The Beach : July b 2002


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20020731

 Goodwinの論文PDFともとになったデータのムービーを入手。ことジェスチャー研究に関しては、こうしてデスクトップで読めるのはとてもありがたい。なにしろこれまで隔靴掻痒だった会話やジェスチャーのスクリプトを、ムービーで確かめることができるのだ。どうせノートパソコンは毎日持って歩いているのだから荷物は増えない。

 期末テストに模範解答作成。夕方、立命の羽尻さんのところへ行き、あれこれアニメを見せてもらう。「ほしのこえ」は、一人で描かれたことのすごさについてあれこれ聞いてはいたが、つまるところ風景への異様なこだわりに尽きる。バス停や踏切に高架線。

 三年前のビデオだけど「フリクリ」にはぶっとんだ。特に第一回のマンガのコマ割りを使ったシーンは「ポップアップコンピュータ」以来の衝撃。庵野秀明ではないガイナックスの異様なスピード。
 欲望の対象のあいまいさゆえに股間ならぬ額を硬くし射精ならぬ射メカする少年、そのもやった頭にリッケンバッカーの一撃。ギターバンドというのは知っていたがギターアニメというものが存在するとは驚いた。

 草津で飲んで帰る。




20020730

 高校訪問。自転車をちょっと漕いだだけですごい汗をかく。ああもうヤメヤメ。家でおとなしく論文を読む。

 DVDでブーレーズが振ったドビュッシーの「夜想曲」。「祭り」のダイナミックスのコントロールは見事というより他ない。このクレッシェンドだらけの曲で、よく声部のバランスが取れるな。今まで音に埋もれて気づかなかったパートがいくつか聞こえた。
 さらに「ペレアスとメリザンド」。夜想曲の「シレーヌ」もそうだが、どうもドビュッシーの声の扱いはピンとこない。結局、ぼくにとっていちばんとっかかりがあるドビュッシー=ブーレーズはあいかわらず「海」だった。




20020729

 二日酔いで東京から彦根へ。うえええ。会議二発。




20020728

 さすがに疲れが貯まっているが、講演の準備をしなければならない。ドリンク剤二本飲んでとりあえず復活。
 パワーポイント書類を作ろうかと10分ほど格闘したがヤメ。デスクトップフォルダでいいじゃん。アピアランスのフォントを大きめにして「0. 絵葉書で見る十二階」「1. 飛行機と岡本一平」などと名前をつける。フォルダを開けると関連図像ファイルが入っていてクリックすれば開く。拡大縮小も自由。あ、このほうがラクだ。そうか、フォルダアクション自体を、プレゼンに使えばいいじゃん。

 11時に時代屋へ。さらにペーパークラフトやらレジュメやら準備して、台東区生涯学習センターへ。「大正の東京の空:十二階と飛行機」というタイトルで話。飛行機、身投げ、十二階下、震災の話など。本に載せなかった話がほとんど。これでもう一冊書けるかも。

 そのあと、藤原さん、宮田さん、加藤さんと飲み食い。さらに宮田さんと加藤さんを連れて例のこわいばあさんのいる酒場へ。つまみをぱくぱく食ってたら引っ込められる。ああまた怒らせちまった。




20020727

 代々木公園内を歩き、「航空発祥の碑」を撮影。昭和一五年に建てられたいかにも愛国精神飛翔するデザイン。見ようによってはかっこいいかも。近くに日野、徳川中尉の碑。この二人が明治43年の12月、代々木の練兵場で行った試験飛行が、日本航空史上初の飛行ということになっている。碑の足下が割れていた。
 このあたりはホームレスの人々の集う場になっていて、碑を囲むように蒼いビニルシートがへんぽんと翻っている。かの蒼空に飛行機飛ぶか。

 渋谷へ戻り、朝の門限の過ぎたホテルに戻り、3時間ほど寝る。

 チェックアウトして横浜へ。どうにもこうにも暑い。開港資料館で新聞を繰りながら、明治末期から大正三年までの飛行機記事をあれこれ読む。大正二年六月、向島から写した長沢中尉の機影の下に十二階を発見。ビンゴ。
 関内に行く途中にあった洋食屋にぶらっと入ったらうまいビーフシチューにあたった。絶妙な脂身の使い方。

 上野へ。榎本くんとしばし話。
 浅草のホテルにチェックインして1時間ほど寝る。それからミルキィさんのスタジオへ。絵葉書をあれこれお見せする。普通の人なら見飛ばす葉書の表のデザインにひとつひとつ目を止めていくところがさすがだな。さらに寿司食ってエスプレッソ飲んであれこれしゃべる。




