忘れる、とはどういうことか。簡単にいえば、それは、あるべきものごとがない、たとえば、空気枕がない、ということと関わっています。「忘れた」あるいは「忘れていた」と人がいうとき、その人は、何か必要なものごとが欠けている感じを伝えようとしている。
では、何かが「ない」というだけで、欠けている感じ、すなわち不在感は起こるのでしょうか。たとえば、「空気枕がない」というだけなら、いまこれを書いているわたしの部屋にも空気枕はありません。だからといって、わたしにはとりたてて空気枕がない、という感覚はおこらない。
けれども別の部屋に行って、そこに布団が敷いてあって、敷き布団のシーツがしらじらとしているのを見ると、「枕がない」という感じがするかもしれません。つまり、「欠けている感じ」には、空間の配置がかかわっている。
空間だけでなく、時間も、「欠けている感じ」にかかわります。たとえば、時計の秒針が1秒ごとにチッチッと音を立てているとします。それに聞き耳を立てているとき、ある1秒だけ音が鳴らなかったとしたら、わたしたちはどうしたのかとさらに耳をすませます。それまで1秒ごとにチッチッと鳴っていた音のリズム、いいかえれば時間配置が、わたしたちに「欠けている感じ」を起こさせるのです。
ほかに例をあげることができますが、ここではひとまず、「欠けている感じ」というのを、「時空間の配置がもたらす、あるべきものごとの不在感」という風に言い直しておきます。
では、「忘れる」ということと不在感は同じことでしょうか。
「東京物語」の冒頭の会話を手がかりに考えてみましょう。
まず、周吉は、あるはずの空気枕がないこと、つまり、あるべきものごとの不在には気づいています。しかし、彼はその原因を「自分が忘れているせいだ」とは考えていません。空気枕がないのは、とみが忘れているせいだと思っているのです。ですから、ハタから見た場合はともかく、周吉自身にとっては「忘れている」というできごとは発生していない。それどころか、「ないことないが。ようさがしてみい」と、とみを叱るように言います。そして、小さなかたまりを自分の側に見つけたとき、はじめて、自分が自分でそこに置いたであろうことを「忘れていた」ことに気づくのです。
「忘れる」ということが不在とかかわることがあるのは確かです。たとえば目の前に傘が不在であるとき、わたしたちは「あ、忘れた」「あ、忘れていた」といいます。しかしいっぽうで周吉のように、目の前に空気枕が存在するにもかかわらずそれを「忘れている」場合もあります。「忘れている」とは、単なる目の前の不在が問題なのではなく、それに「気づかない」こと、つまり、感覚が不在であることが必要なのです。