京都で会話分析研究会。報告会のレヴュー。そのあと飲み会。
意図と意図行動の違いについて考える。あるいは思考と表現の本質的な違いについて。コミュニケーション論では、デネットを始め、intentional behaviour ということが最近またあちこちで取り上げられている。そのとき、意図と意図行動の違いを手放さないこと。
風が暖かいので琵琶湖岸に出て昼飯。石を拾う。じつにさまざまな種類の石がある。拾った石のいくつか。
濱口先生の置き土産であるところのAIBOなのだが、不憫なことに私を含め学生の誰ひとりとして構わなくしまった。構うほどに愛情はない。が、チャージャーから持ち上げられることもなく床に置かれているAIBOを毎日見ていると、ボディ・ブロウのように我が身のうすなさけに自家中毒していくのか、どうも体の調子がよろしくない。そこでロボ好き卒業生の高橋さんに応援を頼むことにした。高橋さんは仕事持ちであるにもかかわらずやってきてくれて、AIBOを起ち上げて二時間はぼうっとしていたと思う。さらなる愛玩のためバカでかいキャリーバックに入れて帰っていった。こころなしか体調が回復した気分。
生態学事典の「遊び」の項。遊びを説明するのはむずかしい。そもそも「遊び」というのは、何らかの機能や構造を持っているというよりも、本来の機能や構造からのずれに特徴がある。
講義案をたれ流すことにする。メモっとかないと忘れそうなので。
人間行動論 4/17 回生問わず、学部向け。「人はなぜコンピューターを人間として扱うか」入門編。まずはコンピューターやロボット以前に、物体や人形などが人間の古い脳に対して持つインパクトについて話す。「The world of Jim Henson」(ジムがカーミットを持ってしゃべっているシーン)。「マペット・ムービー」(冒頭のカーミットと人間がしゃべるところ)。コンピューターやロボットが複雑だから人間扱いされるのではなく、むしろ人間の脳のほうが積極的に事物を人間扱いするのだということ。そして人間扱いという態度は、意識的には制御できないほど強烈だということを強調する。メディア研究の多くは無意識(サブリミナル)な過程を扱うことになる。無意識的な過程を意識化することのメリットについて。
比較行動学特論 4/17 大学院生対象。ジェスチャー研究のレヴュー。ジェスチャーの分類。自発的ジェスチャーについて。報告書のイントロを使用。
人間関係論演習I 4/18 一回生対象。「一枚の絵はがきから」。新入生向けのオムニバス入門講義。好きなことをきっかけに調べものをしていく過程をお見せする。用意するもの:喜波貞子、ジャポニズム絵はがき一式。絵はがき屋画像(パリの絵はがき屋ビデオ)。「蝶は還らず」「版画に見るジャポニスム展」「ジャポニズムとアール・ヌーボー」、蝶々夫人関係資料。ジャポニズムや異国のまなざしといった話題よりも、絵はがきを収集するきっかけ、パリの絵はがき屋、喜波貞子の絵はがきを見つけた経緯などに力点を置いて話すこと。
Cartoon music!に、昔書いた「笑いのテロリストテックス・エイヴリー」パンフの文章を追加。
講義初日。今年は前期分が増えて毎日せわしない感じになりそう。月曜3コマ水曜2コマ木曜3コマ+4回生ゼミ+院生ゼミ。今日は最初なので軽く。
ペンタックス、デジカメ内蔵の双眼鏡を発表。惜しい。ステレオデジカメ内臓の双眼鏡だったら即買いだったのに。どこかの会社でステレオデジカメ作らないかな。少なくとも撮影の方は技術的にすぐできそうなんだけどなあ。あとはヴュワーの問題か。双眼鏡をそのままヴュワーにしちゃうというのはどうだろう。
と思って、実習用の双眼鏡を出して遠くにトンビが飛ぶのを眺める。河川林とトンビの奥行きの変化がすばらしい。
双眼鏡を観るときは両眼立体視を使う。つまり、双眼鏡とは、実はステレオ望遠鏡である。「裏窓」をはじめ映画では、双眼鏡の光景を示すのに、8の字を横にした穴からのぞくように表現することが多いが、あれは双眼鏡の使い方としてはまちがっている。ほんとうは8の字の二つの円を近づけて一致させる。すると、目の前にどーんと立体が浮かび上がってくる。
