朝から非常勤先で試験。そのあとアイボ実験。DVD Writerの調子が悪く、バックアップをとるのに苦労する。けっきょく電話を直すのは明日か。ないならないですがすがしい。夜半近くにハッシュ。例によってクライネリッシュ飲んで漱石の「カーライル博物館」読んで帰る。
高校訪問。その後、採点など。夏が来た。
自宅の電話回線の調子がおかしくなり、ISDNも電話も通じなくなる。完全に切断されているならまだしも、いちおう呼び出し機能は生きていて、ときどき電話が鳴って、しかも受話器をとるとつながらない。これが何度か続く。呼び出しという事実だけがあって内容が保留される。じつにいやな精神攻撃だ。かけて来た人には申し訳ないが、どうせつながらないので、結局回線を引っこ抜いてしまう。
昨日アレクサンダーテクニックの本を読んで以来、わたしの腕は肩甲骨から生えており、足は骨盤の横から生えており、尻のすぐ裏側には骨盤の二つの突起が椅子にあたっている。この突起に背骨をそっとのせてやる。
今日は幸い講義も試験もないのでオフにすることにして、京都をぶらぶら歩く。歩いているうちに日露戦争実記に当たり、しこたま買い込んでしまう。さらに歩くと、十二階絵はがきにあたり、これまた買い込んでしまう。十字屋で買い損なっていたCDをもうええっちゅうくらい買い、なぜかハノンとラヴェルの譜面、さらに立ち読みしておもしろそうだったのでアレクサンダーテクニックの本を買う。片桐ユズルという名前をこんなところで見つけるとは。
和田アキ子の「ルンバでブンブン」がとてもいい。捨て曲なし。労働者階級の詩情がリズムそしてブルース。
アレクサンダーテクニックの本を読んでから、ハノンを弾くと、自分の手首のかたさがよく分かる。左手の手首が左右に回転していない。だから小指にかかる力が尺骨と指の付け根との間でねじまがってしまうのだろう。これを解消するには、小指で弾くときに少し手首を右に曲げてやればよい。
京都でコミュニケーションの自然誌。菅原さんの発表。感情論から暴力論まで盛りだくさん。
例によって飲み会。水谷さんは最近この日記を半年分くらい読んだそうで、その感想は「おまえええ生活しとるなー、毎日なんや飲み歩いとるやないか」。もうひとつ。菅原さんが「感情の猿=人」に対する感想を大学でレポート課題にしたら、「カンパネルラとバッテラ」の話を書いてきた学生がいたそうな。この日記をコピー&ペーストしたに違いない。うかつなやつだ。
結局終電もなくなり、菅原さんとミックで話し込んで、そのまま泊めていただく。
午前中オープンキャンパスでミニ講義。その後京都の絵はがき交換会。だんだん絵はがきの質があがっているが、同時にかなり値があがってきている。まだこの会ができて一年半足らずだが、もう初回から比べて相当値上がりしており、もっぱら買い手として参加してる人間にとっては辛いご時世だ。困るのは、値段の基準がはっきりしないことで、以前は盆まわしゆえに安値でかえたのが、いまは盆まわしゆえに相場にくらべてとんでもない値段がついてしまう。
それでも百枚くらい買う。
そのあとさらに謎の会合があり、サイフはからっぽ。日曜だというのに終電で帰宅。
オープンキャンパス。専攻紹介のビデオを作る、という役目だったが、スライドショーでお茶をにごすことにした。テロップ画像作って写真並べて偽イームズ風のできあがり。こんなことに使うつもりはまるでなかったが、4月から撮りためてあった実習の写真が役に立った。そのあと採点やら研究室のパソコンのチューンアップやらで遅い日暮れも過ぎた。
以前、講義でTV番組の話をしたら学生に「先生すごいテレビ見てますよねー」と言われたことがある。この大学は自宅から2時間かけて通う学生も珍しくない。彼や彼女は朝の7時前には家を出て、5限めが終わると同時にバスにダッシュしても帰るのは夜の8時、ちょっと長居したり途中で飯食ったりすると10時11時、その頃にはへとへとQでテレビなんか見てるヒマはないのだ。
そこへいくと、学生の多忙をよそに、大学まで自転車で10分ちょい、朝の連ドラを見てから悠々出勤し、大学に居残ってもまたちゃりちゃり帰ればよい私の身分はあまりにいい気なものだと言える。そんな気楽な商売に文句を言うとバチが当たりそうだが、採点はなかなか終わらない。
子供はまた「旦那の嫌な大晦日」という毬歌をうたった。健三は苦笑した。しかしそれも今の自分の身の上には痛切に的中らなかった。彼はただ厚い四つ折の半紙の束を、十も二十も机の上に重ねて、それを一枚ごとに読んで行く努力に悩まされていた。彼は読みながらその紙へ赤い印気(インキ)で棒を引いたり丸を書いたり三角を附けたりした。それから細かい数字を並べて面倒な勘定もした。
