衆議院オリンピック東京大会準備促進特別委員会のこと

 連載にも記したように「衆議院オリンピック東京大会準備促進特別委員会」はオンラインに記録が残っている。 議事録は、田畑や川島の口調をよく伝えているほか、津島委員による先のジャカルタ大会の詳細な報告もあり、ドラマの裏舞台を知るにはうってつけの内容だ。以下のページの詳細検索で、会議名を「オリンピック」で検索すると9/12分がヒットするので興味のある方は一読されるとよい。

http://kokkai.ndl.go.jp/

 せっかくだから、実際の議事録に載っている田畑政治の発言の一部を抜き出してみよう。

 「それではあそこにどういう競技会があったかというと、これは法律的に言いますと、アジア競技会以外の競技会はないわけです。国際陸上競技大会というものは正式になりたっていないわけです。従って、何をしたかというと、あるものはやはり第四回アジア大会ということでございますから、それに立った前半の話をしたので、あとのことについてのあれがなかったので非常に混乱して、相済まぬと思っておりますが、あの点については…」

 速記録ということもあるが、笑ってしまうほどコソアドが多い。思わず阿部サダヲの口調で読んでしまいそうだ。

 ところで、実はこの「衆議院オリンピック東京大会準備促進特別委員会」…ええい、面倒なので以下「オ特委」と呼ぶが、このオ特委は、何も田畑をつるし上げるために始まったわけではない。オ特委は、1961年9月30日、国会議員と参考人で構成される、まさに「準備促進」のための委員会として発足した。そして田畑政治や松沢一鶴は毎回のように参考人として出席し、予算増額の必要性を盛んに訴えている。スポーツと政治は別物。とはいえ、田畑自身もまた幾度も政治家と渡り合い、さまざまな手管でオリンピック予算の獲得に動いていた。その委員会が、1962年9月12日、急に津島と田畑の責任を問う内容へと豹変したのだった。

 それにしても、研究者でさえときに精読が苦痛になるようなこんなくだくだしい会議録をおもしろく読めてしまうとは、わたしたちは「いだてん」を通して相当な「オリンピック・バカ」になってしまったのに違いない。

吹浦忠正さんと森西栄一さんのこと(吹浦さんのブログから)

1964年東京オリンピックの際、式典課の国旗担当として活躍され、現在も国旗のスペシャリストで大河ドラマ「いだてん」の国旗考証をしておられる吹浦忠正さんのブログ。読みどころがいくつもあるが、その中から、聖火リレーコース探査隊として活躍し、組織委員会の職員でもあった森西栄一さんに関する記事へのリンクを集めた。

森西栄一・私が尊敬する人
森西栄一という人(2)
森西栄一という人(3)
森西栄一という人(4)
森西栄一という人(5)
森西栄一という人(6)
聖火リレー秘話
名は「サファリ」(1)
名は「サファリ」(2)
東京オリンピックの年に

聖火リレーコースの可能性を探る(「東京オリンピック」8号より

以下は、東京オリンピック組織委員会発行の「東京オリンピック」8号の記事「聖火リレーコースの可能性を探る」からの引用である。内容は1962年2月に行われた聖火リレーコース探査隊の報告会の記録で、各隊員が次の表題の文章を寄せている。ここには車両整備を担当した安達教三と車両運転を担当した森西栄一の文章を転載する。

安全正確に 麻生武治(隊長)
不順な気候 土屋雅春(医師)
沿道の熱意 矢田喜美雄(朝日新聞社員)
熱風の苦難 小林一郎(朝日放送)
砂漠と悪路 安達教三(車両整備)
歓待と拍手 森西栄一(車両運転)

砂漠と悪路 安達教三

 道路と自動車は切っても切れない関係にある。道路はというと、これは気候あるいは天災地変によって簡単に変り得る。従って車両と道路と気候の3つは不可分の関係にある。
 ギリシアからシンガポールまで182日間を費し、6月23日から12月21日までの長期間を踏査したが、車で走った日数は夜間走行6日間を含め僅か51日間。その走行キロ数は18870余で、これは実走行キロである。1日一番多く走った日は1072キロ、一番少なかった日は、ガンジス河を小舟で渡った日で、31キロ、1日平均の走行キロは、これらを全部含めて370キロ。その間行く手には、常に試練が待ち構え、この試練こそ、この上もない良き教訓を与えてくれた。
 第1に、ギリシアとトルコ、さらにイランの砂漠の中に、りっぱな舗装道路があった。最高速度150キロぐらい出る車でなければ物足りないと痛感した。
 第2に、シリア砂漠の横断である。シリアのダマスカスからイラクのルトバまで。ジョルダンを通れば砂漠の中にりっぱな道路があるが、ジョルダンがオリンピックに加盟していないので立寄らず、あえてシリアの砂漠を横断した。案内人を雇ったおかげで無事に砂漠を横断することができた。われわれが見ると砂漠には道がないようだが、案内人によれば、道はちゃんとあるという。
 第3に、中近東諸国、特にイラク、イラン地区の真夏の気温である。7月の半ばであったが、気温は車内で摂氏60度。もっともこの暑さはこの地方でも17年振りの猛暑の由であったが、こういう猛暑の時期があることを忘れてはならない。
 第4に、砂漠でのパンクである。われわれの2台は8回もパンクした。砂漠でパンクの取替え、取外し、取付けには全く閉口した。
 第5に、アフガニスタンでスレーマン山脈の4千メートルの峠を越したが、これは富士山の3776メートルよりも高いのだ。
 第6に、雨期におけるパキスタン、インド、ネパール地区の通過である。この地方も80年振りの豪雨でガンジス河は氾濫し、長さが東京・大阪間ぐらい、幅が関東平野ぐらいに拡がっていた。そこを深さ1メートル前後の水の中を走行した。さらにネパールからインドに入る時には、氾濫しているガンジス河を小舟に車をのせ渡らなければならなかった。
 第7に、タイ緬国境を半月がかりで通ったが、昨今では印緬国境、タイ緬国境は、治安上の問題で通過することが出来ないというのが常識になっている。なおタイ緬国境の道路は、おそらく雨期には通行は不可能と思え、ここ2,3年でこの悪路が急によくなるとは絶対に考えられない。
 以上はほんの僅かな例にすぎないが、今回の体験を十分に生かして、最悪の事態を常に予想し、対策が立てられなければならないと思う。(日産自動車)