雨が強く夜中過ぎまで大学に。最後は「妖怪人間ベム」の最終回を見て小降りの中を帰る。
オリエンテーション。またこの季節がやってきた。
夜、院生の面々と軽く飲み食い。
浅草十二階の明治三十年代後期の立体写真を入手。やはり現物を見るといろいろわかることがある。たとえば、中将湯の看板は想像以上にインパクトがある(木蔭からぬっと顔を出している)こと。池に映った塔の反映の奥行きのおもしろさ(波でちりぢりになった部分は、奥行きもちりぢりに揺らされていること)。
文部省が失敗知識データベースの公開を進めているらしい。ヒューマンエラーやインターフェース研究のヒントとして期待。
宝塚ファミリーランド閉園にショック。あそこで迷子になって呼び出し口まで遊園地の汽車にのっけてもらったのを思い出す。感想文も書かされたっけ。
クローン人間報道。現時点ではことの真偽はおく。この手の報道はどういうわけか、クローンを作る生物学的危険に触れるばかりで、もっと根本的な問題、つまり、「なぜ体外受精でも養子でもなく『クローン』なのか」という問題を見過ごしているように思う。
ことさら「クローン」人間が欲しいという感情には、単に子供が欲しいという感情以外のものが入っているはずだ。その欲望が何なのかを考える必要がある。この件に関してはずっと前に書いたことがあるのでリンクしておく。
クローンという考え方は、つまるところ記憶の問題、もっと言えば記憶の顕在化の問題だと思う。
夜、相方と一緒に、エジンバラで買ったピンホールカメラを試す。相方が風呂場の窓や扉に黒のクラフト紙を貼って、簡易暗室を作った。そこにデベロッパー、定着液、水を並べて、現像体制が整っている。第一作は明らかに露出不足で、こんな感じ(ほんとは明るい室内)。
ATRで会話分析研究会。TCU(ターン構成ユニット)とTRP(移行可能場所)の再定義について。野口さんの案内で、豪華な記録装置を見学。十数個のカメラで複数の人間の動きを長時間キャプチャーする装置や、16トラック独立で録音できる器材など。
逆に、デジカメ一個とノートパソコンで何ができるかを考える。
夜半過ぎに帰宅。やはり学研都市は遠い。
個人で買い漁ったアニメーションソフトを知的共有すべく、今年から、アニメーションゼミを自主的に開くことにする。とにかく、映像の動きをちゃんと語れる人をもっと増やしたい。
で、内容を選択。メリエス、ブラックトン、エミル・コールあたりからはじめて、マッケイ、フェリックス、フライシャー、ディズニーの初期をおさえつつ、スタレヴィッチやアレクセイエフに飛び、フィッシンガー、マクラレン、それからいわゆるアメリカのカートゥーンものごっそり、チェコアニメーションなどなどというラインアップ。むろんガンビーやアードマンも入れたいところだ。
それで思い出したが、ソニーから出てるガンビー3本。ほんのちょっぴりしか入ってなくて、しかも新シリーズ。せっかくの広川太一郎のナレーションも間が悪く(脚本がなってないと見た)、全然ナットクいかんぞ。amazon.comの七巻セット(リージョン1)がうらやましいなり。
100円ショップのCDをふと見たら、浪曲に広沢虎造ものが10枚も入っていた。広沢虎造に100円の値をつける価値感にはけして同意しない。しないが、ちがう価値感を持つ者から安く買うのが買い物である。というわけで10枚とも買う。何枚かうちにあるのとダブってしまった。夜中に続けさまに聞く。
忠治の切ったはったの場面では、映画の殺陣などとは違って、時間は自在に伸縮している。説明を引き伸ばす。その説明が伸びてぴんと張り詰めたところでずばっと擬態語を切り込む。あるいは説明の終らぬうちからいたたたたと敵は悲鳴をあげる。語りと声がつばぜりあいをしている。
朝から町をうろうろ。朝からあいているネパール料理の店でモーニング。バスを乗り継いで古書店廻り。岡山のバス停には「バス通過予定時刻」とあって、なんだか手を挙げないと通過されそうでこわい。
