれを音で聞いている。それは単なる視覚と聴覚のギャップがもたらすディスコミュニケーションではなく、別々の手がかりを使いながらお互いがナヴィゲートされていく最初の一歩なんじゃないか、と思う。
ブラインド・ウォークと並行してバッドデザイン調査。ドア前で人がとる行動を詳しく書くように、と伝えて、しばらくやってもらう。ノートを見せてもらうと、行動を記号化している人が多かった。で、なるべく記号化せずに文章でもなんでもいいから詳しく状況を書くようにお願いする。たとえばドアに近づくとき、歩幅はどこで縮まるか、スピードはいつ緩むか、どちらの手を前に出すか、そして手がドアの取っ手にたどりついたとき、どちら側の足を踏み出しているか、上半身は前向きか後ろに倒れているか。開けたドアに対して体軸はキープされているか、などなど。ドアを開けるという行動は、じつは身体のさまざまな部位の協調行動であって、しかもその協調は、最初から完璧に計画されているわけでなく、人がドアに近づくにつれ微調整されている。そのプロセスをなるべく詳しく記述すること。そのことで、ノーマンがいささか簡略化しすぎたデザインの「アフォーダンス」という概念を、もう一度身体に引き寄せて考え直すきっかけが得られるだろう。もちろん、ビデオを使えばもっと微視的に観測できるんだが、今週はまず肉眼でとらえる眼力をつける訓練。
暑い一日になりそうなので、鞄に入れるのは文庫本だけにしておく。電車の中で「腐食性物質」。松浦寿輝を読んだあとのせいか、「イメージ」ということばのひとつひとつに質感がある。
京都駅を降りると夏の陽気だった。午後二時の陽は西から射して、碁盤の目に仕切られた道を横に行くと日陰らしい日陰はない。特定の何かを思い出すのでなく、思い出すための時間を思い出しそうな道。
九条で「みなみ会館はどこですか」と二人連れの女性にたずねられる。今から行くところだから、話しながら歩いてもよかったが、紺色の日傘と並ぶのが疎ましかったので、説明だけしてすたすた先に歩く。日盛りの歩道橋を大回りして、近鉄の高架の陰を過ぎる。先に歩いていると、距離があき、無理にイジワルをしてるようで少し後ろめたい。後ろめたいが、意外に汗をかかない。空気は乾いている。イジワルは乾燥によって揮発するらしい。きっとイジワルは湿っているのだ。
ウォン・カーウァイ「花様年華」。1962年の香港の色。64年になったマギーチャンのメイクのかわりよう。
この映画の男女は相手にとっての自分を、いつも自分ではない誰かを通してなぞらされる。肉はカラシといっしょに食べるしかないし、困ったことに、そうやって食べる肉のおいしさもわかる。あのカラシの黄色がたまらんなあ。これは単に不倫の話に限ったことではない。
この映画の濃い空気は動かない。そこのところが、どうも息苦しい。それに、恥知らずかつ整理整頓の苦手なぼくには、悠久の時が流れる場所にそっといとおしむように埋めてみたい秘密がない。生ゴミと混ぜるずさんな秘密とか、分別を間違えて開封されてしまう秘密とかならあるが。
唐突に思い出したが、むかし、自分の名前が自分のまったく知らない誰かの名前とともに、大学の便所の落書きにでかでかと書かれているのを見たことがある。誰がどんな理由でそんなことを書きたくなったのか今もわからない。あれはたぶん、誰かが生ゴミとともに捨てたぼくなのだろう。因果応報だ。
四条でちょっとCD見て、アスタルテを覗いてみるが、なんだか以前は掘り出しモノがあった明治本も軒並み高くてパス。死にたくなるような夕暮れなので道に面したカフェに入ってビール。今日はほんとにビール日和だ。
鴨川べりを歩いて日伊会館でヘルツォーク「キンスキー我が最愛の敵」。狂ってるぜ、キンスキー。インカを滅ぼしうるくらい。
急にウィングスの「幸せのノック」を聞きたくなって買う。ポールの「まいってる」感じ。まいりながら淡々と進むピアノ。ビートルズ時代のどのピアノよりも(「マーサ・マイ・ディア」よりも「レディ・マドンナ」よりも、もちろん「ヘイ・ジュード」や「レット・イット・ビー」よりも)この曲のピアノ。
昼休み、ゼミ生とショップで弁当を買って外で食事。長いこと食堂か研究室で昼飯を食っていたので、初夏の環濠のほとりでカモに弁当をついばまれるのを気にしながら取る食事を知らずにいた。カモはずいぶん増えていたし、やけに人馴れしていた。てのひらを広げて弁当をふさぐと、あっさりとあきらめて向こうに行く。切実に腹が減ってるわけではないらしかった。
3回生ゼミ。生協ショップで「ショッピングの科学」に載っていた「トラッカー」をやってみる。一人の客を決めたら、その人が入ってから出るまでをとにかく追う。行動学でいう「個体追跡法」にあたる。
買い物における視線の移動というのは、かなり無意識が漏れているものだ、と実感する。視線はまさに「さまよっている」。上からとか左からといった順序だった探索を裏切って、不意にジャンプする。
探す、という行為は、単純に探し物に到達するための行動ではない。そこには「何を探すかを探す」というできごとが重なっている。これではない、これではない、見ることは導かれることに重なり、視線が止まった宛て先が「探しもの」として事後的に認定される。
松浦寿輝『表象と倒錯』(筑摩書房)。
