ビバシティの食品館でカートを押しているとき、自分の足取りがビートを刻んでいるのに気がついた。何のビートかというと・・・ベティ・ブープの「I heard」に出てくる給仕の牛だ。
単行本の図版直し。
図版の半分はぼくの蒐集物で、あとの半分も、図書館や博物館のコピーやカタログをスキャン加工したもの。ほとんどが写真や絵なので、リサイズ指定が来るということは、再スキャン、再トリミングを意味する。スキャンの出来が気に食わず、何度もやり直す。コピーの染みをタブレットとペンで一個一個抜いていく。印刷所はおそらくQuarkExpressで原版を作っているのだが、作った図版がQuark上でどう再現されるかわからない。
こういう場合、こちらもQuarkExpressを持っていて、なおかつ校正ファイルを共有してると便利なんだが。いや、そこまでするより、現物を渡して写真製版してもらった方が速かったか?
図版の引用について。国会図書館収蔵のものは、地下の複写課で許可書をもらってそれに必要事項を書き込んで出版社の判をおしてもらうとよい。問題はコピーの質。ぼくは通常のコピーカウンタで大きめにコピーしてもらって、それを使った。
たいていの図書館はこうした許可書方式になっている。貸し出し可能ならこちらでスキャンや撮影ができる。
博物館の場合は、それぞれやり方が違う。資料の紙焼きを貸してくれる場合もあるし、さほど解像度を要さないときはこちらでカタログからスキャンして掲載許可を取る場合もある。いい絵を撮りたい場合は、(可能であれば)直接博物館に出向いてスキャンや撮影をさせていただく場合もある。
これまでの経験では、公共施設の資料で掲載料を請求されたことはない。むろん、掲載紙は送ること。
個人蔵の資料の場合は、所有者の許可が必要な場合もあるので、その場合は持ち主に直接交渉する。
単行本のタイトルは『浅草十二階 塔の眺めと〈近代〉のまなざし』。定価 本体2400円(税別)。2500部。印税10%と決まる。装丁素材用に手元の十二階資料をあれこれカラースキャンしてMOで送った。どんな表紙になるか楽しみ。
相方が買ってきたHTMLデザイン辞典第2版(足立裕司/翔泳社)を読む。ブックデザインも含めていろいろ思いつくこと大。見通しのいい本だった。
HTMLの知識はもうここ3年くらい止まったままだったから、スタイルシートもダイナミックHTMLも使わずにここまで来た。それで別段不便を感じたことはなかったが、CSSのファイルを別に作るといろいろ楽なことがわかってしまい(複数のファイルのスタイルをいっぺんに変えることができるとか)、わかってしまうとつい使ってしまいたくなる。というわけであちこちいじる。
これまでh1やh2タグって、デフォルトの大きさが好みじゃなくてあんまり使う気がしなかったんだけど、CSSファイルで指定できるとなれば、同一テーマのファイルをまとめて共通フォーマットにでき、文章の階層がみやすくなるだろう(そう思いついた途端、その階層をどうやって混乱させようか考え出してしまうのだが)。
これまでは日記のタグにテーブル使いまくりでけっこう表示までが重たかったのだが、これでだいぶ軽くなったはず・・・・
Explorerとネスケ間、WindowsとMac間を往復すると、実現できるレイアウトや字体にやたら差があることがわかって愕然。こうレイアウトがアバウトだと、細部にこだわる気力がなくなるな。
鼻水が止まらない。花粉症というより風邪なんだろうな。図版直しをしようとしてついネットを徘徊。鼻水が出ているときは、いったん始まった惰性を止めない方向に自分を乗せたくなる。
夜、ドライヤーの「吸血鬼」。粗い光の粒は石版の砂目、人物は動かなくなるとそのまま砂となって、画面は壁のように鉱物化していく。二重露光された人間は、事物のこちら側とあちら側の間で揺れている。
大学の交流センターでヨハネス・シスターマンスの講演+パフォーマンス。
