「東京物語」でもっともよく知られているのは、熱海の防波堤の場面でしょう。この場面での周吉ととみのかわされることばのスピードはあまりにもゆったりとしていて、しかも同じ動詞がいくども波が打ち寄せるごとくくりかえされるので、これを無意味でごく儀式的なやりとりとしてとらえることは、いかにもたやすく思われます。周吉が自らの肩をとんとんをたたくことで始まり、再びとんとんと肩をたたくことで終わることで、この場面はいっそう儀式めいたものになっています。
しかし、本当に会話の内容は、「無意味で儀式的な」ものに過ぎないのでしょうか。
いや、それどころか、むしろ不可解な謎をはらんでいるとさえ言えます。
周吉(とんとんと右肩をたたく)
とみ「どうかしなさった?」
周吉「ウーム」
とみ「ゆうべよう寝られなんだけえでしょう」
周吉「ウム・・・お前はよう寝とったよ」
とみ「嘘いいなしゃ。わたしも寝られんで・・・」
周吉「嘘をいえ。いびきィかいとったよ」
とみ「そうですか」
周吉「いやあ、こんなところは若いもんの来るところじゃ」
とみ「そうですなあ」
周吉(とんとんと右肩をたたく)
どこが不可解なのか。じつはこれに先立つ夜の場面で、周吉はとみが「寝られなかった」ことを目撃しているのです。周吉は寝られずに起き上がって団扇で体をあおいでおり、それに遅れて、となりのとみもまた起き上がるところが映されています。しかも、このとき、周吉ととみは顔を見合わせています。つまり周吉は明らかに、とみがよく眠れなかったことを見ている。
にもかかわらず、周吉は、とみのことを「よう寝とったよ」と言う。そればかりか、とみ本人が「寝られんで」といっているのに、それにさえも「嘘をいえ」と否定する。
ここで周吉は、単にとみが寝ていたことを指摘しているのではない。とみがとみ自身を意識できていないことを言い当てようとしている。とみはよく寝ていたにもかかわらず自分ではそのことを「忘れている」、つまり、寝ていたという感覚が不在であることを指摘しようとしている。その証拠として「いびき」をきいたことを挙げている。
もしかしたら周吉の方こそ、とみが寝られなかったことを見ていながら「忘れている」のかもしれないのですが、その可能性にはふれようとしない。
そして、とみも、その可能性を言い当てることはせずに、ただ「そうですか」と応じます。