ゲイブラー『創造の狂気』補完計画(2):ディズニー・スタジオの1930年代(1)

細馬宏通

ディズニー・スタジオのペンシル・テストがもたらした悲喜劇

 1930年代のディズニーのスタジオでは、「ペンシル・テスト」と呼ばれる試みが行われていた。第五章で、この「ペンシル・テスト」について書かれた箇所を、原文にそって試訳してみよう。この頃から始まったウォルトの「分析につぐ再分析」という性癖がどのような形であらわれたかがよくわかる箇所である。

 ディズニースタジオのアニメーターたちは早い段階から「ペンシル・テスト」と内輪で呼ばれていた新たな方法を採っていた。これはまだラフ段階の絵を安いネガフィルムに焼いて、アニメーションが完成する前に見るというものであった。トム・パーマーは、おそらくは1931年の早い時期にペンシル・テストを試していた。彼はそれをムヴィオラという、短い場面を見るための小さなスクリーン付き装置にかけていたのだが、そこにたまたまウォルトが通りかかって何をしているのかたずねた。テストを見たウォルトはラフをプレヴューすることの重要さを思い知り、これをスタジオで慣例化することにした。

 ウォルトはさっそくムヴィオラを、窮屈で息苦しい窓なしのクローゼットに据えた。のちにこの場所は「取調室」と呼ばれるようになった。背中を丸めてのぞき込むムヴィオラの画面はわずか4インチ四方、ウォルトとそこに呼ばれた場面担当のアニメーターとは、この「取調室」で問題のアクションを何度も何度も繰り返し見て分析し、どうすればうまく、よりおもしろくできるかを見極める。「考えてみると驚きだが、自分の作業を研究して、スクリーンにかかる前に間違いを直していくなんてことををしたのは、私の知る限りわれわれが最初だった」と、ウォルトは数年後に振り返っている。「ハイペリオン通りにあるわれわれの小さなスタジオで、すべての場面のラフが分析のために映し出され、すべての場面が「これがわれわれにできるベストだ」と言えるまで描き直された。」

 ついにはウィルフレッド・ジャクソンが、ペンシル・テスト化された場面とまだ動画化されていない場面のスチル画とをつなぎあわせて、「ライカ・リールズ」と呼ばれる長いシークエンスに仕立て上げた(これらのリールを撮影するのにライカを使ったのにちなんでいる)。これでアニメーターたちは、場面どうしの関係を見ることができるようになった。ウォルトはさらに音も加えてみようと言った。その結果、ウォルトと4,5人のアニメーターたちが「取調室」で押し合いへし合いしながら、まだドローイングもインク入れもセルのベタ塗りもされていない段階で、カートゥーンの一部始終をプレヴューすることができるようになったのである。自分の権限が増したおかげでウォルトのやる気は倍増した。彼はライカ・リールズに熱中したが、製作過程はかえって簡単にはいかなくなった。カートゥーンが完成してプレヴューまでできたあとになっても、なおもウォルトはスタッフを取調室に呼びつけて改善を命じたからである。

 ペンシル・テストとライカ・リールズの効果はディズニーアニメーションの質を向上させるにとどまらなかった。アニメーションの性質が変わってしまったのである。ペンシル・テストを使う以前は、アニメーターはきちんとしたドローイングとかっちりとした「中間絵 in-betweens」を目指し、できるだけやり直しをなくそうとした。しかしその結果、絵は融通の利かない、固いものになった。「かつてのアニメーションはポーズからポーズへと考えなしに描かれていました」とディック・ヒューマーは言う。「言うなれば平坦なデザインだったのです。そこには重さというものがなかった。」こうしたカートゥーンではキャラクタは「動きが完全に停止すると凍ったようになり、そこで改めてぱちぱちとまばたきしたり、髪が逆立ったりしたわけです。顔がくるっと動くのに、残りの体はそこに貼りついたままでした」。ウォルトはこうしたアニメーションのことを「君のキャラクタは魂が抜けてただのドローイングになったみたいだな」と言った。