グランド・ピアノのまわりにお茶の缶を並べて、そこに振動膜(イヤホンを分解すると出てくる平たい板状のもの。彼は「membrane」といってたけどなんてよべばいいんだろ)を貼っていく。ピアノにも貼る。で、これらの振動膜をアンプのスピーカー端子につないで音を流すと、膜を貼った物体が共鳴して、物体の特性に応じた響きを出す。
そのお茶の缶の一つ一つが、音の凝った物体である、と考える。そのことによって、自動販売機で販売されるお茶は、正しく茶の湯の伝統に連なり、石庭の石と同じ存在になる、とヨハネスは言う。メロディを弾くのではなく、凝った音を確かめるために、何度も同じ鍵盤を違う風に叩くこと。
夜、ヨハネス、シュテファン、ゆうこさんとキャッスルロードで飲みながら話す。
まだ力のだし加減が自分でわかってないのか、たった一コマの講義をし終わった段階でへとへと。おまけに、二項分布の公式を誤って板書きしてしまいダメージ大。
三日月を見上げる。そばにあるのは木星と土星だということをもう知っている。あの小さい星を拡大すると輪がある。
TVチャンピオン、どっちの料理ショーを見つつカレー食う。
ちっとも知らなかったのだが、ポケモンのサトシ君の声をあてて主題歌も歌っている松本梨香は、浅草木馬館に縁のある人らしい。中村英次郎劇団をチェックだ。
夜、ビバシティ彦根のシネマ2で『ダンサー・イン・ザ・ダーク』。ビヨーク、ミュージカル、母の愛、そしてとにかく泣ける!・・・という前評判だったんだけど・・・あれ? これは母の愛ちゅうより、ビヨークという幼児を虐待する映画ではないの? 贖罪の子羊を仕立て上げるためのさあ泣けと言わんばかりの理不尽な筋書きと演出の数々。聞こえがよしのループで心の準備をさせてから始まるミュージカルシーンにも白けてしまった。ヤな映画だ。
主人公が通うミュージカルのサークルで練習される『サウンド・オブ・ミュージック』。この移民抑圧物語を、『サウンド・オブ・ミュージック』という亡命の物語の裏返しとして(ナチに似るアメリカを告発する映画として)見よということ? にしても、映画じたいがプロパガンダ映画に似すぎ。
金曜にやるシスターマンスの講演+パフォーマンスのちらしを作ってあちこちに貼る。
夜、DVDでドライヤー『奇跡』。洗濯物の奇跡。はためく洗濯物のひもを事もなげにくぐり抜ける長男。
月曜は講義+実習でくたくた。
夜、昨日に続き天体観測。土星は点のような紡錘にしか見えず、「これほんとに土星?」という声が上がる。プレセペ星団を始めて観る。もう少し倍率を上げて星のきれいなところで見ればけっこう楽しめるかも。
クリス・ウェアの「Jimmy Corrigan」をごくゆっくりと読んでいる。ようやく半分読んだところ。これまで体験したことのないコマ移動に、同じページを何度も読み直すことに。幻燈とゾートロープとシカゴ万博と老人。「これまでのあらすじ」すら熟読(というか塾見?)に耐える静けさ。
マイクロソフトはついにあの評判の悪かったクリッパー(Officeについてくるアニメーションのキャラクター)を取りやめるらしい。あのキャラはデフォルトで勝手にポップアップするようになってて、こっちが呼ぶまでだまっとれっちゅうねん!と言いたくなることがしばしば。ぼくの知る限りポジティブな評価を聞いたことがなかったので、取りやめと聞いて、ああ、やっぱり、という感じ。
で、それに変わるのが「ベイズ理論」らしいんだけど、要はユーザーの使用履歴を取り込んだインターフェースってことなのかしらん? ちなみにユーザーの使用履歴からユーザーの性格を推し量る試みについては拙訳「人はなぜコンピューターを人間として扱うか」の第8章で論じられている。
単行本用画像を全部TIFFファイルに落とす。
相方がレヴュー用に入手した望遠鏡(デジタル赤道儀付き)を試しに荒神山へ。いくつかの基準星に照準を合わせると、あとはメニューから天体の名前を選ぶだけで自動的に筒が動き照準が合う・・・はずなのだが、操作に難儀する。風がすごくて本体がゆらゆらぶれるので、土星を見ても輪があるのかどうかすらわからない。それに体中の体温を持っていかれるほど寒い。結局、手動で合わせる。まともに見たのは木星とミザールくらいか?
