Gabler『Walt Disney』の原作にはたくさんの固有名詞が登場する。中でもアニメーターたちに関する記述は、従来の評伝になく詳しい。邦訳『創造の狂気』では、原作に含まれている固有名詞にまつわる文章が、各所で大胆に省略されている。
たとえば、第六章で、邦訳『創造の狂気』には以下のような短い記述がある。
彼は常に人材を求め、ディック・ヒューマーやグリム・ナットウィック、ウォード・キンボールなど、ディズニーの下で働くことを希望するベテランを引き抜くだけでなく、有能な新人の発掘にも力を注いだ。(p231)
一方、原作の該当部分には、それぞれの人物に関する詳しい説明がある。それも三人どころではない。『白雪姫』に関わることになる幾多のアニメーターたちが、一人一人エピソードを交えながら、ページを費やして紹介されるのである。そこには、1930年代アメリカにおけるさまざまな人生もほの見える。ゲイブラーがアニメーターたちの描写に力を入れていることは、原著に幾多のアニメーターの写真が挿入されていることからも伺える。以下、訳しておこう。
ウォルトは才能ある者をいつも探しており、作品の出来に貢献してくれそうなアニメーターを雇うことを常に考えていた。
新たに加入したヴェテランの中には優れたアニメーション・スタジオで働きたいという希望を持っていた者もいた。カーメン・マックスウェルはカンサス時代からのウォルトの旧友で、ハーマン-アイジングの元で働いていたが、「もうここでは満足できません。彼らにはアイディアを育てて本物の第一級の映画を作ろうという基本的な欲求が欠けているのです」とウォルトに書き送ってきた。さらに手紙にはこうあった。「驚かれるかもしれませんが、もし綿密な計画でしっかりと作られた映画のために仕事ができるのなら、いまより安い給料でもっと働きたいと思います」。
同じような気持ちをもつアニメーターたちが1932から34年にかけてディズニー・スタジオに流れ着いた。そしてウォルトは彼らを快く迎えた。明らかに『白雪姫』を念頭においてのことだろう。八人兄弟の一人として貧しい父親のもとでネブラスカ、アイオワ州に育ったアート・バビットは、十代のとき、精神分析医になるつもりでコロンビア大学を目指してニューヨークに渡ったものの、実際には六週間ものあいだ教会の階段の吹き抜きで眠り、ゴミ箱から食べ残しを漁る生活を続けることになった。ようやく広告代理店の仕事を見つけ、フリーランスのアーティストとしてポール・テリーのアニメーション・スタジオで働いていたとき、ディズニーの『骸骨の踊り』を観て彼は衝撃を受けた。「これこそわたしの求める職場だ」。彼はテリーのスタジオを止め、カリフォルニアへと旅立ち、その足でまっすぐディズニー・スタジオに向かった。ウォルトとの面会がかなわないと知ると、20×24フィートのとんでもなく巨大な手紙を描いて、インタヴューの申し入れを書き込み、特別便で送りつけた。ウォルトは降参して、正式に面会し、数日後、彼を雇い入れた。
この種の「ディズニー・スタジオへの道」物語は、恵まれないアニメーターたちの間でおなじみとなり、ハイペリオンへの「ヘジュラ」を促したことだろう。ディック・ヒューマーは、高校を退学したのち、アート・ステューデント・リーグに行き、さらにそこを止めてアニメーション創成期のラウール・バレのスタジオに加わった。チャーリー・ミンツのところで働いているときに、給料のカットが申し渡されると、ヒューマーはすぐさまカリフォルニアに向かい、1933年にディズニー社に参加した。けれど、その契約の給料はミンツからもらった額の半分だった。
グリム・ナトウイックはロイとウォルトによって見出された。二人はフライシャーのベティ・ブープが走る列車に飛び乗るシーンを見て、これを描いたナトウィックをスカウトしたのだった。しかし、ナトウィックは誘いを断り、いったんはアブ・アイワークスの新しいスタジオに1931年に加わった。「東海岸ではディズニースタジオの天才はアイワークスだという評判だったからです(ナトウィック)」。しかし3年後、彼もご多分にもれず、ディズニーに改めて申し入れをした。当時ウォルトは一度自分を拒絶したものを雇わないという評判だったが、ナットウィックは友人のテッド・シアーズの口利きで、ウォルト自身に二時間ものあいだスタジオを案内してもらい、快く契約された。