20020726

 朝からクラフト紙を買い足しに行き、自宅でペーパークラフトをプリントアウトしつつ、大学で資料を読み、昼休みに散髪と電気屋に行き、テキパキ動いたつもりが気がついたら二時。これ以上効率はあがらないとあきらめ、米原へ。
 新幹線に乗るときに、あれ、と思ったが声をかけたらゆうめんだった。十数年ぶり。しばし近況報告がてら立ち話。

 代々木オフサイトへ。辰野さんに映画音楽の録音に使うオーリックというクリックシステムを見せてもらう。ウィンドウズで動くのかと思ったら独自のOSで動いてるとのこと。その方がタイミングが頑健なんだそうだ。指示は基本的にコマンドライン入力。画面がすげえAMIGA風で好ましい。

 中尾勘二SP鑑賞会。ぼくは横でただ思いついたことを言う役。しかし、役も忘れ、聞きしにまさるSPワールドをひたすら堪能する。人生の山と谷をつるつるになめしたアリラン峠、聞くだけで本当に怖い童謡ビワ・バンド、可能な限りスローに惜別の念こもるアロハ・オエ、律儀すぎるタンギングで刻まれるドイツジャズなど、とにかく調べはアマリリスとしか言いようのない充実した内容だった。そしてその微細な内容を中尾さんは克明に覚えているのだ。

 大友さんや須川さんが来ててびっくり。久しぶりに話。ぼくをEVと呼ぶ数少ない知人Sueと仕事の話も。気がつくと夜半近く。

 そそくさとホテルに帰るつもりだったが、ハットリフェスティバルがうまいものを食いに行こうというので、ついひょこひょこついていく。彼の味覚は非常に信頼できるのだが、よい店に行くために歩いて2,30分かける。そして確かにうまい沖縄料理をもうええっちゅうくらい食ったらホテルの門限を過ぎていた。深夜喫茶でしばらくダベるが、さすがに午前4時にもう話すのもダメな感じになり退散。近くのマンガ喫茶でぼんやりマンガを読み、始発で原宿へ。なんか学生時代のライフスタイルではある(つづく)。




20020725

 学期末試験問題を作って夕方に統計学基礎の試験。

 日曜の講演のための資料整理。明治二四年の版画を見ながらペーパークラフトを手直し。窓の格子や輪郭が少し違っていた。




20020724

 朝から高校訪問。高校訪問というのは、県下や近隣他府県の高校に各教員が出向いて、進路指導の先生に「いかにうちの大学を受験するとすばらしいことがあるか」を説明するというもの。
 昨今の大学受験が買い手市場であることもあって、ぼくの所属する専攻でも去年からこの高校訪問をやっている。すでに大学事務でも学校まわりはやっているのだが、それとは別に、募集人員が減少傾向にある専攻は個別重点的にこの「学校まわり」をやるべし、とのお達しなのだ。

 こうした学校まわりを、あちこちの大学、あちこちの学部や学科が始めるとどういうことになるか。進路指導の先生は、各大学、各学部や学科の説明を、毎日のように聞くことになる。

 そして、どうやらそうなりつつあるらしい。

 ぼくが進路指導室に入ると、入れ替わるように別の学校まわりとおぼしき方が退出するところで、先方の先生からはすでに「お疲れ」の表情が読みとれた。というわけで、大学の説明はそそくさと済ませ、しばしよもやま話へ。
 進路指導の先生は物理担当で、やはり昨今の「理科離れ」を嘆いておられる。じつは心理学や教育学にも理科のセンスは必要で、むしろ数学や物理に興味のある人が来てくれると楽しいんですが、と応じると、「でも、結局はね、受験科目に合わせて高校生は勉強するんですよ」と言われる。ごもっとも。

 ビバシネマで「少林サッカー」。いやあ楽しかった。タイトルバックからもう、トゥーンがわかってる人のアニメーションだとわかる。コーチとの出会い、饅頭屋のムイと出会ってからダンスにいたるまでの流れは、ほとんど「エレキな春」や「おらあロココだ」あたりのしりあがり寿をほうふつとさせるすばらしい展開。
 パスワークを映す引きの画面で使われるCGが紙人形のようで(ハリウッドのCGではけしてありえない)これまたすてき。
 途中ちょっと現れた、「どですかでん」かMADの表紙に出てきそうな作曲家の顔が忘れられん。