ひさしぶりに彦根湯に行き、体温を取り戻してから飯。
浅草の地図をベジェ曲線でトレース。知識のあやふやなところをトレースしてると、ああまだこのあたりのことをまるで知らない、と思う。
ゼミ配属の相談をあれこれ受けてる間にすぐに時間。
明け方、カップスープのごまクリーム味を二杯飲んでリポD飲んで再び大学へ。
テレビの歌番組とかあまり見ないんで今ごろ気づいたんだけど、最近、歌うときにやたら掌を上下させて自分の声に調子をつけるかのような身振りをする歌い手の人が多い。けっこういろんな人がやってるところを見るとハヤリなんだろな。
本人にとってはあの身振りは発声を助けるものなのかもしれない。けど、こっちはそこに、説明を見てしまう。こんな息継ぎで、こんな調子で、と、いちいち声に身振りで説明が入るクドさを感じてしまう。この手振りの「ボイスコントロール系」な感じは、ゴスペルシンガーの身振り手振りからはなぜか感じられない。どこに違いがあるのか。
最近では、「おしゃれ関係」に出てた華原朋美の手振りに、このボイスコントロール系を強く感じた。手振りでコントロールされるI'm proud。いろんな意味で無惨過ぎ。
校正と図版つくり。喫茶店に逃亡。
スポーツ紙に「野田秀樹記者会見をすっぽかし」という記事。どうやら、喫茶店で脚本に没頭しているあいだに記者会見を忘れてしまったらしい。それを喫茶店で読みながら、いま珈琲を飲んでいる自分もまたすっぽかしつつあるなにものかについて思いをめぐらさなかったわけではないが、それが何かに思い至ったわけではなく、その頃、研究室では、ゼミの時間になっても現れないぼくのせいで院生三人が途方に暮れていたはずだ。すまぬ。
夜中、NHK『地球に乾杯』で「ろっ骨レコード」。ぺらぺらのレントゲン版をセルロイド盤と見立てて溝を刻んで作るレコード。街頭で、コートから秘密めいて取り出される誰かのX線写真。ろっ骨をこするとしゃりしゃりの「シェルブールの雨傘」。
むろん、スターリン独裁下でのご禁制を潜り抜けるための知恵なのだが、その知恵の発露の仕方が詩になっている。
結局明け方まで大学で図版つくり。
校正。一冊の中できちっと論理を破綻させることの難しさ。じつは一貫してるように見せることの方が簡単で、そのためには同じ息づかいをしてればいい。ここで息が途絶えているということを見せるためには論理のギャップに文体のギャップを乗せてやらないといけない。
講義と演習3コマ。ぐったり。しかし分厚い単行本校正。今度はしゃきしゃき書く。
「人はなぜコンピューターを人間扱いするか」は、メディア・デザインの福音として読むことも、もちろんできなくはない。でも、ぼくはむしろある種の呪いに近いものを感じる。
すべてのメディアがハリウッド調になった未来なんて考えただけでうんざりだ。でも問題は、メディアがハリウッド調になるかどうかではなくて、そうなったときに、使い手はイヤでもそのハリウッド調のメディアにハマらされてしまうってことだ。インターフェースの安いおせじでもぐっと来るし、安いあいさつにも、こいつ、とか思っちゃうに違いない。まったく道具は選ばなくてはいけない。
そんなミエミエの手を使うインターフェースがこちらをいらだたせるとしたら、それは、そのインターフェースがくだらないものだからではない。むしろ、そんなインターフェースにすら、こちらの感情がかきたてられ、思考が動かされているからだろう。
つまり、この本がリップサービス的に推奨するメディアデザインすることよりも、そんなメディアデザインに無意識のうちにハマっている人間のメディア環境が問題なんじゃないだろうか。そして、単にデザインを賞揚するだけじゃなくて、そうした無意識過程を暴いている点にこの本の利点はある。