小津安二郎の映画に、ある種の遅さが感じられます。単にゆったりと落ち着いた遅さというのではない。むしろ何かひりつくような、刺をさすような感触の遅さ。単にあるひとつの時間の流れによって生じる遅さではない。何かが何かに間に合わないこと、何かに気づかないままに事が進んでいること、つまりは、時間が時間に間に合わない、意識が意識に間に合わないという遅さ。
「東京物語」は、そういう遅さがかなり意図的に描かれている映画だと思います。「晩春」とも「麦秋」とも異なる、のどにひっかかるような違和感は、どうもこの遅さに鍵があるのではないか。そこで、この意識の遅れという遅さの問題、すなわち「忘れ」という問題について考えてみようと思います。
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「東京物語」の老夫婦は、冒頭で、ある印象的なやりとりをします。旅の準備をしているときにおこるさりげない会話で、いっけん微笑ましい夫婦の会話なのですが、この映画全体にかかわる問題が含まれているように思われますので、ちょっと引用してみます。とみは東山千栄子、周吉は笠智衆の役です。
とみ:空気枕はそっちに入りやあしたか。
周吉:空気枕はおまえに頼んだじゃないか。
とみ:ありゃあせんよ、こっちにゃあ。
周吉:そっちよお。渡したじゃないか。
とみ:そうですか。
(しばし、隣の細君との会話)
とみ:空気枕ありゃあせんよ、こっちにゃ。
周吉:ないことないが。ようさがしてみい・・・
おお、あったあった。
とみ:ありゃあしたか。
周吉:うん、あった。
周吉は最初、マクラがないことをとみのせいにしています。しかし、「ようさがしてみい」といったあとで、周吉の前にマクラが現われます。「うん、あった」と周吉が言った後、画面はすぐに切り替わらずに、だまって作業を続ける夫婦を映し続けます。洒落たことばがあるわけでもおおげさな身振りがあるわけでもない。けれども、この無言の間(ま)には、あるべきものが欠けているような、それゆえに人を笑わせるような長さがあります。じっさい、はじめて映画館でこのシーンを見たとき、あちこちから笑いが起こったのをわたしは覚えています。
このやりとりは、わたしたちの日常によくあるおかしさを言い当てています。わたしたちは、自分が忘れていることを棚に上げて、相手のせいにすることがある。しかしいったん、忘れていたのは自分のほうだとわかると、そこにある種の気まずさが生じる。おそらく、館内のあちこちから起こった笑いは、こうした気まずさに感応したものだったのでしょう。