昼前に起きて、ふちがみさんとゆうこさんと彦根市内観光。途中、ものすごい夕立。
リキエスタの会の本をあれこれ。柳田泉「明治文学研究余話」、内田魯庵「気まぐれ日記」にもあちこち気になる箇所があったけれど、いちばんおもしろかったのは木村毅「明治文学余話」。写真と声と投書。ぼくの興味にどんぴしゃりハマった。小波の「世界お伽噺」を読むことで十一、二のこどもが戦のあはれを感じ取るくだり(p29,39)に明治人の感性を見る感じ。
写真について。木村少年にとって、ダーウィン(p20)も独歩の死(p27)も、写真によってやってくる。
この年の夏、早稲田にまなんでいる兄が休暇でかえってきて、井上哲次郎の『日本学生宝鑑』という本をよみふけっていた。その巻頭に世界の文化的偉人の写真が何枚ものっている。
若き叔母があそびに来たのにそれを示して、兄が一々説明しているのを横できいていたら、
「これは、人間の先祖はサルだといいだした学者だ」
といい、
「そう云えば、この者自身が猿のような顔をしとるがな」
と叔母が応じた。その時私はなんとなく、ハッと打たれるように感じ、それはたしかに本当にちがいないが、世の中には、エライ事を云いだす学者をいるものだとびっくりした。
あとでその写真の下に入っている名前をみたら、チヤーレス・ダーウィンとあった。
(木村毅「明治文学余話」リキエスタの会)
投書について。「少年世界」「中学世界」や内田流石が投書していた頃の「文章世界」の熱気が、同時代の体験としてひしひしと伝わってくる。
次のくだりを読むと、投書の掲載というのが、単なる栄誉であるだけでなく、投書家どうしのネットワークづくりに貢献していたこともわかる。また、明治後期、すでに若い投書家自身が同人誌をつくっていたことも伺い知れる。
一度投書欄に名が出ると、その反響は甚大で、各地から文通を求めてくるし、また同人雑誌の入会をすすめてくる。
私は全国に同人雑誌の多いのにおどろき、その中で岩手の『文華』と大阪の『若菜籠』に心をひかれたが、大阪の方が近いし、ことにその編集の宮飼慶三郎と宮飼栄蔵の兄弟は、『中学世界』の投書家として名を知っていたので、それに入った。
声について。この本には、唱歌や詩の暗誦といった、声によって少年が時代を体感する記述が多く現われる。真下飛泉の「言文一致唱歌」である「戦友」について(p28,30)の記述に注意。
日露戦争は、はじまる前々年の、明治三十五年ごろから(私は小学校の三年で九歳)、もう子供にも必至と思われていた。
露軍うつべし破るべし わが同胞の四千万
一つ咽喉より発したる 声は天地にひびきけり
という大和田健樹の有名な討露軍歌が全国の小学校でうたわれだしたのは、明治三十五年の十一月ごろからだったように、思い出される。
内容よりも先にまず声によってことばを認め、繰り返し唱えるうちにことばを再発見する。異なる環境、異なる時間で繰り返し唱えられ、さまざまな記憶とともに生起させるツールとしての韻。韻を得て、溶原・溶菌サイクルを往復することば。
紺地に金文字で標題を打ち出した本を手にした時は、小冊子とは云え、人間が一段上ったような気がしたが、さて、中を読んでみると、さっぱり分らない。しかし分るような顔をして、学校へもって行っては、放課時間に、みんなに読んで聞かせていると、数多い句の中には、意味の解けるものもある。口調がいいので暗誦できるようになった句が、道など歩いていて、「なるほどそうか」と合点のいくこともある。私はこれを入門書として、新体詩の味をおぼえかけた。(p75)
声に淫することじたいに正邪の区別はない。ことばを声として唱えつづけるとき、それがどんな風に正しい、あるいは邪悪な意味に解かれようとするのか自分では解らない。
いまのぼくにとってここで書かれているような詩の暗誦に近いのは歌で、それもカラオケなどで歌う歌でなく、音盤を聞いて、歌詞も不確かなまま聞きかじった歌だ。何度も頭の中で鳴り、聞き取れるばかりのフレーズを鼻歌で歌っているうちに、これはもしかして?と突如歌詞がことばとして解ける瞬間がある。解けるのだが、また音にもどってしまう。この往復がいいのであって、カラオケで歌詞が先に提示されそれを後追いして歌っていると、どうも歌う前から種明かしされているようで居心地が悪い。
夕方、ふちがみさん来訪。穴あきケント紙でTVモニタ覆って観賞。ゆっくり飲みつつ、絵葉書やら幻灯やらを自慢してしまう。光学的酩酊なり。
地図のダイリンが出しているラパン(羅盤)という雑誌。吉田初三郎特集あり、路上観察あり、今号には水窪の話や森まゆみの一葉居住地再訪の話があって、おもしろい。
以下のことばを、ヴィトゲンシュタインの感覚Eの問題として読むこと。つまり、頭の中に、できごとが列挙されてから感覚Eが捉えられるのでなく、先に感覚Eが立ち上がり、事後的にそれを惹き起こすできごとが想起される事態として考えること。
