ゲイブラー『創造の狂気』補完計画:ディズニー・スタジオの1920-30年代

細馬宏通

はじめに:Gabler "Walt Disney: The triumph of American Imagination" と
邦訳版『創造の狂気』について

 Niel Gabler『Walt Disney: The triumph of American Imagination』(2006)は数あるディズニー評伝の中でも、現在のところ決定版と言ってよいだろう。ディズニー家に保管されている手紙類をはじめとする数々の資料にアクセスし、しかもディズニー社の検閲なしに書かれた大著だ。文献資料のみならず、ひとつひとつのアニメーション作品に対しても適切な分析がなされ、一作ごとに進化していくディズニー・スタジオの歩みがつぶさに伝わってくる。1950年代に入ってからのTV番組製作やディズニーランドに関する記述も詳細にわたっている。
 何より、ウォルト・ディズニーを描くにあたって、単に彼の心のうちを推測するのではなく、周囲の人々との具体的な関係、行動を分厚く記述することによって、ウォルトのパーソナリティをおのずからあぶりだすことに成功している。ウォルトは、キャラクタの動きからそのパーソナリティを描き出すことを「パーソナリティ・アニメーション」と呼んだが、この評伝はいわば「パーソナリティ・バイオグラフィ」の秀作と言えるかもしれない。長大な内容であるにもかかわらず、発売当初から「ゴシック!」「巻おくあたわざる」などと評され、2006年の優れた伝記作品として数々の賞を受けている。

 さて、ゲイブラーによる評伝は、日本語では『創造の狂気』(中谷和男訳/ダイヤモンド社)というタイトルで邦訳されているのだが、手元の原著と比較してみると、残念ながらかなりの部分が要約、もしくはカットされている。大量の改変があるにもかかわらず、あとがきにも解説にもそのことは明記されていない。全編にわたって単語、フレーズ、文、パラグラフとさまざまな単位によるカット(→例)や訳者独自の解釈(→例)がほどこされているため、その分量を正確に指摘するのは容易ではない。わたしが集中的にチェックしたのは、ミッキーマウスの誕生の経緯が綴られた第四章、その成功以降を記した第五章、『白雪姫』のプロダクションについて記された第六章だが、ざっと原著の半分から2/3ほどのヴォリュームになっている。また、要約に伴うケアレス・ミスや(誤訳というよりは)原文にない記述もあちこちに見られる。
 さらに、邦訳では、本文中のあちこちに注番号が付いているにもかかわらず、肝心の注が全く見当たらない(途中でつけるのをあきらめたのだろうか)。もちろん原著には各発言やエピソードの出所を記した詳細なノートと注がほどこされている。

 原著は本文だけでもペーパーバックで600ページ以上の大著なので、完訳すれば上下巻くらいの分厚さになってしまうだろう。内容を縮約して、すらすら読める日本語にして、価格も安く抑えて一巻本にするというのは、一つの方法ではある。忙しい人には、そのほうが短時間で読めてありがたいかもしれない。

 しかしこの邦訳では、記述があちこちで簡略化され削ぎ落とされているため、ウォルトやロイの手紙や資料に何千時間も没頭するという気が遠くなるような作業を行い、一人一人の証言を丹念に拾いあげながらディズニー・スタジオの歴史を構築していくという、原著のゴシック建築のごとき迫力は、残念ながらずたずたにされ、失われている。しかも、カットされた部分や訳しにくいところに訳者独自の解釈(もしくは誤解)を加えて読みやすくしているため、通常の誤訳よりも間違いが気づかれにくく、かえって罪深い。

 とりわけ、カタカナで文面が煩雑になるのを避けたのであろうか、アニメーターをはじめとする、ディズニーに関わった人々の名前やエピソードが各所で省略されているのが気になる(詳しくは1930年代の補完計画(2)を参照)。原著がウォルト・ディズニーのみならず、彼に関わった人々を詳細に描き分けた『白雪姫と七人のこびと』の物語であるとするならば、邦訳版は、こびとの描き分けを欠いた『白雪姫とこびとたち』といった感がある。

 私はアニメーション制作のあり方に興味を持っていることもあって、気がつくと、大きなお世話と知りながら、web日記で気になる箇所を訳し直しはじめていた。訳してしまった以上は、読みやすい形にしておいた方がよかろうと思うので、以下のページにまとめておく。

(1)1920年代の補完計画
(2)1930年代の補完計画(ミッキーマウス以後, 2020.2改訂)
(3)1930年代の補完計画(『白雪姫』製作の頃)
(4)『ファンタジア』の頃(2015.1追加)
(5)『ファンタジア』の頃(2)(2015.1追加)
(6)メリー・ポピンズの頃(2014.3追加, 2020.2改訂)
(7)ディズニー伝のおわりに(2020.2追加)

 訳出にはペーパーバック版のGabler "Walt Disney: The triumph of American Imagination", Vintage Books Edition とKindle版とを用いた。各訳の末尾にあるページ数はペーパーバック版のもの。
 原作は、ディズニーの歩みを時間に沿って書いているので、ここでもそれに倣って、時間順に、いくつかのファイルに分けて訳出部分を挙げた。ディズニー・ファンや、『創造の狂気』を読んでディズニー・スタジオに興味を持った人、あるいは多人数で何かを創る仕事をしている人にとって、何か参考になることがあればと思う。
 基本的には、邦訳で大幅にカットされている部分、邦訳はされているものの、要約によって原著の意味が変わっていると思われる部分をいくつか取り出し、細馬の興味のおもむくままに訳した。カット部分を網羅しているわけではないことをお断りしておく。もちろん、翻訳の常として、わたしの訳にも誤訳や思い違いがあるかもしれない。気がつかれた方はご指摘いただければ幸いです。(Oct. 10, 2010)

 関連文書として、S. カルヘイン Shumus Culhane の “animation” より、彼が「パーソナル・アニメーション」に目覚めた頃の件を訳出した。http://12kai.com/culhane_flow.html
(Oct. 24, 2010)

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