加わったベテランの中でもおそらくいちばんの重要人物がいる。ニューヨーク州はヨンカーズ生まれ、ウクライナ人の父親とポーランド人の母親との間に生まれた、熊のような大男。ぼうぼう髭に濃い眉毛、ぼさぼさ髪という風体の彼こそ、ウラジミール・「ビル」・タイトラである。風体はあたかもスターリン、パーティーともなれば片手で胸をどしどし叩きながら、もう片方の手にウォッカを掲げて「おれはコサックだ!」と叫び出す。仕事に対しても、彼の態度は変わらなかった。ナットウィックによれば「ドローイングに覆い被さるその姿は、金の卵でいっぱいの巣を守るコンドルといった風だった。情熱的で、神経質で、入れ込みやすく、感情の起伏の激しい仕事人だった。」あまりにも根を詰め精神込めて描くので鉛筆で紙に穴を開けてしまうことさえあった。タイトラが特別なのは、自身の狂暴さをスクリーンに込められることだった。ポール・テリー・スタジオでのタイトラのドローイングはあまりに他のものと違ったので、ウォルトにはどれが彼の絵かすぐに見分けがついた。ロイは1933年5月にニューヨークに着いたとき、彼はタイトラを西海岸にスカウトしようとディナーに誘った。ウォルトへの手紙にロイはこう書いている。「彼はよりよい仕事をする機会に恵まれたいことを全身で表している」。ただしテリーのもとを去るにあたって、彼はあくまで「儲かる待遇」を要求した。
タイトラが自身を高く売りこむ一方で、ディズニー社の側も強く出ていた。就職・訓練担当のベン・シャープスティーンは、12月にタイトラに宛てた手紙で、こう書いている。スタジオはこれまでよそから来たアニメーターにディズニー流のスタイルを教え込むのに難儀してきたので、「能力を評定させてもらわないことには、よそから来た人を入れるわけにはいきません。それではわれわれアニメータースタッフのメンバーに不公平ですから」。シャープスティーンが提示したのは週100ドル、これはタイトラのような地位のアニメーターにはとても受け入れられない数字であった。それでも、『白雪姫』をわずかでも実現に近づけるために、ロイは翌年になってもタイトラをくどき続け、ニューヨークを訪れるたびにタイトラをディナーに誘った。「くっついたり離れたりのロマンス」(タイトラ)が続いた結果、ついに彼はウォルトとロイの招きに従って、カリフォルニアに飛んできて、スタジオ見学をした。1934年11月、その8時間のフライトとスタジオツアーのあと、とうとう彼はディズニーの猛攻の前に屈した。彼の参入によって、スタジオ付きの芸術講師ドン・グラハム言うところのアニメーションのニュー・スクール、すなわち「力と形派 Forces and Forms」が生まれた。これはタイトラがアニメーションの猛烈な動きを描くときに発揮する力にちなんだネーミングだ。彼はスタジオで熱狂的な崇拝を受けた。スタジオを去る日には若いアニメーターたちがタイトラのオフィスに急ぎ、くずかごから没原稿を拾うほどだった。……
(Ch. 6, p225-226)
このような記述を経たあとに、たとえば「こびとのグランピーをタイトラが描く」話を読むと、わたしたちは、スターリンのような風体の大男がデスクにかじりついて、女嫌いで気むずかし屋のちっちゃなグランピーを描いているところを想像することができるわけである。
いったん原作の流れに乗ってしまえば、固有名詞による記述は、むしろ楽しみとなる。アニメーターの一人一人に名前があることや、その一癖も二癖もある性格が表現されることを疎ましく思うファンがいるだろうか。『白雪姫』が好きな人なら、読み進めるうちに、それぞれのアニメーターは、あたかも七人のこびとのように親しみを持って感じられ出すだろう。
ゲイブラーはおそらく、ディズニーの言う『パーソナリティ・アニメーション』の手法を、自身のドキュメンタリに応用している。こびとたちの白雪姫に示す行動によってそれぞれのパーソナリティが明らかになるように、それぞれのアニメーターがウォルトやロイにどのように振る舞うかを綴ることによって、彼らのパーソナリティを明らかにする。アニメーターの動き(モーション)とエモーションは、読者にとって信じるに足るものになり、アニメーターに対して読者の感情が動くようになる。
七人のこびとを描き分けるようにドキュメンタリを書くこと。ゲイブラーが目指しているのは、おそらくそういうことだろう。
アニメーター列伝はまだまだ続く。ここまではベテラン勢で、ここからあとには、当時の新人だったウォルフガング・リーザーマン、エリック・ラーソン、ウォード・キンボール、ミル・カール、フランク・トーマス、ジョン・ラウンズベリーが登場する。その各人について、ゲイブラーは上記と同様の分量で丁寧に性格分けをしていく。