 かつてスタジオではアブ・アイワークスがアニメーション技法に関しては基本的な指揮権を持っていた。彼はアクションを描くのがうまかったものの、キャラクタに動きの連続や淀みなさを与えることはできなかった。それでも、アイワークスはスタジオのお手本だったし、ウォルト自身もそれは認めざるを得なかった。「アニメーターの連中は馬鹿みたいにおのおの別々のドローイングに取っ組んでいた。それを止めさせて、グループで一つのアクションを描くことを考えさせたかったんだが、これがとんでもなく難問だった」。しかしアイワークスが抜けてペンシル・テストが導入されると、アニメーターたちはかつての考え方から解放され、実験にとりくんだ。ノーム・ファーガソンが海底のファンタジー( Frolicking Fish, 1930)を描いたとき、ウォルトは他のアニメーターたちにその動きを研究するように言った。というのもファーガソンはコンスタントな動きの流れのようなものをそこに作り出していたからだ。「すぐに誰もが、より緩やかに描くようになった」と他のアニメーターも回顧している。「動きに自由さが生まれだしたんだ」。1931年になると、ディズニーのキャラクタたちは、ポーズのたびに動きを止めることから脱していた。キャラクタはポーズにあたる部分をスムーズに動き、「オーバーラップ・アクション」と呼ばれる流れるようなアクションを産み出した。
(Gabler "Walt Disney: The triumph of American Imagination" Ch. 5,p168-170 )

 『創造の狂気』では、以下のように数行にまとめられている。

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 アニメの技法についても、ディズニーのスタジオは新しい方法を発案した。これまでのアニメ映画では、スクリーンに映し出すまでその動きが把握できなかったが、完成した絵をポジフィルムに焼き付けていき、開発されたばかりのムービオラという映写装置で縦横10センチの小さな画面に映すことで、大体の動きがつかめるようになった。これをアニメーター全員でチェックして分析し、キャラクターや背景ができるだけスムーズな動きを示すよう描きなおしていった。
 これは「ペンシルテスト」と呼ばれ、またこれを利用して映像をオーバーラップする技法も開発され、ほかのプロダクションの作品にはないスムーズな動きを演出することができた。
 (『創造と狂気』p186 太字は引用者による)
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 太線部分は間違いで、上の訳出にあるように

・ペンシル・テストは、「完成した絵をポジフィルムに焼き付けて」いくものではなく、ラフを安いネガに焼き付けて行うものであった。
・ムヴィオラは「開発されたばかり」とは書かれていない(実際それは1924年には発明されている:http://en.wikipedia.org/wiki/Moviola
・彼らはそれを「アニメーター全員でチェックして分析し」たわけではない。狭い「取調室」で、最初の頃は場面担当の一人のアニメーターが、ライカ・リールズができてからは数人のアニメーターがウォルトの厳しい目にさらされながらチェックをした。
・ペンシル・テストによってもたらされたオーバーラップ・アクションとは「映像をオーバーラップする技法」(それは「クロスディゾルヴ」である)ではなく、アクションどうしがいちいち立ち止まることなくオーバーラップするかのような、スムーズなアニメーションを指す。

パーソナリティ・アニメーション

 第五章には「パーソナリティ・アニメーション」という重要な概念が書かれている。ゲイブラーの原文は平明な英語で書かれており、要約せずとも読みにくくはない。以下、原文にそって訳しておこう。

 ウォルトはかつてフランク・トーマスにこんなことを語った。フェリックス・ザ・キャットのようなキャラクタは「あちこちにちょっとしたパーソナリティのようなものは感じられる」。ウォルト自身、オズワルド・ザ・ラビットやのちのミッキーマウスのパーソナリティを鍛え上げようとしたこともある。けれど、こういうほんのちょっとのパーソナリティでは足りない。ウォルトはいつもアニメーションをチャップリンやキートンのライブ・アクションにできるだけ近づけようとした。観客が求めているのは参入感 involvement だということを彼はわかっていた。観客はキャラクタのことを気にかけたいのであって、単に笑いたいだけではない。ウォルトはアニメーターたちに、観客からエモーショナルな反応を引き出すことのできるキャラクタ作りがいかに重要かを強調するようになった。「これは何よりも大事なことでした」とウィルフレッド・ジャクソンは当時を振り返る。「それもこれも、ウォルトはカートゥーンのキャラクタを観客に信じ込ませたいと願っていたからです。なにより彼は、キャラクタが単にスクリーン上を動き回っておもしろいことをするだけの存在となってしまうことを好みませんでした」。エリック・ラーソンも同意見だ。「キャラクタを作るときには、そのキャラクタは人々と関係を結べるようなものでなければならなかった」。ウォルト自身も後に彼の美学をこんな風に定式化している。「あらゆる芸術で最も重要な目標は、見る者から純粋なるエモーショナルな反応を引き出すことである」