一般の文章を次の形で考えてみます。
主語xが性質Pをみたしている。
私たちの今おこなっている術後の主語化は次の形で考えられるといってよいでしょう。
”性質Pをみたすもののなかにxが入っている”
これを私達は、
”性質Pをみたすものの集合のなかにxが入っている”というふうに表現します。
すなわちここでやっていることは、性質というものを何かの属性としてではなくて、思考の対象として、主語としてとりあげているのです。実はこれが集合の本質に外ならないのです。
(竹内外史「集合とは何か」講談社)
「何もない」というのはある種の認識だ。それは捉えそこねることであり、捉えそこねることで、捉えられるべき何ものかを言い当てようとする試みだ。
「集合とは何か」の第二章(φ空集合から始めてカントールの順序数を考える章)を読んでいて、それは日記のことだと考えてみる。
日記の日付
ある不死の生き物Aが日記をつけ始める。日記をつけ始めた時点で、それは何かを捉えたり捉えそこねたりする可能性を導入することになる。ともあれ日記をつけ始めてしまう。つけ始めることで日記には日付が入る。日記とは一日をひとつの集合として考える行為である。
一日目、という日付の日記にこんな風に書く。
「何もなかった。」
二日目にはこう書く。
「何もなかった。一日目も何もなかった。」
三日目にはこう書く。
「何もなかった。一日目も何もなかった。二日目も何もなかった。」
四日目にはこう書く。
「何もなかった。一日目も何もなかった。二日目も何もなかった。三日目も何もなかった。」
以上のことが際限なく続くとする。n+1日目の日記にはこう書かれているはずだ。
「何もなかった。一日目も何もなかった。二日目も何もなかった・・・n日目も何もなかった。」
このように、n+1日目の日記とは、当日、及び1日目からn日目まで、何もなかったことが書かれている日記である。一般に、n日目の日記には、n個の何もない日について書かれている。
Aはどこまでも捉えそこねる。捉えそこねながら、Aの日記はどこまでも続く。どこまでも続くのだから、この日記に終りはない。私はAの日記を読み切ることを諦め、この日記をωと名づけることにする。ωとは、この日記に綴られた日付全体を指す。
読書日記の日付
さて、ここに不死の生き物Pがいる。Pはある日、日記ωを手に入れる。不死の生き物Aの日記をまるごと手に入れるとは奇妙なことだが、Pはそういうことができる世界に住んでいることにする。
Pは日記ωを毎日読むことに決める。どの日付を読んでも、何もなかったことしか書いていない。この何もないことが綴られている日記の連続を、Pは執事が仕事をこなすように読みつづける。
幸いPにはたっぷり時間がある。Pは日記ωをあらゆるやり方で熟読することにする。同じ日付の日記でも、他のどの日付と読まれるかによってその体験は変わってくるだろう。むろん、どの日付にも「何もなかったこと」しか書いてない。しかし、その何もなさは、それぞれの日で、全く違った長さで記されている。ある日付の日記を、一日目の日記と読み合わせること、二日目の日記と読み合わせること、そして一日目の日記と二日目の両方の日記と読み合わせることは、それぞれ異なる体験をもたらすはずだ。
Pは可能な限りの読み合わせ方を体験するべく読書日記をつける。読書日記は○×方式で次のように書かれている。
第一日「1×、2×、3×、...」
この日はまったく読まなかった。
第二日「1○、2×、3×、...」
この日は1にマルが打ってある。つまり日記ωの一日目だけを読んだ。
第某日「1○、2×、3○、...」
この日は日記ωの一日目を読み、二日目を読まず、三日目を読み、さらに読んだり読まなかったりした。
Pは日記ωの1日目からすべての日付について読むか読まないかを判断し、その日の読書を決める。ただし一度読んだ組み合わせを繰り返すのはつまらないので、毎日違う組み合わせで読むことにしている。
こうして可能なかぎりの○×の組み合わせを試み終わったとき、Pは日記ωをあらゆる角度からすっかり読んでしまい、満足するはずだ。このように、あらゆる○×の組み合わせで日記ωを読むPの読書日記を、P(ω)と名づけよう。
不死の長さ
さて、ある日Pは、自分がはたしてすべての可能性を読み切っているかどうか不安になり、これまでの自分の読書日記を読み返すことにする。そして次のようなチェックをして、今日の読書計画を次のように立てることにする。
読書日記第一日に、Aの一日目の日記を読んでいなければ、今日はそれを読むことにする。
読書日記第一日に、Aの一日目の日記を読んでいれば、今日はそれを読まないことにする。
読書日記第二日に、Aの二日目の日記を読んでいなければ、今日はそれを読むことにする。
読書日記第二日に、Aの二日目の日記を読んでいれば、今日はそれを読まないとする。...