ヴェテラン勢と契約するだけでなかった。人材をすぐにでも必要としていたため、ウォルトは推薦を受けた若手や、我慢しきれずくたびれ果てた若手を育て上げるべく集め始めた。彼らはやがてディズニースタイルの主要なメンバーとなるだけでなく、スタジオを支えることになった。ハム・ラスケが言うように、ウォルトがニューヨークからこうしたアニメーターたちを加入させると、「その現象は幸福の手紙のように広がって、それぞれのアニメーターが10人のアシスタントと何ダースもの(中割り担当の)動画画家を引っ張ってきたのです」。
こんな風にやってきた一人が、ドイツ生まれのウォルフガング・リーザーマン、通称「ウーリー」である。彼は瓶詰め水の工場を経営する家に七人兄弟の末っ子として生まれた。父親は「政情不安」ゆえにカンザス・シティに逃れてきたが、娘が結核にかかると、気候のいいカリフォルニアはシエラ・マドレへと移住した。短期大学で美術を少し勉強してから、リーザーマンはダグラス航空会社で働くようになった。背が高く、大柄でハンサムなリンドバーグを夢見て飛行家になろうとしたが、その夢をあきらめて突如シュイナードの美術学校に通うようになった。そこでの指導員の一人がフィル・ダイクで、ドン・グラハムを手伝っているところだった。ダイクは当時24歳だったリーザーマンに、ディズニーで働いてみないかと持ちかけた。1933年6月にディズニー社に入ると彼の働きぶりは評判になった。ウォルトの言によれば「辛い仕事にも微笑んでいる…彼は時間のかかることもやり遂げる力がある」。
エリック・ラーソンはユタ州生まれで親はデンマーク移民だった。ラーソンはユタ大学でジャーナリズムを勉強していたが、仲間の学生といたずらのつもりでカレッジ・ユーモア・マガジンに忍び込んでいるときに、一人が天窓から落ちて死んでしまった。それをきっかけに、ロサンジェルスに職を求めて、イヤーブックをデザインする会社に入り、6年後にはアートディレクタになっていた。1933年に結婚し、収入を増やす必要がでてきたので、KHJラジオステーションのために脚本を書いていたが、どうすればもっとうまく書けるか相談すべく、元経営者のディック・クリードンに会いに行った。クリードンはすでにディズニーで働いていたが、ラーソンにディズニーで働いてみるよう薦めてみた。ちょうどウォルトが『白雪姫』のためにスタッフを増員している時期だった。ラーソンは当時28歳だったが、しぶしぶアニメーターをやってみて、二日後にはアシスタントとして起用された。
ウォード・キンボールもリクルート組の一人で、1934年四月にディズニー・スタジオに来たときはまだ20歳だった。リーザーマンやラーソンはのんきで人に合わせるタイプの人物だったが、キンボールは気の短い因習破壊者で、実際、丸くて馬鹿に明るくよく変化する顔、突き出た前頭、ふくらんだほっぺた、にやりと笑う大口(訳注:彼はのちに『不思議な国のアリス』のチェシャ猫を描くことになる)は、まさに彼の性格を表していた。キンボールの父親は巡回セールスマンで、家族は街から街へと旅をした。キンボールによれば行った学校は22にのぼり、十代のときにカリフォルニアに落ち着いた。子供時代には未亡人となった祖母のいるミネアポリスにやられたが、そこで絵を描くことを覚え、家族が西側に移ると、通信教育で美術を勉強し、やがてサンタ・バーバラの美術学校に通うようになった。このときに彼の将来の道が開けた。地元の劇場で、ミッキーマウス・クラブ・バンドが来たとき、彼は『三匹の子ぶた』を観た。「完全にノックアウトされた!」。先生は彼にスタジオで働くよう勧め、面接のために母親に来るまで送ってもらった。彼は自分の作画集を持っていったのだが、そんなものを持って来た者はいままでいなかった。もう行っていいよと言われたときには、正直に、帰りの車の金がないんですと答えた。受付嬢がそれをウォルトにもらして、キンボールは翌週から働くことになった。
アシスタントからアニメーターへと昇格する頃には、キンボールは掟破りの男として有名になっていた。「けして予想通りには動かなかった」と同僚のフランク・トーマスとオリー・ジョンストンは書いている。シャープスティーンによれば、それが理由で「個人プレーで誰とも協調する必要がない場所があるとウォルトはキンボールを使った」。
キンボールが働き始めた翌月、ミルト・カールがやって来た。当時、彼は25際で北カリフォルニアに済んでいたが、旧友のハム・ラスケの薦めに従ってスタジオにやってきたのだった。カールは辛い子供時代を送った人だった。ドイツ移民の父親は家族を捨て、母親は再婚したものの、カールは義父との折り合いが悪く金を稼ぐために学校を辞めた。ウォルト同様、彼もまた美術に救いを求めたのだった。16歳のとき、サンフランシスコのベイエリアにある新聞社の美術部門に入り、以後あちこちの新聞社を転々としたが、そのひとつでラスケとあい、その後、ウェスト・コースト劇場チェーンの広告を描き、フリーになったところに、ラスケの薦めがあり、雇われたのだった。
