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 周吉はとみがかたわらにいることで、ようやく自分の「忘れ」に気づくことができるのですが、彼はまるで自分の忘れをあらわにするのを避けるように、ことあるごとにとみに「忘れ」をあずけていきます。
 
 しかし、映画の後半、とみが亡くなると、そのようなやりとりは失われ、周吉が「忘れていた」ことは思わぬ形であらわになります。
 清めの席で、周吉はふと、とみが熱海でふらふらっとしたことを口にするのですが、その思い出しに対して長女の志げが鋭く聞きとがめます。

 周吉:ただのう、こんなことがあったんじゃよ。こないだ東京へ行ったとき、熱海でお母さん、ちょっとふらふらっとしてのう
 謙一:はあ
 周吉:いやあ。たいしたこたなかったんじゃが
 志げ:そう・・・じゃあなぜお父さんそれおっしゃらなかったの? 兄さんにだけでもおっしゃっとけばよかったのに。
 周吉:そうじゃったなあ・・・
 謙一:しかし、それが原因じゃないよ。おかあさん太ってもおられたし、やっぱり急にきたんだよ。

 これまで、周吉ととみとのやりとりでは、周吉の「忘れ」があらわになるようなことはけしてありませんでした。それは周吉がとみに「忘れ」をあずけ、とみも周吉の「忘れ」を指摘したりはしなかったからです。
 ところが、長女の志げは、周吉がなんの気なしに無防備に言ったことばに、周吉の「忘れ」を見出し、とみの死がまるで周吉の「忘れ」によるかのように責めている。周吉はこれまで映画の中で、そんな風に自分の忘れをあばかれたことはありませんでした。
 長男の謙一がとりなすものの、それはあくまで母とみの「ふらふらっとしたこと」と亡くなったこととの関係を否定しただけのこと、周吉がそれを報告するのを「忘れた」ことは、あらわになったままです。話好きの長女志げは、次から次へと話題を変えてゆき、周吉の「忘れ」に頓着していません。しかし、そのことで、かえって周吉に「忘れ」を解消する機会を与えず、ただ置き去りにしていくようです。
 このシーンがことさらに周吉に酷に見えるのは、これまでの「忘れ」のシーンの小ささとは対照的に、人物のアップが多用されているからかもしれません。杉村春子演じる志げは観客に向けて、するどく周吉の「忘れ」を言い当て、周吉がその「忘れ」を認める姿もまた観客に向けて大きくうつしだされます。
 つまり、周吉には「忘れ」を転換する相手がいないこと、とみのいないことが、画面いっぱいに現われてしまっているのです。これは、それまでの「忘れ」が、ごく小さく現われていたことと対照的です。

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