20020723

 日曜日の講演のネタを拾いに『タイムマシン』を見に行く。ロンドンの話かと思ったらなんと舞台はニューヨーク。NYの過去は変えられないが未来は変えられる、という信念のもと、主人公は80万年先の敵をせん滅し味方に英語とマーク・トゥエインを広めるのであった。もしかしたら『タイムマシン −怒りのアフガン』を目指しているのかもしれないが、なにしろ脚本がむちゃくちゃでよくわからなかった。音楽がNHKの「世紀を越えて」に似てたのはシャレなのかも(本気にしないように)。

 家に帰って口直しにDVDでルビッチ『淑女超特急』。悪かろうはずがない。しかし、この「ハリウッドクラブ』シリーズのDVD、ラインアップはおもしろいんだが、チャプターはろくに切ってないわ、字幕はオフにできないわ、翻訳が妙だわ、かなり粗っぽい商売してるなあ。

 いま楽しみなのは、かつてのLDでのシリーズがパワーアップして復活するかのようなパイオニアDVDのアニメーションシリーズ。ノルシュテインはもちろんチェコ新アニメもかなり入ってそう。

 どうも暑さにやられてるのか不調。プリンスの「ダーティーマインド」見て頭をリセットする。




20020722

 ほんとに暑いな。

 夕方、京都へ。ちょこっと古本屋によって、小川一真撮影の明治天皇御大葬写真集を格安ゲット。
 写真では、夜だというのに、長い行列が煌々と照らされて、カメラから見て斜め後方にくっきりと影を投げている。この光に牛車の牛が驚いたという話も残っている。
 大葬のときに一真は大規模なストロボ撮影を行ったのだが、これにあわせるように各所でマグネシウム撮影の実験が行われて、死亡事故も多発している。また、どういう経緯なのか、このとき一真と写真師協会との間でトラブルがあったらしく、一真は協会から排斥されている。
 といった具合に、写真史や小川一真の履歴を考える上ではおもしろい存在の写真集なのだ。

 ちなみに、千円札に印刷されている夏目漱石の写真はこの大葬と同じ月に一真の写真館で撮影されたもので、同日の別の写真からこのとき漱石は黒い喪章をはめていたことがわかっている。ちょうどこの時期の日記が残っていないのだが、大葬に出たときの喪章である可能性は大きいだろう。


 がんこ二条苑でフラゲイジーさんの懇親会。国際霊長類学会の前祝いという感じ。
 ちっとも知らなかったのだが、がんこ二条苑というのは旧大石邸で、ここは高瀬川源流になっていて豪奢な庭がしつらえてある。そうか、中はこうなってたのか。どうも「がんこ」というと大阪のでかい看板のイメージがあって、京都の庭付き料亭というのを思いつかなかった。
 さぞかし高いかと思ったら、腹一杯食ってリーズナブルな値段だった。

 帰りにメディアショップで、多木浩二「もし世界の声が聞こえたら」、relax最新刊(安田謙一の行くメキシコが目当て)、「ユーロアニメーション」など。




20020721

 たっぷり寝る。起きて外へ何度か自転車で出たが喫茶店はどこも満員で、アスファルトは殺人的な熱気を立ち上らせているので家に戻る。カールさんからもらったウインナ茹でて窓という窓、ドアというドアを全部開け放つ。猫は本のある部屋に移動すると危険なので床にいるのを見張りつつ、ウインナ食う。


 昨日もらったジョン・ウードリングのフィギュアを机の上に置いてみる。1910はしっぽと上体のバランスが微妙で、うまい角度を見つけないと倒れてしまう。
でもいったんその角度にしてみると、ちょうどジャンプして開いた両足のいきおいが、しっぽの形に丸くなって立つ。垂直の力が水平でくるりととぐろを巻く。

 シャーリー・テンプルの「小公女」。舞台は1899年、ボーア戦争時のイギリスでの話。現在でこそ、ボーア戦争=イギリス帝国主義の没落の原因、と教科書的に考えるのは簡単なのだが、少なくともこの映画のできた1939年、第二次大戦前夜はまだそういう見方ではなかったらしい。
 今見ると、映画の物語は、ほとんど解説の必要がないほどあからさまな「帝国主義」的産物である。
 安楽にDVD見ている自分の立場も忘れて、ええええ、あなたたちはお幸せでよございますね、一度アフリカとやらに住んでいる人と入れ替わってはどうでしょう、とイヤミのひとつもいいたくなるほどである。おまえらいっぺん阿片漬けにしたろかと思うほどである。女王陛下に敬礼して終わったりするのを見ると、もうこの映画につきあったのがあほらしくなるほどである。