半紙に認ためられたものは悉く鉛筆の走り書なので、光線の暗い所では字画さえ判然しないのが多かった。乱暴で読めないのも時々出て来た。疲れた眼を上げて、積み重ねた束を見る健三は落胆した。「ペネロピーの仕事」という英語の俚諺が何遍となく彼の口に上った。
「何時まで経ったって片付きゃしない」
彼は折々筆を擱いて溜息をついた。
しかし片付かないものは、彼の周囲前後にまだいくらでもあった。
(夏目漱石「道草」)
で、前にも書いた朝のNHK連ドラ「こころ」だが、もうほとんど意地で見ている。この三週ほど、前よりいくぶん話は落ち着いてきたものの、脚本家と演出家はあいかわらず会話と話の説明とを勘違いしており、朝から「セリフであらすじしゃべらせんなよ!」と声に出してつっこんでしまうほどなのだが、それももはや楽しみと化しつつある今日この頃だ。そもそもこの主人公はスチュワーデスである必然性などこれっぽっちもなかったし、夫との結婚生活にも何のリアリティも持てなかったし、その夫の死後、あれほど熱をこめて引き取るといった子供の存在は週を追って希薄になる一方で、このままでは「うー吉」のごとくよそにやられる日も近いと思われる(うそ)。いまは間寛平がいつうっかり「あめまー」と言い出すかだけが楽しみだ。
前に「元カレ」を見たら、東急の協力のもと、デパ地下の空気がちゃんと漂ってるし、「Shall weダンス?」でいっとう好きになった草村礼子がなんとまたダンスの先生なんだ、ソニンは一途で狂ったポジションにいるし、ヒロスエいいじゃん、いいドラマじゃん、と思ってしまったが、たぶん「こころ」の反動である。
今日も、スポーツ紙の番組欄のあらすじ説明があまりにわけがわからなかったので、つい「すいか」を見てしまったのだが、小林聡美が自転車で坂をわっせわっせこいでたので、一瞬、京一会館で「転校生」を見ているような気がしてぼーっとなってしまった。ともさかりえが顔くにゃっと歪めてるし、浅丘ルリ子はバイオレンスだし、「すいか」いいじゃん、と思ってしまったが、たぶん夏が近いからだ。
「彷書月刊」に原稿。明治・大正期の絵葉書記事を整理。
今日は統計学基礎の試験。ふう。とりあえず、こっちから採点するか。
暑い。
BGMは大瀧詠一「ロングバケイション」。もう夏で気持ちが海を求めて溺れそう、というときのカンフル剤。80年、81年の夏というと、RCサクセションとヒカシューと「ロンバケ」と村上春樹で乗り切った。以来、夏になると、このアンテナはいかしたナンバーをキャッチし、スイカはパノラマパノラマと行進し、「1973年のピンボール」と「我が心のピンボール」はTILTに重なってかたかた泣いてる。そんな名盤を聞きながら正規分布の変曲点の意味について採点する私の心もかたかた泣いてるよ。赤ペンは進むよ。ロンバケ何回分泣けば終わるのか。
夜なべして息抜きにTVをつけると世界水泳をやっていたが、見ていてイヤになってしまった。
世界水泳といえば世界の水泳選手が集まる大会であり、素人が見てもものすごい筋肉とか、ひとかき300mかと思うほどのストロークの強さとか、バタ足の水しぶきの量とか、背泳ぎでかく手ってああいうタイミングであんな形になるんだ、とか、とか、書けばキリがないが、つまり、肉体と肉体の動きとにひたすら驚き続ける場だとぼくは思っている。そして、水中カメラと音声録音の進歩で、そうした肉体の動きは克明に映し出され、スロー再生では選手のたてる水しぶきの音までもが映像に連動している。技術的には、水泳中継はリアルタイムでありながらほとんどアッテンボローのドキュメンタリー映像の域に迫っている。
ところがだ。そこに「浪速の気合い娘」といったテロップがずっとかぶり続ける。競技の間じゅう、ずっとだ。本人が頼んだわけでもなかろうに、勝手に週刊誌の吊り広告のようなキャッチフレーズをかぶせるこの根性、何様のつもりなんだろう。そのテロップが、バタフライにうねるものすごい腹の動きに延々重なり続ける。じゃまなんだよ。
そして、泳いでる最中に芸能人の表情をワイプで入れ、日本人選手がいい着順でゴールすると、その瞬間にスタジオの芸能人の表情をカットバックさせる演出。なんでゴールタッチとそれに続く空虚な時間をきちんと流さないんだろう。そして本人をさしおいて、さらにはまだゴールしていない泳ぎ手をさしおいて、なぜ、スタジオ観戦する人々が先にきゃあきゃあ騒ぐところを写すんだろう。たとえば、競馬で一二着のゴールが決まった瞬間にゲストの顔がカットバックされたら腹立たないか?