雑誌「都市」で見てからずっと楽しみにしていた。力強い本。一気に読んでしまう。
その強さは、ひとつには美しいマレーのクロノフォトグラフィによるものだろう。
たとえば、夢の想起をめぐる考察を読みながらページを開くと、「棒の素振り」と呼ばれる写真が目に入る。テクストは次のように夢の想起を金縛りにする。
人が夢の想起において体験する「イメージ」とは、知覚することも思考することもできない還元不可能な「何か」のことだ。できないというこの不可能性それ自体のただなかで、不可視のまま輝きわたる「不在なるもの」の現前のことである。人はそれを決して見ることができないが、だが、かと言ってまた概念的な認識のうちに回収したり物語として了解したりすることもできない。それは、知覚の外で、そして思考の外で、ただひたすら情動的な強度として体験する以外にない「不在なるものの煌めき」なのである。
マレーのクロノフォトグラフィに、何ものかに還元不可能なイメージを見ること。それを、表象に譲り渡さないこと。寄り添ってくる表象を拒みながら、イメージにうたれること。そのことに賭ける力がこの、薄くはない本を一気に読ませる。
読み切って風呂に入りながら、はてなと別の考えがわく。
不思議なことに、この本では、マレーの写真の最大の特徴である「複数性」についてほとんど触れられていない。「内部からの遮断」「相似」「人間の不在」これらの考察はいずれも、写真に複数の映像が重ねられていようがいまいが成立する。なぜ「単数」ではなく「複数」かという考察が、よくも悪くもこの本には稀薄だ。
「複数性」に対する冷淡さを説明しているのはIII章だ。「シネマトグラフの手前で」という題から明らかな通り、ここで著者は、クロノフォトグラフィをシネマトグラフの前身もしくは亜流という身分から遠ざけようとし始めている。続くドゥメニーの記述にいたっては、ドゥメニーの醜悪さを語りながら、複数の写真が容易に運動へと還元されることへの醜悪さが語られている。
写真の「複数性」について考えたとたん、それは分解写真の「総合」による運動の再生を想起させる。そのような安易な還元をこばみ、むしろ運動に還元されえない写真としてマレーのクロノフォトグラフィを考えるのがこの本の目的なのだから、「複数性」があえて強調されないのは無理からぬことではある。
しかし、たとえばマレーの写真の中から一つのコマを取り出して見せられたとき、それはクロノフォトグラフィほどのイメージを「見せる」だろうか。おそらくむずかしいだろう。クロノフォトグラフィに定着させられたポーズのひとつひとつにも、なるほど、「類似」では済まない「相似」性が潜んでいるようにも見える。しかし、それだけなら、なにもマレーでなくとも、あまたの瞬間写真に写ったストップモーションの奇妙さについて語ればよい。
このポーズのねじれやあのポーズのねじれといった、特権的な一枚を選ぼうとしたとたん、じつは「奇形」の物語に陥る。マレーのクロノフォトグラフィの奇妙さは、むしろ、こうした、何ものかを「奇形」としてもてはやすことからも身を遠ざけている点、複数から単数を取り出すことを拒んでいる点にある。
具体的に行こう。たとえば、p99の「子供の歩行」が心霊写真めいて見えるのは、まず、モノサシで測ったように規則正しく並んだ子供のせいだ。さらに、その規則正しさは、右で手を動かしている男の手の振りの小ささに気づくことで、その無気味さが倍加する。ここには、子供の歩行というメカニックな時間と、手振りという非メカニックな時間の対比があって、しかも、手振りの時間からメカニックな歩行の時間が繰り出されているかのような、ありえない共犯関係が写し出されている。そのような関係をあぶり出しそこねる地点で、イメージが凝っていく。
連続写真における「飛翔」や「浮遊」の力は、垂直移動だけでなく、水平移動との対比によって生まれている。それを示す好例が、p135やp21にある「落下」写真だ。上下逆さの姿勢で支えておいて空中で放したところを撮影するというこの垂直落下写真は、一見して、飛翔のように見えてめまいがする。
なぜ垂直落下が飛翔に見えるか。その理由は水平方向の配置にある。時間を追って右から左へ写真を並べてあるため、ただの垂直落下に水平方向の運動が加わったかのように見えるのだ。
さらに念のいったことに、猫の落下写真では、頭は、常に連続写真の左を向いている。一方、時間は連続写真の左から右に向かって流れている。この結果、猫は、あたかも右から左に向かって体をひねりながら空中へ飛翔しているように見える。猫体をまるめながら、ほとんど猫以外の生き物に変貌しようとしている。猫を放った男の腕は、写真の上部で呪いをかけんばかりにクロスしている。
猫の落下写真が横に並べられているのは、逆にそのほうが垂直移動の量が容易にわかるからだ。逆に、水平運動を連続写真にするときに、マレーが(p129,133のように)写真を上下に並べているのは示唆的だ。それはむろん、上下に並べた方が水平移動の量が容易にわかるから、という配慮に過ぎない。
これらの配慮によって、水平方向の運動は垂直方向の時間に、垂直方向の運動は水平方向の時間に、常に対立させられる。時間は、運動と90度交わりながら、運動するかわりに写真を次々と産み落としていく。多産な時間。