 シャーリー・テンプルは実に鼻っ柱が強く小憎らしいほど大人びた演技をする役者で、とうてい「かわいい」などという形容は不能。トウで立たずに踊るバレエシーンも、かわいげがあるというよりはよくもまあずけずけと、という感じ。「悲しき口笛」の美空ひばりや「おしん」の小林綾子あたりがシャーリー・テンプルの系譜だと思う。
 ミンチン先生がセーラに立体写真をあげるシーン以外は、いちいち「けっ」と思いながら見ていたといっていい。

 それなのに。セーラの声に父親が気がつくところで、目の間がつーんとして涙にじみモード。愚かなり我が心、ってこういうときに使うのか。


 さらにDVDで「タイムマシン*」。ただし、1960年のジョージ・パル版。
 タイムマシンは、SF映画扱いということになるんだろうけど、時間飛行のシーンはアニメーションとして見てもすばらしい。マネキンのモードの変遷や天窓、部屋の変化を、微速度撮影ではなくアニメーションで見せる。
 1年を1秒で移動するとしても、1秒24コマのフィルムにはせいぜい半月単位の変化しか写らないはずなのだが(だから天窓の太陽の運行なんか見えるわけないんだが)、そこをあえてアニメーションで見せて旅行感を出してるわけだ。

 ハンガリー生まれのジョージ・パルはSF映画監督としてよく知られているが、じつはアニメーション作家としてのキャリアの方が長い。小さなチューバ、というかなり強烈なアニメーションがあって、これを倉谷さんに見せてもらったときの印象は忘れがたい。あの奇妙なメロディ! 

 パル版のタイムマシンでは、エロイ族がもろに人間の姿をしている。逆にモーロックはというと、じゃんじゃん殺しても良心が痛まないほど、邪悪かつ情けないデザイン。だから、原作のあからさまな「オリエンタリズム」性はあるていど隠蔽されている。
 それでも、無知蒙昧な未来人を目覚めさせようとするタフガイな主人公の勇ましさは際だって大きなお世話である。主人公が、読まれずに朽ちかけている本を嘆いて「何千年もの結晶である文化をキミたちはゴミ扱いしている!」と叫ぶのだが、アンタがいちばん文明を壊してるよ。まったくアメリカってやつは。

 DVDにはおまけのドキュメンタリがついていて、作中のタイムマシン(というか椅子と円盤の合体マシン)を複製する話が泣かせる。

*去年の20011121日記にタイムマシンと「飛行」の関係のことを書いたが、作中の「時間飛行家」とは邦訳で、原作では「time traveller」になっていた。だから、ウェルズは直接には飛行機との関連を示唆していないことになる。タイムマシンと飛行機との関連はおもしろい問題だが、考え直す必要があるかもしれない。




20020720

 朝起きてぼんやりコーヒーなど飲んでいると昼前。十字屋でDVD山ほど。

 そこからみなみ会館に移動して溝口「新平家物語」。さすが地元京都だけあって、お年寄りが多く、席は八割方埋まっていた。

 当時の風俗を画面びっしり仕込んだ群衆シーンがすごい。特に終盤の僧兵の群れ。否か応か。おうっ。
 平家物語とはいえ、描かれている世界は雅というより戦後。平氏と上皇の関係の揺れがそのまま戦後の復員兵と天皇の関係の揺れにはねかえっている。清盛が上皇の子であるかどうかという物語は、そのまま明治以降の「天皇の赤子」をめぐる物語に見えてしょうがない。その考えで行くと母親はパンパンガール、公家はアメリカ? いや、それはわかりやすくしすぎだ。それにしても木暮実千代の胸元が気になる。

 出町柳のトランスポップで長い立ち話。山ほど買ったらジョン・ウードリングのがちゃがちゃをオマケしてもらった。わーい。

 やなぎさんと木村さんを呼び出してビールにつきあわせてしまう。




20020719

 CRLへ。伝さんによるクラークの「基盤化 grounding」に関するレクチャー。
 ジェスチャー学会でクラークが話していたことと合わせるとこんな感じ。


レベルAの行為Bの行為ジェスチャーに拡張すると
4:相互行為相互行為wを提案wの提案を考慮 considerjoint project
3:意味命題pを意味するpを理解するintention
2:語語の列sを発するsを同定するSignal
1:音音の列tを発するtに注目するChannel