映像がますます正確に泳ぎ手の肉体をとらえつつあるのに反して、TV朝日の世界水泳中継はそうした映像の力にひどく鈍感で、逆に抽象的でわかりにくい日本水泳物語にすがり続けている。抽象的であるがゆえに、芸能人の方々が必要以上に騒いだり喜んだり、そして泳ぎ手本人があがった息を整えながらどうでもいい質問に答えなければ、説得できないのだ。そんな物語より、水の中で動いてる筋肉のほうがよっぽどわかりやすいと思うんだが。
昨日よりテストを作り始めて、午前中に人間行動論の試験。今年は記述を増やしたのだが、あとで採点がえらいことに気がついた。が、もう取り返しがつかない。何年試験を出しても「採点を楽にする試験問題の作り方」が会得できない。模範解答を作ってため息。
弛緩してTV。トリビアの泉で出ていた「変声期」というレコードは中学のときに聴かされたことがあって、その後、「フルショウモンジュウロウくん」という固有名詞はクラスで流行ったのを思い出した。
アッテンボローは、「植物との戦い」。単純に草食植物が駆け回る四肢の動きのスローを見るだけで気持ちよい。
アッテンボローの新シリーズが始まった。今回はほ乳類。毎度のことながら、「これ、どうやって撮ったの?」の連続。
アッテンボローの番組は、写実よりも本当らしさを追求するために、さまざまな時間と場所、拡大率で撮影されたカットを細かく編集する。そしておそらくは
シャッタースピードが速い(つまりブレの少ない)映像が多いため、ドキュメンタリーというより、ストップモーションアニメーションに近い質感がある。
シャッタースピードだけでなく、アップと引きの映像を交代させるテンポや、ささいな音をやたらと拡大する手法(アテレコ?と思うときもある)なんかは、
シュヴァンクマイエルの『アリス』にそっくりだ。
かなりあざといところもあって、特に捕食者と被捕食者の関係は作りすぎと思えるときもあるが、写実ではなくてアニメーションだと思って見れば違和感はない。それにみのもんたが「お、おいしそうなトガリネズミだぞ」などと言わないだけマシである。
今日第二回では、上空3000mのコウモリ雲vsガの大群、そして冬眠明けのコウモリをサーモカメラで撮り続けてるところが凄かった。いくつかの
種類がコウモリがガをつかまえるとき、後肢を前に突き出しながら肢のまわりの膜でくるっとガを巻き込むんだけど、ああいうのは、高速度撮影ならではだな
あ。交尾のとき、オスの身体はみるみる赤く(つまり体温が高く)なっていくのに、メスの身体はほとんど青いまま。メスはほとんど眠りながら交尾してるの
か。
ところで、アッテンボローよりもリアルな映像群がインターネット上にある。
動物行動学会のmomoプロジェクトがそ
れ。ここでは研究者が撮影したほとんど編集なしの映像を見ることができ、その行動がどんな意味を持っているかを読むことができる。論文になっている行動が
多いので、かなり内容が濃い。じつはぼくもほんのちょっとだけ関わっているのだけれど、今後充実していけば相当なアーカイブになると思う。
昨日、モルトの匂いを気つけ薬がわりにすべくハッシュで4杯飲みながらそれでも読み終えず、帰ってからさらに寝転がって「ディフェンス」読了。久 しぶりに小説を読むと、夏の日盛りに水を飲んだような気分になる。若島正氏の翻訳はナボコフの息の長さをよく伝えて緊迫する(たとえばp106から107 にかけて、フィアンセの優しい考えの中にルージンが現われる日本語のくだり)。
ナボコフの文章はひじょうに徴候的で、あちこちにちりばめられたできごとは、それこそ「観戦者たちからささやきが漏れたほどの一見無意味な手をさ して、ルージンは巧妙な罠を仕掛け、相手が気づいたときにはもう手遅れだった。」(p136)というルージンの手さながらに、さりげない、そしてさりげな さすぎるがゆえに、まるで「緑色のピースの縁にある黒」が羊飼いの手にした牧杖の影の気配を感じさせるように(p36)、徴候を帯びる。そして徴候は、ま るで球面図法で描かれた小さな突起、ただの虫垂が、メルカトル図法によって巨大な大陸となるように(p189)、網目の上で奇怪な形を取り始める。
