とみが急に亡くなったあと、自宅の窓から連絡船を見る周吉もまた、ゆっくりと団扇をあおいでいます。このとき、どうしたわけか周吉は、団扇をなんの気なしに、ぱん、ぱん、とはたきます。そこでは音らしい音もしない。この不思議な動き、まるで、用事もないのに何かを試すような団扇の動きに、なぜか見るものは魅入られてしまいます。
この、あおぐ動作の奇妙な中断は、見るたびにさまざまな感情をひきおこします。そこまで行なわれてきた、あらゆる団扇の動きがそこではたかれているようにも見えます。そこまで映画の動きを支えてきたなにものかがこのささやかな動きで、はたと止められているようにも見えます。
ここで、この謎めいた団扇の動きがもたらすできごとのひとつとして、とみの団扇の不在を挙げておこうと思います。
あおがれていた団扇が、ぱたぱたと体をはたくとき、その動きからは団扇をはたく者の違和感がもれている。こうした動作には、わたしたちがことばにできない何かがもらされている。それはふつうなら、ことばになることもなく、どこへ宛てられることもなく、過ぎていく動作です。
しかし、かたわらに誰かがいて、そのもれた動きに合わせるように体を動かすと、ことはまったくちがってきます。その違和感は、おそらく二人が動作のタイミングを合わせることができるほどに、二人の体に同時にふりかかっている。そのように同時にふりかかっていることは、そんなにたくさんはない。二人の動作が合うことによって、動作のあて先はしぼりこまれ、違和感は前よりもはっきりした形を取り始める。
こうしてわたしたちは、違和感をもたらす考え、ことばにならない考えに、ことばなしにたどりつく。
ことばで言い当てられないできごとにたどりつくには、一人ではうまくいかない。二つの目が一つ目ではわからない奥行きをあらわにするように、二つの動きがあってはじめて、一人ではわからない、できごとの奥行きが表われ、動きのあて先を明らかにする。
熱海でのとみの団扇の動きはそのようにして、周吉の動かす団扇のあて先を、凝らせていったのでした。
おそらくとみがいてもいなくても、長年のならいにしたがって、周吉の体は無意識に動いてしまう。自分の違和感をふと、もらしてしまう。しかし、とみのいないその動作は、あて先を失ったまま、ただよっている。
そのように、周吉の団扇の動きは、とみの団扇の動きを失っている。