 中で、ポイントは、Acceptanceの発話が同時にPresentationの機能を持っているという指摘だと思った。これがあるために、相互行為は連鎖的になる。
 こういうセンスは、隣接ペアの第二部分や、四分連鎖の考えに近いように思う(クラークはこれらを基盤化で説明できると考えているフシがあるが)。

 ジェスチャーによるコミュニケーションがクラークの基盤化の「同時性 simultaneousity」になじみやすいのは、視覚がお互いの重複を許すチャンネルだからだと思う。声だと、二つの声が重なると聞こえにくくなってしまうため、たいてい次の発話へと返答は持ち越され、基盤化は連鎖となる。
 が、視覚だと、お互いがジェスチャーを重ねても見えにくくなるということはない(と、いっけん思える)。お互いのやりとりがコンマ一秒レベルの短時間で次々と連鎖を起こす。しかもAcceptance のジェスチャーは同時にPresentationの機能をも持つので、ジェスチャー連鎖はものの1秒足らずでものすごい相互作用を達成してしまう。
 このめくるめく連鎖は、思わず「同時性!」と叫びたくなるすごさではある。が、正確には同時ではないのだ。これを同時ではなく「条件関連性」として踏みとどまるところに隣接ペア概念の旨味がある。

 ・・・などなど、いろいろおもしろいアイディアが浮かんだはずなのだが、そのあと飲み会でぐずぐずになってしまう。結局彦根までたどりつけず、京都泊。




20020718

 田中くんの修論発表。
 対立的会話について考える。

 人が議論するときにもっともシンプルなモデルは、お互いがお互いの意見に対して非同調を続けるというものだ。たとえばAとBが対立しているときは、

 Aの評価←Bの非同調←Aの非同調←Bの非同調←・・・

 しかし、これではまだ、子供のケンカである。

A「宇宙人いるもん」
B「いないもん」
A「いるもん」
B「いないもん」
・・・

 キリがない。
 これでは飽きてしまう。子供ですら飽きる。で、どうするかというと、対立の争点に条件を付けるということを覚える。

B「宇宙人見たことあるか?」
 A「ない」
 B「ほら、やっぱりいない」
A「・・・うん」

 「宇宙人がいるかいないか」という対立は、Bは「宇宙人を見たことがあるのか」「ない」という入れ子を含むことで、より限定されたものになる。
 これは会話分析でいうところの「隣接ペアの入れ子構造」だ。
 通常の隣接ペアは二つの発話で形成される。

A「宇宙人はいるか」
B「いない」

 しかし、隣接ペアをいきなり形成せずにいったん条件を加えると、隣接ペアは入れ子になる。

A「宇宙人はいるか」
 B「TVでやってるやつはほんとかな」
 A「うそでしょう」
B「やっぱりいないのかな」

 隣接ペアが入れ子になる場合の特徴として、立場の逆転がある。最初に質問をした側が、逆に質問される。尋ねられた者が、逆に尋ね返す。
 尋ね返すことで、最初の問いは条件づけられ、答えがより絞り込まれる。だから、質問には尋ね返した方が、問いが限定される。対立者には質問をした方が対立が限定される。

 しかし、実際の対立はそう簡単には済まない。

B「宇宙人見たことあるか?」
 A「ない」
 B「ほら、やっぱりいない」
A「でもいるもん」
B「いないもん」
A「いるもん」
・・・

 つまり、隣接ペアが入れ子になると、対立の争点は限定されるのだが、それはせいぜい限定された対立を解決するに過ぎない。相手が各論に納得したからといって、総論に納得するとは限らない。

A「宇宙人はいるもん」
B「宇宙人見たことあるか?」
 A「ない」
  B「おまえのまわりに見たことあるやついるか?」
  A「いない」
 B「ほら、やっぱりいない」
A「でもいるもん」
B「いないもん」
A「いるもん」
・・・

 ほら、こんなに入れ子になっても納得しない。
 相手と対立するとき、こちらは対立をより限定することがある。隣接ペアをより深くすることがある。それでも、相手が納得するとは限らない。
 深くなった限定条件のすべてを解消すれば、深い解決が得られるはずだ。しかし、入れ子が長く深くなるほど、積み残される条件は増えやすい。
 対立的会話とは、限定を重ねる旅である。対立の解消を求めながら、気がついたらとんでもない場所にいる。旅はとりあえず帰還を目指しているが帰れなくなることもある。

