午前中、ベルン町歩き。商店街をうろうろし、クマを見る。
午後、アルプス博物館。旅と絵はがき。遮蔽を強調した展示。
逓信博物館。絵はがき展。ツッコミ甘し。自然とファウナ、人々、衣装、などといった分類で各国の古絵はがきを並べているだけ。しかし、絵はがき展の端緒としてはこんなものか。
クンスト・ミュージアムでクレーを見る。三年前も見たのだが、展示が多少入れ替わっていることも含めて違う感想がわく。
バウハウス以前のクレーの絵は、いくつかの時期に分かれる。
十代前半のクレーの絵には当時の風景画や絵地図の模写がよく見られる。
たとえば14歳のクレーの線画に、ベルナーオーバーラント Berner Oberland を描いたものがある。ひとつひとつの山の頂上からは垂直の線がつり上げられ、そこに山の名前と高さが斜めに書き込まれている。当時のパノラマ地図に典型的な表現だ。
しかし、この典型的な地図の右前景に、クレーはさらに斜面を描き加えて、山々の遠さと大きさを強調している。前景の山には なだらかな山道のスロープを走らせ、そのところどころに、小屋を描き、ごく小さな牛飼いや牛を描き加えている。
トマス・クックがヴィクトリア朝期のロンドンで、好奇心旺盛な紳士や淑女に旅行案内のニューズレターを発信し、ユングフラウ地方への旅情をあおり始めたのは1863年のことだ。1879年生まれのクレーが十代のころ、スイスは海外からの旅行ブームの絶頂期にあり、いくつもの風景画が生まれ、写真が流布し、さらには「スイスカード」と呼ばれる美しいカラー絵はがきが登場した。当時のベルナーオーバーラントを描いた風景画や地図絵の多くは、その山々の重なりを強調し、その高さを解説した。山肌の持つ複雑な面の交錯は、しばしば人の顔や身体になぞらえられた。ユングフラウ(少女峰)は女の顔や女体として描かれ、アイガー(愛哥)、メンヒ(坊主)という二人の男山から見上げられ、幾人もの豆粒のような男性登山家がそこにしがみつき、墜落した。
峡谷に切り取られたようなベルンの市街、そしてその谷を見下ろす橋、スイスの屋根屋根の織りなす面の複雑な重なり、そしてベルナーオーバーラントの山々。このような土地に生まれ、これらの景観の中を繰り返し歩いたことは、クレーの面と遮蔽に対する感覚を鋭敏にしたに違いない。線から面を抽出するクレーの絵には、ベルンの風土が刻印されている。
クレーが1910年に描いた無題の屏風絵のひとつ。前景に斜めに岩肌が走り(14歳の絵と同じだ)、その向こうに重なる山々の間に、水色の川が描かれている。それは流れを示す波を伴った川ではなく、かといって地図に描かれるような線としての川でもない。それは。ひとつの固有の領域として示されている。
地面には地層が描かれ、地面の重なる部分では地肌(テクスチャ)が中断し、そのことによって、お互いの面が遮蔽関係にあることを表す。しかし、水にはテクスチャがない。それは山によって遮蔽された川の一部ではない。それは、山々によって鋭く削られた、水色の打製石器だ。
あるいはこの絵の描かれた場所から離れれば、川は異なる面、異なる形を表すのかもしれない。しかし、今は、鋏で切り取ったようにそこに張り付いている。
線で区切られた領域としての面が表れたもう一つの初期作品として、Im Ostermundinger Steinbruch, 2 Krahne (1907)を挙げることができる。船を描いたらしいその絵は、もはや船の形は描かれておらず、船底と船体と前景の壁、そして地面が四色のエリアとして塗り分けられている。地面に置かれたクレーンや機械群が、わずかにそこが港湾であることを示している。
カタログを繰っていくと、20代のクレーの作品からは風景画が減り、いわゆるグロテスクと呼ばれる、奇怪な身体を持つ人物の線画が表れる。それらはある種の風刺画として見ることもできるが、おもしろいのは、肘、腰の角が鋭く伸びて、背景の線と半ば一体化していることだ。樹上に横たわり、身体の隆起が樹のこぶに近づいている女の絵は、肉体を樹の輪郭へ近づけようとすること、樹皮のテクスチャから身体を作り出すことの試みでもある。
こうした画風を経て1910年に描かれたベルンの教会のスケッチでは、もはや面と面との遮蔽がもたらす線をなぞるのではなく、まるでフォトショップの輪郭抽出のように、明るい領域と暗い領域を二分する線だけが描かれ、建物ならぬ建物が描かれている。線によって抽出されたあり得ない面。云々。
夕方、フランクと落ち合う。Yukoさんが11月にベルンでライブをやるのは、Reithalleだそうだ。ここは元自動車学校だったところで、たたずまい的には京都の西部講堂に近い感じ。
彼が11月にやるというツアーの内容を見せてもらうと、なんと10日間びっしりとスケジュールが埋まっていて、しかも毎日違う都市。北はアムステルダムから南はバルセロナまで。それも全部車移動とのこと。人ごとながらハードそうだな。
それから前川さんと合流して近くの北京酒楼。しかし、料理がやたら高い。飯も水も別料金で高い。店の対応にもゲンナリ。まったくスイスは中華料理までアテにならない。
その後、電車が遅れてようやく到着した青山さん田尻さんとイタリア料理屋で飲み直し。