これをAの日記のすべての日付について続ける。そうすれば、今日の読書日記は第一日とも第二日とも・・・どの日とも違う読書日記になっているはずだ。つまり、今日の読書は、これまでのどの読書とも違うはずだ。二つの日記の日付を合わせながら、未読チェックをしていくこのやり方は「対角線論法」の一種である。
AもPも不死であることには変わりない。同じ不死ならば、日記ωと読書日記P(ω)は同じ日数だけつけられるはずだ。しかし、そうはならない。Aの日記と同じ日数だけPが読書日記を綴ったとする。しかし、次の日、Pは上のやり方で、今までのどの日とも違う、新しい読書日記をつけることができるだろう。
つまりこうだ。日記ωも読書日記P(ω)も同じ不死の日記だが、その不死かげんは違う。読書日記P(ω)と日記ωを一対一対応させようとすると、どうしても対応しない新たな日付が読書日記P(ω)には表れてしまう。
このような意味で、Pの不死の長さはAの不死の長さとは違っている。Pの不死の長さはAの不死の長さよりも濃い。
青山陽一「EQ」。この人の歌は初めて聞いた。聞いたことのないタイプの声。くーくくーくくーくくー。ああきみのこおえわあはああやくてききとおれなあい、の、きみって何の(誰の、じゃなく)ことだろうって考える。
ああそんなこと考えてたらeBayのスナイプしそこなった。
ものすごく久しぶりに松任谷由実「紅雀」が聞きたくなり買ってみたら、頭の中の「紅雀」と全然違ってた。が、おかげで初めて聞いたように聞く。この頃のユーミンの声(そして録音)は、まだ今のフィットネスに通ってるような、空気に貪欲な声じゃない。声帯を震わせきれない空気はそのまま気だるく吹きぬけている。
ほぼ日刊イトイ新聞に任天堂の花札の話。明治以降の花札図像が。
風呂を掃除し始め、ほのかに夏のすえた臭いのようなものがするので、排水溝のふたをあけて掃除する。と、ここまではよくやることなのだが、奥のほうに何か澱のようなものがあるなあと思い、何の気なしに風呂桶の側面を持ってみると動く。あれ、と思って上下させると簡単にはずれる。知らなかった。そして側面をはずしたそこには。
あなたはユニットバスのバスタブの側面をあけたことがありますか。あの側面が風呂桶の壁だと思っている人もいるかもしれませんが、あれは壁ではありません。フタです。それは排水溝のフタと同じく、見たくないものを見ないですませるためのカバーであり、このカバーによってモダン住宅の清潔感は保たれているのです。少なくとも視覚的には。
で、側面フタをはずしたそこには。ユニットバスのバスタブの真の裏側、すなわち、いつも尻を落ち着けているタブという薄い板の、まさに表裏一体の裏がそこには露呈していたのである。
そしてその尻の接面と表裏一体の裏底を軽く指でなでてみる。と、ぬるりとした感触がして、薄い茶色い膜がだらしなく剥がれだし、さきほど掃除のためにひたひたにしたぬるま湯に漂うではないか。
知らなければよかった。でも知ってしまった以上、徹底的にやらなければいけない。以後、1時間ほど格闘の末、とりあえず剥がせる膜は剥がした。もちろん、膜といってもそれは一様な物質ではない、それどころかそれは過去何年かのさまざまな異物の外側が分解し、あるいは増殖し、輪郭をあいまいにしながらゆるやかにつながっている複雑な澱であり、ほんのひとゆらしでそのつながりはぼろぼろとくずれるのであり、その中身を子細に検討すると(以下略)。
今日で16組の実験が終わり、とりあえず前期の目標は達成。今年の卒論生は仕事が早いな。というわけでゼミで打ち上げ。研究室内にカクテルドリンクの甘い匂いとポテトチップのもうもうたる匂い。ぐわー。
