この部分では、『魔法使いの弟子』の録音過程と、それが長編へと変更されるくだりが記されている。邦訳では省略されているが、ストコフスキーが6トラックの録音を主張したことや、彼のレパートリーを携えてさらなる交渉を行ったことは重要だ。また、ミッキーを使うことに関して、邦訳では、ストコフスキーとウォルトの意見の食い違っていたことがぼかされている。
ミッキーのデザインはよくなったが、それだけでは問題は解決しないとウォルトは考えていた。後年、彼はミッキーの終焉を口にして、「わたしたちはくたびれた、新しいキャラクターと付き合う必要がある」とまで言ったのだから、この時点でミッキーが生き延びるにはさらに何かが必要だった。何かよい媒介が。
ベン・シャープスティーンによれば、ウォルトが『魔法使いの弟子』を作ろうとした目的はミッキーのリハビリだったというのは間違いで、彼が最初に思いついたのは(白雪姫に登場する)おとぼけドーピーだったと言う。しかし、ストーリーマンのチェスター・S・コブはごく初期の段階で映画のさまざまな可能性について考えた上でこう結論づけている。「おもしろい『弟子』を発明するのは難しいだろう。ただの子どもでは役不足だ。ミッキーかグーフィーでイメージを膨らませて雰囲気を作れば、いわゆるシンフォニー・タイプのキャラクターを発明するよりも、ずっと観客受けするのではないか」。
ストコフスキーは首を縦に振らなかった。「ミッキーじゃなくて全く違うパーソナリティを作ってはどうだい?」と1937年11月に彼は書き送っている。「君とわたしとを象徴するような一人のパーソナリティ、言い換えれば、映画を観ている人たちみんなが心の中に持っている自身のパーソナリティを表すような誰かを描くといい。それなら、観る人は、ドラマのすべて、そこで起こってる感情表現にぐっと引き込まれていくはずだ」。しかし、これに類するストコフスキーの提案をウォルトは繰り返し退けた。ウォルトにとっては、ミッキー・マウスこそ「君とぼく」だった。最後の手段として、彼は『魔法使いの弟子』を自身のオルター・エゴにしようと決めたのである。
『魔法使いの弟子』の何がウォルトの心を捉えたのであれ、彼はいつもの慎重さに似合わず急いでいた。おそらくは前に進むべききっかけを欲していたのだろう。1937年7月には音楽の著作権を取得し、8月遅くにはストーリーマンのオットー・イングランダーがアウトラインを提出した。その内容は「音楽の持っているアイディアにできる限り沿うこと、不必要な変更は行わないこと」というウォルトの主張に沿ったものだった。
ストコフスキーの協力を得ることができるとなると、ウォルトは俄然張り切った。ストコフスキーとたまたま列車で会ってこの計画について話したRKOの広報部長グレゴリー・ディクソンは、ウォルトからこんな手紙を受け取った。「準備は万端。この機会に彼とこの映画の仕事をぜひやりたいと考えています。できればすぐに取りかかりたい」。ウォルトはさらにこう続けている。「カラー・マンからアニメーターにいたるまですべての係について、とびきり優れたスタッフをそろえましょう」。そしてこう締めくくっている。「このアイディアにとても興奮しています。ストコフスキーと彼の音楽、そしてわたしたちのメディアのベストが結合することで、すばらしい成功をおさめることができ、映画表現の新しいスタイルが生まれることになるでしょう」。
彼はディクソンに再び、ストコフスキーにできるだけ早く取りかかれないか説得するよう言った。次の週、ストコフスキーは同じくらい興奮気味にウォルトにこう書いている。「私以上に君のことを崇拝している者はこの世にいないでしょう」。そして、数日内にリハーサル・レコーディングを行うと書き添えている。
ストコフスキーがフィラデルフィアで、彼の率いるフィラデルフィア交響楽団と録音をしていた頃、ウォルトはストーリー係たちを急かしてスタッフからアイディアをつのっていたが、彼らに「ドタバタギャグは避けること」と釘をさしていた。「わたしはこれまでこれほど熱狂したことは人生でありません」とウォルトは11月半ば、ストコフスキーに書き送っている。「あなたを待ち焦がれる一方で、制作に活を入れてご到着までにストーリーを間に合わせる所存です」。
ストコフスキーは1938年1月2日ストーリーの受諾と最終的なスコアの録音をすべく、ロサンジェルスに華々しく到着した ーーウォルトならディクソンに、ストコフスキーの最近の離婚とグレタ・ガルボとのロマンスを利用せよと言いかねなかっただろうーー。ハイペリオンの録音用舞台は、ストコフスキーの選んだ85人の演奏家を乗せるには狭すぎたので、ウォルトはセルズニックのスタジオを借り、1月9日、日曜の真夜中にストコフスキー指揮によるデュカス作曲の演奏が行われた(夜中を選んだのは、演奏家が目を覚ますべく珈琲を飲まねばならず、そのことでより活発にさせることができる気がしたからだという)。ストコフスキーの意見により録音は6つのトラックを使って行われたが、指揮者は大熱演したため、すべてのセッションは全部でたった三時間で終わってしまった。居合わせた人によれば、指揮台から降りてきたストコフスキーは汗でびしょ濡れで、拭き取るのにバスタオルが二枚必要だった。
しかし、これはコラボレーションのほんの始まりに過ぎなかった。ストコフスキーは、のちに関係者が語ったところの「彼のレパートリーをごっそり」抱えてロサンジェルスにやってきた。明らかにウォルトに、『魔法使いの弟子』のさらに先について交渉するためだった。何週にもわたる録音セッションの間、ウォルトとストコフスキーが1月末まで交わした議論において次の結論が下されたのは間違いないだろう。すなわち、『魔法使いの弟子』は、もはやさらに長いクラシック音楽アニメーションの一つに過ぎない(これはストコフスキーがウォルトに、チェイスン・レストランで語ったといわれる夢とまさしく同じである)。ウォルトは、おそらくはストコフスキーの熱が冷めるのを怖れて、またしてもすばやく手を打った。二月にはスタジオはストコフスキーの『弟子』に関する契約(収入の10%)をキャンセルし、『コンサート物語』の指揮料と出演料として新たに12万5千ドルの契約を結んだ。
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