再び防波堤でかわされる不思議なことばの反復にも、じつは同じ構造を聞き取ることができます。
とみ「京子あどうしとるでしょうなあ」
周吉「ウーム・・・そろそろ帰ろうか」
とみ「お父さん、もう帰りたいんじゃないんですか?」
周吉「いやァ、お前じゃよ。お前が帰りたいんじゃろ・・・東京も見たし、熱海も見たし、もう帰るか」
とみ「そうですなあ。帰りますか。」
周吉「うむ」
尾道にいる京子のことを先に思い出したのはとみですが、尾道に「帰る」ということばを先に口に出したのは周吉です。ふつうなら、「帰る」ことを思いついたは周吉だと考えるのが道理で、とみの問いかけはごく自然です。ところがどういうわけか、周吉は「お前が帰りたいんじゃろ」と奇妙な反論をします。
ここでも、周吉は単に「帰りたいのは誰か」を言い当てているだけではない。とみが「帰りたい」と自分で感じていながらそれに気づいていないこと、つまり自分で自分の状態を「忘れている」ことを、言い当てようとしている。じつは周吉自身こそ「帰りたい」と心の底で思っていながらそれを「忘れている」のかもしれないのですが、周吉はそういう可能性について「いやあ」と否定して、とみの側に「忘れている」役を振り当てようとする。
そしてとみも、自分が忘れている側に回ったことについてはふれずに、「そうですなあ。帰りますけい。」と応じます。
「寝る」「帰る」ということばは、単に無意味に反復されているのではない。「寝られない」というできごとが誰に属しているのか、「帰りたい」という気持ちが誰に属しているのかが、ここではやりとりされている。だからこそ、空気枕の所在をめぐって「空気枕」という名詞がくりかえされるように、「寝る」「帰る」という動詞がくりかえされ、そして空気枕のありかを示す「そっち」「こっち」ということばのかわりに、気持ちのありかを示す「お前」「わたし」「お父さん」といったことばがくりかえされるのです。
ことばだけでなく映像も、まるで「寝る」「帰る」という動詞のありかを機敏に裏返すかのように、周吉ととみの姿を切り替えします。防波堤でのやりとりのカットはちょうど、これらの動詞が現われるセリフの部分に対応しています。