フランク・トーマスは子供時代に絵を描くことに取り憑かれたが、それは孤独で友だちがいなかったからで、その後、カリフォルニアのフレスノにある高校でも、そして大学でも絵のことを追求し続けた。彼の父親はフレスノの州立カレッジで学長をしていたので、最初はそこに入学し、のちにはスタンフォードに進んだ。学校を卒業すると、眼鏡をかけて教授然とした風貌のトーマスは、ロサンジェルスに行き、シュイナードの学生となった。スタンフォード時代の友人でアーティストのジム・アルガーという男もまた、先にロサンジェスルに来ていたが、彼が先にディズニーの注意を引き、このジムがトーマスを雇うよう推薦したのだった。1週間の仮採用期間を経て、トーマスは1934年9月に正式に雇われた。その頃、トーマスのもう一人の友人、オリー・ジョンストンは、スタンフォードのフットボール・チームでマネージャーをやっていたが、ローズ・ボールのためにロサンジェルスを訪れたときに自分もシュイナードに入ろうと決意した。彼はトーマスと同じ部屋で暮らしていたが、ドナルド・グラハムの誘いで、スタジオで仮採用された。三週間ののちに彼もまた正式採用された。一年もたたないうちに彼はトーマスに代わってフレッド・ムーアのアシスタントとなった。
もう一人のリクルート組はジョン・ラウンズベリである。彼は13歳で父親を亡くしてから絵を描くことに目覚め、鉄道会社で短い間務めたあと、デンバーの美術学校に入った。さらにロサンジェルスのアートセンターで勉強を続け、そこでとある教員が彼をディズニー・スタジオに推薦した。1935年夏のことである。彼が加わったのは、後に名人アニメーター集団の最後の一人となる男、マーク・デイヴィスのおかげだった。
デイヴィスの親はロシア系ユダヤ移民の第一世代で、読心術の興行で方々を回ってオレゴン州のクラマス・フォールズに落ち着いた。ウォード・キンボールと同じく、デイヴィスもまた2ダースほどの学校に通い、そのためある種孤独な、あちこち旅をする子供時代をすごしたが、どうやらこうした幼少時代は、自身で絵を描くことを楽しむアニメーターという職業には必須のものらしい。北カリフォルニアに映ってからは、デイヴィスは劇場ポスターや新聞広告を描いていた。ユバ・シティの劇場オーナーが、彼にディズニーで働くよう勧めてくれたこともあって、父親が死んでからは、母親とロサンジェルスに移り、ディズニー・スタジオを訪れ、12月にはアシスタントとして雇われた。そこで体験したディズニーメソッドの洗礼について彼はこう書いている。「昼も夜もクラスに出席して、何時間も仕事をして、食事のチケットをもらう、それだけでそこにいることは喜びだった。」
(Ch. 6, p.227-229)
以下は、第六章、アニメーター列伝に続く記述で、ディズニー社内の教育内容が判っておもしろい。これまた邦訳ではカットされている。
ずいぶん強引なやり方だったが、当時ウォルトは『白雪姫』を完全なものにしたかった。訓練生たちは午前中、そして昼食をはさんで午後一杯ずっと、一日八時間、ドン・グラハムの実物写生クラスを受けた。数週間後に彼らは中間作家のアニメーターとして週18ドルの報酬を受けるようになる。だがその段階になってもなお、一日の1/3もしくは半分は授業に出なければならなかった。そして1935年の2月始めには、水曜の夜間クラスに毎週出席することが義務づけられた。グラハムは自身のコースのことを、キャラクタの構築、アニメーション、レイアウト、背景、メカニック、ディレクション、果てはスタジオの知識まで若き初心者たちに教えるというスパルタ教育だった、と述べている。