 このような反応を引き出す唯一の方法は、「パーソナリティ」を用いることだとウォルトは信じていた。パーソナリティ、それはいくつもの性質の組み合わせであり、それぞれのキャラクタに独自のもので、キャラクタにぴったりとくっついて、キャラクタを決定するものである。スタジオにはディズニーからお布令が出た。曰く、アニメーション化されるキャラクタはもはやギャグを演じるための単純な役ではいけない。それは豊かな「フルボディ」でなければいけない。あるアニメーターのことばを借りるなら「その動き(モーション)とエモーションを信じることのできるような」ものでなければならない。
 ウォルト・ディズニーがアニメーションにもたらした数々の貢献や発明には、いつも優雅さへの渇望が感じられる。が、それはさておき、このパーソナリティこそは、最も重要な唯一の問題だったといえるだろう。なぜなら、肉体的な見かけでも物語の強さでもなく、観客との基本的関係こそが、アニメーションを革命的に変えたからであり、これこそが、ディズニーとライバル会社との最も重要な違いだったからである。すべてのキャラクタは単に動かされているものとしてではなく、生きているものとして扱われねばならない。このアプローチはやがて「パーソナリティ・アニメーション」と呼ばれるようになった。

 ウォルトにとって、パーソナリティは、ただの身体行動から生まれるものでもなければ、ひっぱたかれたときにキャラクタが起こすような感情的な反応ですらなかった。パーソナリティがドローイングから、あらかじめ埋め込まれていたかのように湧き出てくること (personality seemed to emerge from the drawings as if it had been internalized)、それがアニメーションの魔術、ディズニー・アニメーションの魔術だった 。「こいつが動いているということを描くだけじゃだめなんだ、ほんとうに生きて、考えているのだということを描かなくては」(You have to portray not only that this thing is moving, but it is actually alive and thinks.)とウォルトは言っている。考え感じるキャラクタ、心理の動きを持ち、感情の振れ幅を持つキャラクタ。それは当時のディズニースタジオにあってさえ革命的なことだった。ほんの数年前までは、ドローイングから声を出しても観客は受け入れてくれるだろうか*などと考えていたのだから(訳注:*ディズニー初のサウンド・アニメーション『蒸気船ウィリー』のこと)。

 『プルートの大暴れ Playful Pluto』(1934)では、ウェブ・スミスの担当するプルートと蠅取り紙との格闘場面に、ノーム・ファーガソンが動きをつけた。これにはスタジオの者たちが衝撃を受けた。「とんでもない大発明」とウィルフレッド・ジャクソンは呼んだ。「これはものすごいことだった。なにしろ、キャラクタが何を考えているかが、まるで目に見えるようにわかってしまったのだから」とウォード・キンボールも振り返っている。「われわれはそろそろ跳ね回ってダンスをするミュージカル時代のディズニー短編を抜け出しつつあった。キャラクタがみんな満面の笑みを浮かべて音楽に合わせたり楽器を鳴らすような世界からね。新たに考えられ始めたのは、その場の状況に必死で取り組み続ける、バスター・キートンやハロルド・ロイドや、チャップリンのようなキャラクタだった」。ファーガソンのアニメーションはすでにその流れるような動きによってウォルトの賞賛を勝ち得ていたが、いまやキャラクタの心理の深さにまで賞賛は及んだ。「ファギー、君は大した俳優だよ」ある日ウォルトはスタッフの前でこう告げた。ファーガソンが恥ずかしそうに笑って縮こまっているとウォルトはさらに続けた。「いや、ほんとうのことだ。君のアニメーションがなぜすごいかって、それは君が感じているからだよ。キャラクタの感じることを君が感じているからなんだ」。

(Ch. 5, p172-173)

 『創造の狂気』の該当部分は次の通り。文章が要約され、各人の発言内容が変更され入れ替わっている。

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 ウォルトはウサギのオズワルドやミッキーマウスに人間性を付与しようとしたが、それだけでは不十分と考えた。そして彼はアニメーションをチャップリンやキートンの実写映画にできるだけ近づけるためには、観客が共感を覚えることが重要と考えた。そして観客がスクリーン上のキャラクターに笑うのではなく、それに取り込まれていくことが必要と判断して、アニメーターに対しては、観客から共感を引き出せるようなキャラクターづくりの重要性を説いた。  「ウォルトにとってはそれが一番大切だった。漫画のキャラクターがスクリーンの上を跳びまわり、滑稽なことをしでかすのではなく、観る者がその存在を実感するようなキャラクターでなければならない」とウィルフレッド・ジャクソンは言い、またエリック・ラーソンは、「アートで最も重要なのは、観る者から純粋に感情的な反応を引き出すことである」とする。
 これに応える唯一の方法は個性だとウォルトは確信していた。キャラクターはもはやギャグのために機能するのではなく、「全人的」で、行動も感情も現実的でなければならない。ディズニーのアニメーションがほかと一番違う点は、単に「生きるように動く(アニメート)」のではなく、「実際に生きている」こと、「人格のアニメーション」であることである。
 ディズニー・アニメのマジックは、個性が内面化したように描かれることである。「ものが動くのではなく、生きて考えているように描かねばならない」とウォルトは言う。
(『創造の狂気』p187-p188)
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アニメーションの「重力」