ジグソーパズルは、欠けた領域にふさわしいピースを探す遊びであると同時に、手に取ったピースからありうべき領域を察する遊びである。欠けた領域 とピース、詰め将棋と実戦、虫歯と詰め物、妻の家族とルージン(妻の両親は、現実には欠けた理想の婿のありようを考えて嘆いている)、消えた少年と投石 (p102: このシークエンスがルージンのことばで全く別の形に解き明かされるp116に注意)。前者に没頭し後者に狂うというのがルージンの物語である。これらに、 問題と逆問題、光学と逆光学、という認知科学的ペアも加えたいところだ。
ルージンが最初に与えられたジグソーパズルは「端が丸い歯形に切られた大きなピースでできていて、組み合わせるとしっかりとつながり、パズルの全体を壊さずに持ち上げることもできた」(p35)となっていて、これはまるでプラチナの針金で支えられた歯のようで、ジグソーと歯列とがさりげなくここで接続されている。
後にルージンが与えられるより複雑なジグソーには、単純な円形をしたピースがあって、それは(未来の青空の一部)とかっこ書きされている。現在に 未来の一部を見出すこの語法、まるで触ることのできない未来に行って戻ってきたしるし、知り得ない領域を見てきたしるしのように発光するナボコフ色。しか し、青い光から未来を推し量る逆光学は、拘束条件を失ってさ迷い出す。
「出生とは終生の苦しみである」というゴーゴリのことばを、ルージン少年はきちんと書き取ることができず、「( )とは( )の苦しみである」と空白を残す。ここにも欠けた領域。ルージンという姓に欠けている名と父姓。
ようやくラヴェルの「ハイドンの名によるメヌエット」を弾きおおせるようになってきたので、次は「古風なメヌエット」に挑むことにする。ラヴェル
のメヌエットには他に、「ソナチネ」の第二曲と「クープランの墓」のメヌエットがある。これらを全部弾くことができるようになるのが目標なのだが、あと何
年かかるだろう。メヌエットは一小節ごとに(というよりは一拍ごとに)つまずきながら進む。我ながら無様な練習だが、ときおり、ぎくしゃくする指がメロ
ディになることがあるのでなかなかやめられない。
スティーリー・ダンの「Everything must
go」のおまけについてくるDVDは、MTV臭を感じさせない、ほとんど「北野タクシー」のような内容で、タクシーを運転するおばちゃんがじつに
いい味を出しているのだが、そのオフィシャルページの図像。なーんや、これ。ちなみにここからリンクをたどれば、スティーリー・ダンの歌詞を読むことができる。これは便利だ。字が大きくて読みやすい。
検索しているうちに「スティーリーダンの歌詞について語る会」のページがあることも知った。こちらでは歌詞世界について熱い解釈が交わされている。
「Slang of Ages」に突然出てくるDuke of Earl が何なのか最初ピンとこなかったが、それはジーン・チャンドラーの「恋のスーパー伯爵」のことらしい。チャンドラーはこんな風に歌っている(例によって大阪弁意訳ご容赦)。
抱かしてえな
われは伯爵であーる
なんじは伯爵夫人であーる
わが領土を歩けば
そこは二人のパラダイス
めちゃ愛したるで...
Let me hold you,
'Cause I'm the Duke of Earl
When I hold you,
You will be the Dutchess of Earl
When I walk through my Dukedom
The paradise we will share
I'm gonna love you .....