しかし、さすが内田百間の出身地だな。今日も、もうええっちゅうくらい本を買う。
帰りの新幹線で、徳力富吉郎「版画入門」(保育社カラーブックス)。本のサイズも内容も実に絵はがき的で、読んでいて楽しいこと限りなし。木版のプロセスを目の前で見るような臨場感。これまで読んだ版画関係書の中ではベスト。
手彩色名所絵はがきの空について考える。あの青から無色への絶妙なグラデーションは、木版における「一文字ぼかし」をはじめとする「ぼかし」の記憶によるデザインではないだろうか。
初期のカメラでは空はほとんど白く飛んでしまい、何も印刷されない部分が葉書面に現れた。それは、何も彫っていない木版部分を想起させる。そこに、摺師が、版面には表れないぼかしを入れていくように、空色のぼかしを入れていく。
京都の国立博物館で「雪舟」展。朝イチでいったのだが、とにかくやたら混んでいる。そして、館内までが整列を促すアナウンスがうるさい。およそものを考える環境ではない。
初期のカワセミの頭部。丸い頭から垂直に筆先がおろされた痕跡としてのくちばし。
中期の岩肌のエッジ。面と面とが、遮蔽関係ではなく、接合関係であるかのように描かれている。
巻き物。パノラマではなく、スクロールする書物としての。
新幹線で岡山へ。古書店めぐり。もうええっちゅうくらい買う。帰りのタクシー代も残らないくらい買う。
夜半近く宿に戻る。寝床で「世界デザイン史」(美術出版社)。
物足りないところ。アール・ヌーヴォーの発生をビングに求める点。確かに教科書としてはこの説明でいいのだろうが、それではなぜ「有機的」な曲線がアール・ヌーヴォーの主題となったのかがわからない。モリスの中世趣味が有機体礼賛へと転換するためには、その背後にある生物観の転換と芸術の関係(ダーウィンとヘッケル)について考える必要があるだろう。
生物は、適応の結果として機能的な美を備えるようになった、という考え方。それがアール・ヌーヴォーを「機能美」として捉えることを可能にし、ガウディのような力学と有機的デザインとの融合を産み出したのではないか。
日本の明治・大正期のデザインの説明も、ページ数が少ないせいとはいえ、あまりに物足りない。取り上げられている資料がごく限られているせいだろう。橋口五葉の「吾輩ハ猫デアル」に片岡敏郎の「赤玉ポートワイン」ではあまりに紋切り型ではないか。
建築や日用品の検討も必要だろうし、印刷メディアに限っても、錦絵や石版画、雑誌『明星』や『方寸』、あるいは膨大な資料というべき絵はがきやマッチラベルへの言及が必要だろう。赤玉ポートワインを江戸の美人画の系譜とするなら、明治の美人画や美人写真の検討があってもいいように思う。
データ見直しと原稿。
夕方、京都へ。メトロで、ヲノサトル+Yuko Nexus6+有馬純寿+小島剛。小島さんはときどきに小鳥になるという。マッチョ・カナリアという芸名を考える。一人、くねくね踊るシャツ姿の若者がいて、その背中を撮影する。
あとで平野さんも加わりネパール料理屋で打ち上げ。
「絵葉書趣味」を12kai.com下に移動、「蝶々夫人のサイン」を追加。1920年代から30年代にかけてヨーロッパで活躍したオペラ歌手、喜波貞子について。
原稿など。
東京はもう桜が散っているらしい。手元の明治期の絵はがきの中から、桜の写っているものをいくつかスキャンした(→東京の桜)。花見をしそこねた方はどうぞ。
シューマンの『子供の情景』をゆっくり弾く。「異国から」の前半の左手と中盤の左手。低音はまず八分音符でぽつぽつと置かれ、ペダルで揺らされる。それが中盤には、樹液が枝先に行き渡るように、4分音符でたっぷりと鳴る。後半に入るGのフェルマータ。体液が小さな花になるように、深い音が右手の可憐なメロディに預けられる。低音は再び八分音符に戻る。
これら左手の表現を弾き分けること。
子供の情景の左手のようなテキストについて考える。右手は読者に預けながら。