周吉ととみの「忘れ」をめぐるやりとりは、これで終わったわけではない。
上野の寛永寺の前で、二人が立ち上がって行こうとするとき、周吉はふとうしろを見とがめて「おい」と手を伸ばして傘の方角をさします。とみがあわてて傘を取りに行きます。
これまで見てきたように、周吉は自分の「忘れていた」ということを態度にして認めませんが、それに対してとみは、自分が「忘れていた」ことをすぐに認めて傘を取りにいく。
この、とみの忘れの場面は、熱海でのとみのめまいとともに、ロングショットの中で小さくなったとみの姿に、なんともいえぬ予兆が感じられるところです。ところで、気になるのは、ここで、周吉がダメを押すように次のセリフを言うことです。
周吉「ソレ見い、すぐそれじゃ」
とみが周吉に対して、周吉の物忘れをとがめだてしないのに対して、周吉は「すぐそれじゃ」と、まるで鬼の首をとったかのように指摘する。
なるほどその指摘はまちがっているわけではない。この翌朝、とみが紀子の部屋を出るときも、とみは歯ブラシと歯磨きを忘れ、さらには傘を忘れます。ですから、周吉の指摘は、いいがかりというわけではない。じっさい、とみは、紀子の部屋で傘を忘れたとき、「よう忘れるんよ、このごろぁ」と、自分が「忘れる人」であることをあっさりと認めます。
しかし、すでに検討したように、この映画を通してみると、とみだけでなく、周吉もじつはよく忘れているのです。ただ、周吉は自分が忘れているときにそれをとみの忘れへと変換してしまう。周吉はあたかも、冒頭の「空気枕」での借りを返済しようとしているかのようにくりかえし、とみの側に忘れを見ようとする。
ですから、「東京物語」では、周吉の「忘れ」は冒頭や防波堤の場面のような間の悪さによってしかあらわれず、それに対してとみ「忘れ」は「忘れ」としてあらわれます。