A「宇宙人いるもん」
 B「宇宙人見たことあるか?」
 A「あるもん」
 B「百万円かけるか?」
 A「かけるもん」
 B「どこに百万円もってるんだよ?」
 A「もってるもん」
 B「どこにだよ?」
 A「家に帰ったらあるもん」
 B「じゃいまからおまえんちいくか?」
・・・

 旅はまだ続く。




20020717

 さらにへとへとQ。

 スケジュール帳を付けるのはとても苦手なのだが、付けなければさまざまなことを忘れすぎる。今日も学生の相談を受けるのを忘れていた。

 忘れまいとすると疲れる。しかし、スケジュール帳はどうも信用ならない。スケジュール帳は見ろ見ろと言わないからだ。スケジュール帳を見ることを忘れまいとすると疲れる。このようにして、ぼくとスケジュール帳はいつも不仲で不幸な関係にある。

 いつまでも不仲ではしょうがないので、とりあえず、パソコンのスタートアップにスケジュール帳を仕込む。さらにファンクションキーに割り当てる。これでかなり自己主張の強いスケジュール帳になった。しかし、自己主張の強いスケジュール帳は仕事をおしつけてくるようで嫌いである。




20020716

 朝から民博へ。「ソウル・スタイル 2002 李さん一家の素顔のくらし」展が最終日なのに昨日気がついた。
 展示は噂にたがわずすばらしく、引き出し、扉をあちこち開けさせていただいた。とにかく、集められた品物の量と、その再配置の徹底ぶりに圧倒される。しかもほとんどの品物に購入場所と値段がついている。

 台所には流しの横に洗濯機があって、水回り関係で統一されている。隅に見慣れないコーヒーメーカーに似た器具が置いてあったのでボランティアの人にたずねてみると、煮沸式の洗濯機だそうだ。レースものや破れやすいものをこれで洗うらしい。洗い物関係が台所に充実しているというのは、トイレとバスが同じ部屋であるのと同じ違和感を感じる。

 窓際の棚を何気なく見たら、取っ手付きの大きな四角い調味料入れに砂糖、塩ときて横にとうがらしがどっさり入っているのに驚いた。そうか、もはや瓶とかじゃないんだな。

 押入れの中身もいちいち気になったが、色鮮やかなホットカーラーが入っているのがすごいと思った。なんとなくハルモニに比べてオモニは地味なスタイルだったので。それともあのカーラーはハルモニのものなのかしらん。

 この徹底した生活財の収集ぶりはすごい。よほど優れたスタッフの人たちなのだろう。資料撮影にはデジタルカメラが使われたとか。デジタルカメラってこういう使い方するとすごい機器だな。

 そして、すべての生活財を提供する方もすごい。
 どうしてこんなに徹底したコレクションが可能になったのかとても不思議だったが、家族アルバムの多さや家族新聞の数々、入念な買い物の記録、そしてそれらの多くがオモニの発案であると知り、なんだかわかってきたような気がした。家族愛をカタログ化するすさまじい情熱。この家のオモニはすごいわ。

 アボジはぼくと同い年で、なんだか妙な感じがする。朴大統領暗殺は確かぼくの大学一年生のときでそのあとが全斗喚だった。同じ頃やはり大学に入ったアボジは、徴兵制で3年間兵役についている。昨日のTVで見た四方田犬彦の徴兵制の話を思い出す。

 インタヴューや家族の生活はパソコンに収められているのだが、こうしたデジタルデータのプレゼンテーションも実にスマートで、モニタの前でもずいぶんと時間を過ごした。一日のスケジュール表をクリックするとどこからでもムービーが再生できて、それぞれの家族の一日をザッピングするように見ることができる。食事後の団らんがまさしく、家族の時系列の合流地点であるとわかる。

 満喫して帰る。午後の万博公園を横切るとアスファルトはもうええっちゅうくらい熱気をはらんでいる。

 彦根へ。
 夜、卒業生の高橋さんと竹田くんとゆうこさんとで飯。竹田くんは久しぶりの彦根ということもあって、ベルロード界隈の変わりぶりに驚いていた。ただの変化ではない。ロッテリアがマクドナルドに、SPAがファミリーマートに、回転寿司が生き生き寿司になっている。間違い探しの街。





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