(Gene Chandler, "Duke of Earl")
で、「Slang of Ages」の以下のくだりは、チャンドラーの歌う恋の歌を(アムステルダム産タブレットで?)ぶっとばしてるわけだ。
ほんできみ、ネザーランド(オランダ)出身なんか?
それともネザーワールド(地獄)て言うたんやったっけ?
きみがアムステルダム育ちなら
われは伯爵であーる
むちゃくちゃなタブやな、けど、きみにいわしたらこれがええんやな
おのぼりさんたちとカサブランカみたいにどんちゃんしような、「ノック・オン・ウッド」で
(Steely Dan, "Slang of Ages")
それにしても、スティーリー・ダンの歌に突如現われる女性コーラス(バビロン・シスターズもしくはトゥモロウズ・ガールズ)は本当にこの世ばなれしているな。ルー・リードの歌うカラー・ガールズのように。
「Slang of Ages」の、以下のような彼我の時間空間の越え方が気に入ってる。穴を知らないマルコヴィッチのような妄言。こんなレトロスペクティブなインスペクティブがいちいち気になるのは、「ディフェンス」を読み続けているせいだろう。ナボコフの文章は一小節ごとにつまずくのでなかなか読み進まないが、ときおり(それこそ長い筆算の果てに19で割り切れるように)メロディになる瞬間が訪れる。
なんやねんおまえは、まるごと夢なんか?
それともこの人生の終わりなんか?
それとも夢と終わりのまんなからへんか
白状せんかい
おい、どこ行きよった?
くそったれ、あいつ次元越えてどっか行きよった
おれ、なんか言うたか?
それともおれは考えてただけで、
それをあいつが頭開けて見よったんか?
("Slang of Ages")
梅雨明けのようにむしむしする日。目の前からなるべく読む必要のない本を遠ざけるべく小掃除をする。夏休みにはまだ早い(なにしろ来週から試験が3つあってそれの採点がある)が、とにかくこの暑さがきたということは、収穫の夏が来たということだ。これから書かなければならない原稿に関連する本だけを並べていく。無駄をそぎおとしていくというより、ささくれが目立つように本を刈り込んでいく。草刈りならぬ本刈り。
夜、ハッシュでクライヌリッシュ、タリバーディン、ボウモアと進む。草の匂い、泥の匂いをかぎ分ける。週末で店の中は賑やか。3月までここのバーテンだった田村くんが来ていた。接骨院で勉強をしているのだという。冬の間、人の気配のないハッシュでよく田村くんが黙って洗い物をしていて、ぼくは本を読んでいた。
その3月以来、忙しさにかまけて読みのがしていた「ディフェンス」をようやく読み始める。
夜、ハッシュ。タリバーディンは青いバタースカッチのような味。むかし、ジェイソン・モネから聞いた、「ひとさじひとさじ違うフルーツの味がする飲み物」というのを思い出す。
夜半を過ぎてDVDで「真夜中のカウボーイ」。十代の頃見たときは、なんのことやらさっぱりわからなかった。だいたいテキサスとニューヨークとフロリダの位置関係さえよく知らなかったし、ハッパの回し方も知らなかったもんな。
もちろんテキサスとニューヨークとフロリダがどういう場所であるか知らなくとも、その場所性は映画の中でくどいほどにたくさんのショットとなって切り取られているのだが、昔はそういうショットに注意するということを知らなかったし、そこにこめられた意味をあれこれ考えたりもしなかった。それがつるつる分かるようになるのだから、年はとってみるものではある。
ニューヨークについたジョーが、ホテルのビルが描かれた絵葉書に矢印を入れるシーンがある。これはぼくが「ここにいます型」と呼んでいる絵葉書の使い方のひとつで、矢印を描くことによって書き手がまるで自分を入れ子のように絵葉書内に入れてしまうところがおもしろい。映画の中では結局この絵葉書はびりびりに破かれてしまう。
ところでMutual Of New York (MONY) の看板が字幕では訳されてないけど、これ、けっこう大事なキーワードだよなあ。