後で田中くんが差し入れてくれたマーテルのコードン・ブルーなど飲みつつなごむ。
久しぶりに吉野朔実のマンガ。「瞳子」(小学館)。「ジュリエットの卵」の頃のようなひりひりするような話ではない。が、世間じみた(と若い頃には思える)両親と折り合いをつけるくだりに、自分の「心の宿題」を考え直させられる。この宿題に解答はないのだが。
週刊新潮に書評。そういえば週刊新潮の「フォト・アウトサイダー」という連載は、毎号珍しい明治期の写真を取りあげていて、キャプションもコンパクトながらよく調べられている。ひそかに注目。
ゼミ、会議会議会議。昼休みに歯医者。疲れて夜は自動運転モード。サックスの講義録をざっと読む。
会議、実習実験。午後、野澤さん来訪。実験を見学していただき、夜に焼肉。ヴィトゲンシュタインの感覚Eの話。
宮田さんから書評ファックス。中央公論に出口裕弘氏(どひゃー)。浅草国技館を調べておられたとのこと。産経新聞に薮野健氏。
ウィンブルドンのイワニセヴィッチvsラフター、ラスト4回のジュースにシビれる。
頭は自動運転モード。
近くの本屋は「滋賀県最大級」と書いてあるのだが、「1時間で」「くよくよするな」「がんばらない」「だからあなたもがんばって」など、コンビニの栄養剤コーナーの前に立たされているようなタイトルの本がやたらとあちこちに平積みになっていて、どうも落ち着かない。癒し系であれ励まし系であれ、表紙から即効性をアピールする声が聞こえてきそうなものばかりで、とても疲れる。癒され疲れ。
それより新書や選書の過去数ヶ月の新刊くらいはばっちり揃えてくれればいいのだが。
そんな中(<このフレーズ、前から気になってるのだが、なんで「中」なんだろ)、建築のコーナーは妙に充実していて、バウハウス叢書がずらりと揃ってたり鹿島出版会ものががーっと並んでたりする。確かにこの近在はあちこち建ててはつぶれる建築土木最前線ではあるし、ニーズもなくはないんだろうけど、その割にはどこもかしこも住宅展示場的風景だなー。
夕方、橋爪さん宅へ。ちょうど来ていた「本の旅人」の大島先生の担当の方とちょっとお話。それから自宅資料室に上がらせていただき、ウェザー・リポートの「ヘヴィー・ウェザー」(なちかしー)流れる中、大東亜建設博覧会の資料や膨大な絵葉書資料を見せていただく。緑門だけで絵葉書帖一冊。しかもこれが氷山の一角なのだからおそるべし。クーラーなしで涼しい日。そうめんをいただきさらに新世界写真帖を一ページ一ページゆっくり拝見。行き届いた資料整理ぶりにも心動かされる。
帰ってから、自分の部屋を見てこれではいかんと思い、一時間ほど格闘してみたが、ちょっとやそっとではどうにもならないことが分かり諦める。
夜、Cafe Hushで夕食。真本くんの料理うまし。
すごい雷。研究室のパソコンにシステム再インストールなどなど。夜中過ぎに大学でウィンブルトン観て帰る。
十数年前に音楽ソフトとして出まわっていた「Super Studio Session」がフリーウェアになってたので入手。ああ、この8ビットのざらついた音のかわいいことよ。8ビットってラジオに近い。
夜、ゼミ生と「市場」で飯。徹子の部屋の録画を観ているうちに、語尾上げはシニフィアンへの違和感、「ね」はシニフィエへの違和感、という談話理論を思いつく。
猛暑。朝にゼミ。昼休みに歯医者に。帰りに真本くんの新しい店「Cafe Hush」をちょこっと覗く。奥の部屋、ええ雰囲気です。彦根登り町商店街渡辺薬局横を抜けたところ。奥まったロケーションは隠れ家的。7/11から仮オープンとのこと。
卒論生用に研究室のネットワークをあれこれいじる。あれこれあっという間に暮れる。炎天下に自転車に乗りまくったので、夜、たまらなくなってちょっと寝る。起き出してビール。
