彦根から「はるか」が出るようになってから、あの京都のやたら歩く乗り換えがなくなって便利になった。もっと増発してほしいものだ。朝いちの直通で関空へ。
機内で「モダンタイムズ」。ああ涙ちょちょぎれるわ。「めぐりあう時間たち (The Hours)」。ヴァージニア・ウルフの時代と、彼女の書く登場人物の1950年代、2000年代の人生を描くという、とってもややこしい構造の話。
飛行機の窓に氷の結晶。
機内の読書の友は、Edelman & Tononi "A Universe of Consciousness"。神経ダーウィニズムを中心にすえたエーデルマン節なのだが、論の立て方がすっきりしていて読みやすい。
意識もまたselectionの産物である、確信とはreduction of uncerternityである、selection は logicに先行するのであって逆ではないというのが論の骨子。それはそれで魅力的な考えだ。
ただ、こちらとしてはむしろ選ばれなかったもののありようが気になる。あるできごとが選ばれ、意識化される。その過程でじつは、いくつかの選択肢が選び損なわれている。が、それはまったく淘汰されてしまうのではなく、「選び損なった」という記憶として残るのではないだろうか。
選んだ意識が唯一の可能な未来ではない。わたしたちはいくつかの未来からひとつを選択し、別の未来可能性を捨てる。わたしたちが、ある種の「予感」を感じるのは、おそらく単なる予感ではなく、「いま何かを選び損なった」という記憶なのではないか。忘却とは、単に忘れることではなく、いま何かを忘れたという記憶であり、弱い「喉まででかかっている」Tip of the Tongue (TOT)現象である。
マイクロスリップをこうした選択の現場として考えることができるだろう。マイクロスリップとは、二つのpossibilityがselectionにかけられる現場である。
「選ばれなかったもの」に対する扱いには、ある種の文化差があるのかもしれない。ここで柳田国男の以下のことばを思い出すこと
万人の滔々(とうとう)として赴(おもむ)く所、
何物も遮(さえぎ)り得ぬような力強い流行でも、
木が成長し水が流れて下るように、
すらすらと現われた国の変化でも、
静かに考えてみると損もあり得もある。
その損を気づかぬ故に後悔せず、
悔いても詮(せん)がないからそっとしておくと、
その糸筋(いとすじ)の長い端(はし)は、
すなわち目前の現実であって、
やっぱり我々の身に纏(まつ)わって来る。
柳田国男の「木綿以前の事」(岩波文庫)
マルセイユに着いたのは夜の9時過ぎ。宿はEstrangin Prefecture の近く、ダブルで59ユーロ。
雲速く 火星は近しマルセイユ。
Viu Portから湾に沿って散歩。