五限目を終えてからJR彦根駅に急ぐ。梅田から肥後橋へ、中之島に渡って西に進む。夜8時、朝日新聞を過ぎるとあたりに人の気配がなくなる。このさびしい通りをしばらく行くと、建設中の科学館があって、その向かいがgrafのビルで、そこで「ソウルスタイル」の佐藤氏とgrafの服部氏との対談。佐藤氏の「人は快適を求めて椅子に座るんじゃなくて、そこになんらかの物語を見出そうと思って座る」という発言に、いま考えていることと重なるものがあった。ぼくのことばで言い換えてしまうと、快適は無意識であり、それを意識化させる手がかりが椅子には求められる。椅子から何かが「もれて」くる必要がある。
下のカフェでエール。とても居心地のいい空間だった。隣でやっていたのは志賀理江子個展「明日の朝、ジャックが私を見た。」 暗い部屋に並べられた印画紙。黒のてらてらした印画紙にギャラリーの内部が映り込んで、ホログラムのようだった。
樋口覚「『の』の音幻論」五柳書房。
以前「三弦の誘惑」を読んで以来、樋口氏の著作が気になっていたのだが、この「『の』の音幻論」もめっぽうおもしろい。幸田露伴の「音幻論」や上田秋成と本居宣長の鍋「ん」と「む」をめぐる論争が引かれながら、「の」をめぐるさまざまな考察が為されていくのだが、その考察は直線的に進むのではなく、旅につぐ旅によって屈曲しながら移動していく。
そのため、論の深まりという点では物足らないところもある。たとえば「ん」の音のみが音を永続させて発音させても変化しないことを指摘するp47のような論は、あまりに五十音図にこだわりすぎていて、日本語の「s」や「h」が引き延ばされる現象の魅力が捨象されているように思う。また、「m」の音がじつは「n」の音と同じく、「永続させて発音させ」ることができる点は、秋成と宣長の論争のポイントであり、その差異は唇の開閉にあると思われるのだが、こうした音韻の問題を氏はあえて避けているようなところがある。
にもかかわらず、この本は魅力的だ。それは、さまざまなできごとが、それこそ「声」のように、突然訪れるせいだろう。「の」の話かと思って読み進めていくと、酒中に真を探る話が始まる。酒の中にはトリノがあり、トリノにはニーチェがいる。そのニーチェに友人から手紙が届き、ベンヤミンがその手紙を取り上げる。そこへ斎藤茂吉が遅れてたどりつき、フランスを思いやる。すると、話は酒から酒田に移り、鈴木牧之の「北越雪譜」の魅力が語られ、おやおやと驚くその間にも、「の」の始まりの音が頭の中で「ん」と低くくぐもって、幻の気配を漂わせ続けるという具合なのだ。
読みながらときおり、声ではなくてジェスチャーのことを考える。たとえば、以下の文章は、声と身振りが対比されているが、じつは「声」のかわりに「(自発的)ジェスチャー」をあてはめて読み替えることができると思う。
「猜疑的」という意味は、呻き声、息切れの音、叫び声のように、語られる言葉が、身振りや動作よりもはるかに激しい感動を与え、次に来るべきものが限定されていないために常に人に不安を感じさせるということである。文字のように像として固着して見るのではなく、一瞬ごとに波紋をつくる音をあるまとまりとして分節化し、それらを高次な織物に次々に裁つことが耳の役割である。
(樋口覚「『の』の音幻論」五柳書房 )
punctuation, punctum, punctual、句読点は狙いを定めて刺すプンクトゥム、写真についた画鋲のあと
いまわれわれが使っている、あるいはいまわたしが書いているときに使う句読点は、句点の。と読点の、の二つきりである。しかし、それは西洋式の句読点であり、句読点(punctuation)であって、これが一般化したのはたかだかこの百数十年の間のことでしかない。(中略)たとえば、源氏物語の原本には一切句読点は使われていないが、現在のわれわれは、それにさまざまの大小(あるいは強弱)の句読点を挿入することで呼んでおり、それは当然、近代的な解釈と関係するだろう。とりわけ詩歌の創作においては、定型と非定型を問わず、表現の表記法、息さしの強弱、文と文との微妙な接続と断絶など、表現の生死を決するものであった。(「『の』の音幻論」 )
行の運用について。樋口氏は、佐々木幹郎「柿へのエレジー」を引用してから以下のように書く。この文章をワープロで打ち、横書きで表示するのは明らかに倒錯なのだが、その表示の違和を感じるためにあえて引き写しておこう。
柿はどうにもならぬ
柿は無礼である
柿は恥を知らぬ
柿は不穏である
(中略)
柿は許せぬ
柿に対しては協力できない