「大人の科学」鉱石ラジオをベランダに出して聞く。これはおもしろかった。なにがおもしろいって、鉱石ラジオって、チューニングが三次元なの。
長いこと、ラジオは、チューニングが一次元だった。つまり、1050kHzに合わせるときは、つまみを回して1050の前後を微妙に探っていちばんいいポイントを探し当てていた。もうちょっとならさらにダイヤルを回せばいいし、行きすぎたらダイヤルを逆に回せばいい。とにかくダイヤルをどっちかに回すしか選択肢はない。
でも鉱石ラジオはそうじゃないの。ダイヤルを回してもまだ先がある。それは鉱石と針の間の微妙な接点だ。ここを適切な半導体状態にするために、鉱石の結晶部分のあたりに針を落としたり持ち上げたりする。手応えがなかったら別の箇所(といってもほんの何ミリずれた場所)でまたやってみる。するとカリッという音がするところがある。その付近がたぶんポイントなので、今度はゆっくりと針を落としてみる。手応えがなければコンマ何ミリかずれたところにゆっくり落としてみる。どの方向にコンマ何ミリずれればいいかはわからないが、とにかくずらしてみる。すると、カリッ、だったものが、ある高さをもった音、もしかしたら人の声の断片かも?くらいの音に聞こえる。さらにゆっくり針を落とす。だめならまたほんのコンマ何ミリだけ元に戻って、今度は別の方向に少しずらせて落とす。
そして耳を澄ませると、かすかに声が続いているような気がする。もしかしたら外の車の音かもしれないし、じっさい車の音だったりすることもあるが、しかし、さらに聞くと、気のせいではないこともあるので注意しなければならない。もし気のせいでなければ、それは受信できているので、今度は、その針と鉱石の微妙なつながりを壊さぬよう、針に乗せるおもりの位置を調節しなければならない。
かくしてあたかもトランプカードでピラミッドを作るような危うい作業を経て、ようやくチューニングが終わる。たて、よこ、高さ、どの方向にも可能性があって、その可能性を半ば場当たり的に、しかし、少しでも可能性が高まったら極めて微細かつ執拗に追っていく。
かくして、あらゆる方向に(つまり三次元に)声のする可能性を探っているうちに、どうしても耳が幻を聞いてしまう。ホワイトノイズにフォルマントを聞いてしまう。人間の声に近いものならなんでも拾ってしまう。まさに電波系メディア。電波系ではあるけれども、同じラジオでも鉱石ラジオは、このチューニングの過程で、じつに声ならぬ声を聞き取りやすい、つまり、妄想に適したメディアだということがよくわかった。
「こさめちゃん」小田扉(講談社)に涙どーっ。
スペースデカにならって胸のボタン(機能は秘密)を握りしめ、おまえの強肩でこのボタンを宇宙の果てに飛ばしてくれないか、と猫に問いかけてみたが、お気に入りのプラスチック収納ケースの上でのびをするのみ。飼い猫はあてにならん。
「浅草十二階」を出してから茶店で新聞の読書欄をチェックするようになった。先週は日経に短評。今日は京都新聞(鈴木博之氏)、中日新聞(高橋世織氏)。他に、「週刊読書人」(海野弘氏)、「散歩の達人」(高橋ひろし氏)。bk1にも近藤富枝氏の評が載った。多岐に錯綜する内容の本なのでさぞかし書評が書きにくかろうと思うのだが、思いがけず評をいただきつつある。ありがたい限り。
世に賛同者が多いと思われる都市論のパノラマ的視点に異を唱えているので、識者からどんな反論が来るだろうかと思っていたが、いまのところその気配なし。ちょっと拍子抜け。もう一作、よりストレートなものを書く必要があるかなと思う。
ぼく自身による簡単なまとめはbk1とamazonに書いてあるのでそちらを。