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 ここまで、「東京物語」の、もっぱら会話の部分に注意しながら、この映画に現れている「忘れ」の問題について、あれこれ考えを進めてきました。ここで、とみのいる周吉、とみのいない周吉について考えるために、少し視点を変えて、この映画にあらわれる身体の動きに注目してみようと思います。
 
 この映画で印象的なしぐさのひとつに、団扇の使い方があります。話が夏の設定になっているせいか、作品のあちこちに団扇があらわれて、そのあおぎかたにも、無言のうちにさまざまな対比が表われます。たとえば、老夫婦をあおぐ紀子のゆったりした団扇の動きから、長男と長女がそれぞれ自分の体をあおぐ、そのふぞろいな動きへの切り替わりは、紀子と長男・長女との老夫婦への態度のちがいをあざやかに浮かび上がらせます。
 
 こうした団扇のあおぎかたの中に、気になる動きがあります。それは笠智衆演じる周吉の団扇のあおぎかたです。
 
 熱海の旅館での寝苦しい夜、周吉は思わずあおいでいた団扇で体をぱんぱんと音をさせてはたくと、蒲団から起き上がってしまいます。これに気づいたとみも、やはり蒲団から起き上がってしまう。
 ここでおもしろいのは、起き上がっている周吉が、あおいでいた団扇をふたたびぱんぱんとはたくのにあわせて、それまでとまどうように団扇を持っていたとみも体をあおぎはじめるところです。
 ただ団扇をあおげばよいものを、体をはたいて音をさせてしまう。そのことで、ただ団扇をあおいでいるだけではすまない、違和感がもれてしまう。本人にその気はなくとも、その音は自分にも隣にいる者の耳にも、いやでも入ってしまう。とみが団扇をあおぎはじめるのは、まさにこのような違和感のあらわれに合わせられている。
 
 ここで、二人は、ことばを交わしていません。周吉の団扇の動きが、まず周吉の違和感を表わし、さらにとみの団扇の動きが、周吉の違和感に和するとみの違和感を表わし、二人の違和感のあて先が同じであることが示される。見る側は、その、ことばにならない二人の違和感の凝っていく先に気配を感じる。
 あるいはその気配は、長男長女がせっかく用意してくれた旅館に対する違和感、とでも呼べるものかもしれません。
 けれど、違和感のあて先が意味になるより早く、二つの団扇はこちらを吸い込むように動きを合わせてしまう。団扇がはたかれ、はたかれる団扇に和してもうひとつの団扇が動きだし、二つの違和感のあて先がみるみる一つに凝っていく、意味はその後からやってくる。

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