しかし、いまや出席者は訓練生だけではなかった。秋には『白雪姫』の脚本は精密に練り上げられ、映画はいよいよアニメーションの段階に入ったため、ウォルトは通常のクラスを編成し直して、スタジオのアートスタッフのすべてを重労働に疲れた火曜の夜に出席させることにした。授業は行動分析から最近の実写映画の鑑賞に至るまでで、これらを「われわれが取り組んでいるものと結びつけ、明日(つまり『白雪姫』)に備えることを主眼とした」(ウォルト)ものだった。さらに、フランク・トーマスとオリー・ジョンソンによれば、アニメーターは週に二、三度、グラハムの講義を受けていた。それは、フィルムの短い断片を前に後ろに何度も映写し分析するというものだった。グラハムの授業は録音され、書き起こされ、謄写版で刷られて、スタジオ全体に配布された。実物のアクション分析以外に、グラハムはミッキーマウスやドナルドダックの動きを分析し、これらキャラクタのアニメーションを向上させるだけでなく、『白雪姫』を描くためのスキルを研ぎ澄まさせた。グラハムはこんな言葉を残している。「簡単に言えば、描画の原理はどこまでも描画の原理ということです。ルーベンスに使えるものならドナルド・ダックにも使えるし、ドナルド・ダックに使えるなら『白雪姫』にも使えるはずです。」
いよいよ『白雪姫』のアニメーション段階への秒読みとなった。が、ウォルトが十分な準備なしには始めたくないがゆえに、歩みはじりじりとしか進まなかった。彼はさらに訓練を強化したのである。夜のクラス、鑑賞のクラス、そしてグラハムとフィル・ダイクによる行動分析のクラスに加えて、ウォルトはベテランのアニメーターをリストアップし、若手を指導させた。「タイミングの問題や特定の効果をつけることの意味を議論する…この方法でグループの連中の情熱をかきたて、向上につながる結果をすばやく得るための知識を刺激しようと思った」。(ウォルトは後年グラハムに「授業のあと即座にアニメーションが大きく変化するのに気づきました」と書き送っている)。ウォルトはカリカチュアの若き専門家ジョー・グラントに、カリカチュア・クラスを担当してもらい、そこでアニメーターが授業を受けるだけでなくお互いのアイディアを共有できるようにした。他にもさまざまなアーティストを巻き込むべくコースを拡大した。ジーン・シャルロットにはコンポジション、リコ・ルブランは動物ドローイング、フェイバー・ビレンには色の理論。さらに、彼は外部からも、フランク・ロイド・ライトのような有名人を含む講師を招いた。視覚教材を増やし、アニメーターたちがさまざまな動物や事物の動きを「取調室」で見ることができるようにした。さらにはグラハムの引率でアニメーターたちは月一回の動物園への遠足を行った。「この仕事には科学的アプローチが必要なのです」とウォルトは12月、グラハムに長いメモを書いている。「そして、若い人にこの仕事をどう教えたらいいかを完全に見つけ出すまでは、諦めるべきではないと思います」。(中略)
ウォルトにならって、グラハムもまた「キャラクタの動きを考えることがパーソナリティを作る」と言った。ウォード・キンボールとラリー・クレモンスは暑い夏の金曜、オーシャン・パークに行き、クラッカージャックを頬張り、通行人のことを考えながら「彼らはなぜちょっと動きをするのかを分析して、その人の心理に分け入っていった」。キンボールとクレモンスの才能はこうして磨かれていったのだった。フランク・トーマスは卓越したピアニストでもあったが、彼は自分の演奏を聴く聴衆を研究していた。「彼らを見ると絵に使うキャラクタのアイディアが浮かぶんだ」。
人物ばかりでなく無生物も研究の対象になった。「しまいにはレンガを窓ガラスに投げようというところまでいった」とエリック・ラーソンは振り返る。「どんな動きになるか見たくてね。で、それをスローモーションで撮ったりするんだ」。さざ波を研究するために、アニメーターたちは岩を水の中に落とすこともあった。ジョー・メドーはそれでも満足せずさまざまな大きさの岩を異なるタイプの液体に落として、密度がどのように影響するかを観察した。あえて木の扉を勢いよく閉めて、柱枠にあたるときにどうなるかを観察することもあった。ハム・ラスケはカタリーナ諸島へ船で行ったときに自分のネクタイをはずしてそれがどう風になびくかを見たり、ゴルフのパートナーのパットを真似て「予測」という心理状態を表現したりした。「ハムはいつでもアニメーションを研究してました」とエリック・ラーソンは言う。「彼の生活そのものでした」。実のところディズニー社にいるものは誰もがアニメーションをよくするために生活を捧げていた。「どんなバレエでもどんな映画でも見ました」とマーク・デイヴィスは言う。「できのいい映画なら五回は見ました。映画をよくすることならなんでも刺激になりました。場面のカットや演出、場面どうしの結びつけ方。みんな常に研究してました」。
それはあたかも「みんなが完全に一つの軌道に乗った状態」だったと言う。「ウォルトは磁石でした」。
(Ch. 6, p230-233)
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