 上の部分に続けて、ディズニーアニメーションの「重力」の問題が原作の第五章では綴られている。ここも翻訳ではまるまるカットされているが、非常におもしろい部分だと思うので、訳出しておこう。

 ウォルトはアニメーションのキャラクタがより真に迫って見えるような、迫真的な視覚世界を求め、そのことで観客とのエモーショナルな絆を築き上げようとした。これこそがアニメーション化された世界、ウォルト言うところの「不可能な本物らしさ plausible impossible」であり、それは犯すべからざる自然則として打ち出された。

 この新たなる自然則の出現とペンシル・テストによる場面分析によって、ディズニーのアニメーターたちは、それまで経験的に踏襲してきたアニメーションの流行スタイル、すなわち「ゴム管」と卑下されていたスタイルを止めるようになった。「ゴム管」アニメーションでは、リアリズムを実現する困難さを避けて、描きやすさが優先された。キャラクタやものの形が変わると、あたかもゴムでできているかのようにその容積も変化した。重力も重さも考慮されていなかった。ウォルトはこれに悩まされた。リアリズムの欠落は、キャラクタの心理の動きやエモーショナルなリアリティを損ない、観客とのエモーショナルな絆を断ち切ってしまう。ジャクソンによれば「ウォルトは自分のキャラクタを信じうるものにしたいと思い始めた。そのため、『ゴム管』にはおひきとりいただかねばならなかった」。いまやカートゥーンの世界に初めて「重力」が現れた。さらには、髪や服や木の葉などが重力に遅れて反応するときの「二次的動き」も問題になった。ディズニーに先だって、ディック・ヒューマーはこう回顧している。「服が体に従ったり、風にそよいだり、落ちるときには数コマの遅れを持たせる必要がある。これはごく自然な現象なのに、それまで誰も考えたことがなかった」。スタジオの誰もが、いまや重力に取り憑かれるようになった。アニメーターの壁にはさまざまな標語が張ってあったが、こんなものまで張り出されるようになった。「ドローイングには重さ、深さ、バランスがあるか?」

 しかし、アニメーターたちの能力自体にも問題があった。(重力表現によってもたらされた)リアリズムの新しい基準に見合うには自らのスキルを上げねばならない。そのことは、アニメーターたちも判っていた。「現実に基づいてすばらしいものを作るには、なにがなんでもまず、現実を知らねばならないね」とウォルトは提言した。トレーニングが必要だった。早くも1929年には、ウォルトはアニメーターたちをロサンジェルスのダウンタウンにあるシュイナード芸術研究所の金曜夜の授業に送り込み、自身はまたスタジオワークに戻り、あとでまた全員をピックアップしに行った。1931年にはシュイナードと契約して、十数人ものアーティストたちを週に一度トレーニングすべく送り込んだ。そのうちの一人、アート・バビットはアーティストどうしで集まるほうが効果的だと考えて、ハリウッド・ボウルのそばにある自分の家を開放し、モデルを呼んでインフォーマルなドローイングの集まりを開くことにした。1932年の夏遅く、もしくは秋の始まる頃、アートがホストとなっていよいよ集会が始まった。第一週に8人を呼ぶと14人が集まった。次の週に14人を呼ぶと22人が集まった。数週間後に、ウォルトはバビットをオフィスに呼んで「ディズニーのアーティストたちが誰かの家にぞろぞろ集まって裸の女を描いてるなんて話が新聞に載ってごらんよ」と言った。「社としてはまずいじゃないか」。ウォルトの出した代案は明らかに、スタッフの誰にとってもより魅力的なものだった。録音スタジオとそこにあるものをすべて解放するというのだ。この代案に乗じて、バビットの家に通っていた若きアニメーター、ハーディー・グラマツキーが、シュイナードの授業を担当していたドナルド・グラハムを講師として招いて、正式な授業を受けたいと申し出た。バビットはグラハムと契約し、11月15日、「グレイト・ディズニー・アート・スクール」(とグラハムは呼んだ)の最初の授業が行われた。

 最初、録音スタジオでの集まりは週に二夜、参加者は20-30人というところだった。ひと月も経たぬうちにその数は膨れあがり、グラハムはもう一人の講師、フィル・ダイクを呼んで、クラスを二つに分けた。その後の二年間で、各週の出席者平均は50人以上となり、グラハムは三人目の講師を用意せねばならぬこともあった。集まりは週に5夜となり、出席は義務ではなかったものの、バビットが言うようにそれは「行っておいたほうがいいよ!」だった。