柿のでたらめなさ
柿のような無知
ここでどうしても気づかざるをえぬ一点は、近代詩の「行の観念」(折口信夫)とその造形性である。つまり同じ行といっても、日本の垂直の行は西欧の水平の行と全く違う。もしこの詩を垂直から水平にした場合、その内容と表象は別様に感じられるだろう。垂直の行には垂直であるということだけで或る精神性と、「行」という漢字にこめられた様々な意味が感じられる。詩人は、行替えという運筆によって、文字ばかりか有意味な沈黙(空白)刻んでゆくのだ。(「『の』の音幻論」 )
樋口氏の言にしたがって、あえて水平に書き写してみると、奇妙なことに気づく。それは、左詰めによって生まれた右側の空白が、やはりある種の沈黙を生むということ、しかしその沈黙は、それぞれの行にこめられる息つぎというよりは、ひとかたまりの、右側に存在する「領域」として感じられるということだ。
考えてみると、わたしたちは、上下の対称性よりも左右の対称性に敏感に反応する。おそらく、左右の分布に重力が作用しないからだろう。左右の分布に偏りがあるときは、わたしたちはそこに重力以外の力の存在(作為、といいかえてもよい)を見出し、その見えない力によって生まれた空虚な領域を見出す。縦書きのようにあらかじめ重力を感じながら一行一行に跳躍をするのではなく、左詰めを繰り返すうちに次第に凝っていく力の気配を積み重ね、領域を発見する。
「センタリング」という概念がもっぱら横書きで用いられ、縦書きではさほど一般的でないことは、わたしたちが上下よりも左右の対称性を偏重することをよく表わしている。重力に従って書き下ろし、重力に抗して行頭へ繰り上がる縦書きの飛躍。空虚な力を生み出す横書きの領域。ここにもまた、左右問題が存在する。
例のごとくジェスチャーゼミのあと、松嶋さん、成田君とお好み焼きをつつきながらうだうだと話。「コミュニケーションは弱い鏡」というすごいフレーズを思いつくが、それがなぜすごいフレーズであるかを説明するのは難しい。この逆として「鏡は強いコミュニケーション」というのも思いつく。
あと、歌番組に歌詞が出るようになって歌謡曲は変わったね、「Wow」や「Yeah」が歌詞として文字化されるようになって歌謡曲の制度化は完成しJ-POPとなった。歌詞に声が追いつかなければならなくなったとき、声は刺すことを止め、歌謡曲は声を失ったのである。などと、音楽雑誌を読まないJ-POP論を山ほどぶつ。
あとなんだっけ、くそったれなことばで書くなら、RIP SLYMEを筆頭にヒップホップの歌詞ってまったくくそったれだ、あの、JOINT連発して反社会気取るスタイル、スタイル気取る狭い社会、自由謳歌する不自由の極み。ヒップホップもパンクもダメだねー、という話(なにせ酔っぱらってるので、ヒップホップもパンクも知らなくてもへっちゃらである)。ブルーハーツを最後に、パンクってぜんぜんピンとこないなー。パンクってもともと反社会じゃなくて非社会でしょう。「I am an antichrist」と「ぼく、パンクロックが好きだ」っておんなじこと歌ってるよね。英国人が自分はantichristである、と歌うとき、それは単に反社会的なんじゃなくて、もう懺悔を聞いてくれる神も免罪してくれる神もありゃしないという非社会的なよりどころのなさが絶叫されてるんであって、ぼくパンクロックが好きだというのは、いいかげんな気持ちじゃなくてそういう絶叫なのだ、だからパパーママーおはようございますという社会からはぐれて気がついたらナイフを持って立ってたってことだろう、少年が改悛の日記をいくら書こうと、聞いてくれる神もありゃしない、つぐなう手だてが見つからない、その見つからなさに鈍感であるばかりか、懲罰をメディアによって行なうことに何の痛痒も感じない青少年担当相と記者とが、自分たちだけはまっとうな子の親であり続けるはずだという多幸感に支えられて口をすべらせた「市中引き回し発言」に、賛同のメール8割、神亡き社会きわまったこの世で、加害者の親に謝らせたくてしょうがないお前たちは何様なのかと思ったら黄門様らしい、他人はいなくとも黄門様はこの世に山ほどいるらしい、そんなこの世で、JOINTにいそしむやつとナイフを持って立ってるやつと、自分はどっちに近いといえば後者に決まってるだろう。