 カナダ生まれでスタンフォードでエンジニアの勉強をし、シュイナードで美術に関わるようになったグラハムは、指導の当時まだ29際だった。ハンサムでがっしりして、ウェーブのかかった黒髪、四角い顎、黒い瞳、長い腕、そして芸術家らしい長い指。洞穴のような部屋の前に立って煙草に火を点けると、話しながら片手からもう片手へと煙草を移動させ、煙草の灰が指の近くに来るまで授業に集中し続けた。彼に与えられた課題は、一人の生徒のことばを借りるなら「まったく不可能なこと」だった。グラハム自身はアニメーションの訓練を受けたことがまったくなかったが、ウォルトが彼に期待していたのはアニメーションの講義ではなかった。ニューヨークあがりのぞんざいなアニメーターや、元新聞カートゥニストや、芸術系の学生バイトや、才能ある道楽者たちに彼が教えたのは、(あるアニメーターのことばを借りるなら)「一つのスタイルにとらわれずに」事物をドローイングする技法だった。グラハムは基礎をたたき込み、どう描くかを教えた。それは本物のドローイングだった。あるアニメーターはその意味に次第に気づき出した。「コミック・ストリップを動かすという旧来のアニメーションの考え方を、彼は片手でもって攻撃して」、リアリズムという新たな考え方に置き換えようとしていた。グラハムこそはアニメーターたちに、ものの塊に重力がもたらす効果を教え、肉体や筋肉がどのように動くか、「二次的効果」がどのように生まれるかを教えた。アート・バビットによれば、グラハムこそが彼に「分析すること」そして「ほんのちょっとした調子外れの要素を動きに加えるだけで、まったく異なるキャラクタに仕立て上げることができる」ことを教えてくれた。もう一人のアニメーター、シェイマス・カルヘインは、ウォルト・ディズニーを除けばドン・グラハムこそが「映像メディアの哲学に大きなインパクトを与え、偉大なる先人たちの理論と、モダン・アートと、そして動きの科学原理とを教育することによって、洗練された映像作家集団を育て上げた」とまで言っている。
(中略)
 他のスタジオのアニメーターたちもまた、ディズニーのアニメーターのような時間が持てれば、同じようによい仕事ができるのにとうらやんだことだろうが、問題は時間というよりも、メンタリティの方だった。ウィリアム・タイトラはディズニー社に来る前はニューヨークのポール・テリーのところで働いていたが、彼によれば、テリーにモデルをやとって作画の技術を向上させてはどうかと提案したところ、自分で雇うよう言われ、グラハムのような講師を雇うアイディアは却下されてしまったため、結局タイトラは諦めてしまった。「アートスクールに行くようなやつは『ホモ・ボルシェヴィキ』だって言われましたね」。シェイマス・カルヘインもフライシャー・スタジオで似た経験をした。「時間ではなく、教育の問題なんだってことを彼らはどうしても受け入れなかった」と彼は書いている。「フライシャーの連中は直感的にやっていて、描き方とかアニメーションに原理なるものがあるというアイディア自体、まるで相手にしていなかった」。

(Ch. 5, p173-176)

パーソナリティを決めるのは外見ではなく動きである

 上記のようなスタッフによる研究の結果、1932年、シリー・シンフォーニー『三匹の子ぶた』が発表される。パーソナリティ・アニメーションにとっていかに革新的だったかをチャック・ジョーンズは以下のように語っている。簡潔な表現で的を得ていると思うので、訳出しておく。

「それまでにはなかったことが起こっていると実感しました」とアニメーターのチャック・ジョーンズは『三匹の子ぶた』のもたらした影響を語っている。「この作品によって、パーソナリティを決めるのはキャラクタの外見ではなくその動きであることが示されました。三匹の子ぶたたちが演じて以後、わたしたちアニメーターは皆、この問題に取り組むことになったのです」。ジョーンズはパーソナリティ・アニメーションは『三匹の子ぶた』に始まる、とさえ信じている。

(Ch. 5, 184)

 三匹の子ぶたのそれぞれの外見は、ほとんど変わらない。それでいてパーソナリティの違いが顕れている。そこにチャック・ジョーンズはショックを受けたのだった。

 『創造の狂気』では次のように訳されている。
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 アニメーターのチャック・ジョーンズは、「これまでにないことが起きている。キャラクターがどのように見えるかではなく、その動きによって、どのように人格が決定されるかである。人格のアニメーションが誕生した」と子ブタ効果を絶賛した。(『創造の狂気』p195)
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