歓待と拍手(森西栄一)

五輪の旗と吹き流しの鯉のぼりをもち、歓待と拍手に迎えられ、オリンピアからシンガポールまで踏破することが出来た。あるところでは軍楽隊の演奏に、あるところでは敬礼に迎えられ、ある市民歓迎会では100歳の老人もまじえて50人くらいの人と握手し、あるところではスポーツマンからサインを求められたりした。スポーツを支える数カ国の軍人や政治家、それにスポーツマンの全部が、この陸路聖火を運ぶというロマンを非常に熱望していることがよくわかった。そして私たちはオリンピック熱が、日本ばかしではなく、中近東の至るところにもひろがり、そしてまた日本人が聖火リレーを通して偉大な人間性やオリンピック精神をともにプロモートし、アジア、世界の精神的支柱として確固とした地位を位置づけるであろうことを信じて疑わない。(オリンピック組織委嘱託)

東京オリンピック 8号 1962年2月25日より

「いだてん」周回遅れその6:ぐるっとぎゃん

 四三は播磨屋の主人、清さんと、毎日走るコースを相談している。

「どこを走ってんの?」
「お茶の水ん寄宿舎から大塚ん学校までば行ったり来たり」

 そのコースは坂が多いし道がよくない、というのが清さんの意見だ。それはもっともだとして、そのあとの提案がちょっと変わっている。お茶の水の宿舎から坂を下りて平地でトレーニングするのであれば、南東の日本橋へ直接行けばごく平坦な道ではなかろうか。なのに播磨屋と清さんのおすすめは、わざわざいったん北側の上野に向かうルートだ。コースはますます日本橋からそれて、さらに東、浅草に行く。

「上野から浅草、凌雲閣をぐるって回って…」

 凌雲閣こと十二階は浅草の北、だからそこを「ぐるっと回る」と180度方向転換して南向きになる。浅草から人形町、日本橋、というのは落語「富久」で主人公がたどるルートだ。

Google Earth + 東京地形地図による地形地図に、『いだてん』第六回関連場所を記入したもの

 四三は奇妙な迂回をすることになる。ただ直線の平地を行くコースではなく、まるで回転する身体から砲丸を放つように、十二階をぐるっと回るその遠心力によって自身を放つ。「ぐるっと回る」ことで四三の身体は一気に加速する。そこからはぎゃん行ってぎゃん行って、浅草から日本橋、いっそ距離をのばして芝の浜まで。宮藤官九郎のことばは、「ぐるっと」で回転加速し、「ぎゃん」でスピードアップしたその速度を表す。

 カメラはどうか。「上野から浅草」という四三のことばとともに、ショットはすでに十二階に走り込む四三の姿を写している。目眩のように景色は回転する。猿回しの猿が逆立ちをしているそばを四三が通り過ぎる。楽隊が音楽を鳴らしている。あたかもここ十二階こそ、身体をひっくり返すヘソなのだとでもいう風に。「浅草を抜けたらぎゃん行ってぎゃん行って…」ここでは町並みを進む四三を横から捉えながらカメラが併走し、ストレート感を出している。そしてショットが切り替わると、低層の東京がぐっと開ける。海までは平地だ。

 そこから日本橋をゴールにしてもいいけれど、四三はさらに芝まで行く。ちょうど志ん生が落語の中で、日本橋まで行けばいいはずの「富久」をそこからさらに距離を伸ばして芝までにしてしまったように。

 日本橋と芝。ばしとしば。あれ、回文だ。芝から。ばからし。あれ、アナグラムだ。阿部サダヲ演じる田畑は言う。「しばからにほんばしまではしるばかどこにいる?」。ばっ、まるで早口言葉だ。

 浅草。あ「さくさ」。あれ、回文が入っている。あさくさは、「あ」から「さくさ」への回転。上野から浅草、あさくさの「く」で生まれる遠心力。しばはばしの反転。芝は、日本橋まででよかったその先に据えられた夢。四三は毎日夢に行き、夢から帰ってくる。明日もまた夢になる。夢になるといけねえ。

「いだてん」周回遅れその5:彼岸過迄

 美川は寄宿舎で、消沈したように猫を抱いている。猫があんまり大きいので、美川の方が小さな動物のように見える。

 明治44年11月のこの時期、漱石は未だ創作の空白期にあった。

 明治43年夏、療養先の修善寺で、漱石は突如大量喀血し、生死の境をさまよった。いわゆる「修善寺の大患」だ。ようやく回復し東京に戻ったものの、その後は大患前後のことを書いた「思い出す事など」を除いてほとんど執筆活動を行っていない。「三四郎」以降、「永日小品」「それから」「門」と、わずか二年の間に次々と名作を生み出してきたあとの一年数ヶ月にわたる沈黙は、愛読者にとっては信じられないほどの長さだっただろう。

 翌明治45年の新年、ようやく漱石の新連載が朝日新聞で始まる。
「長い間抑えられたものが伸びる時の楽(たのしみ)よりは、背中に背負された義務を片づける時機が来たという意味でまず何よりも嬉しかった。けれども長い間抛り出しておいたこの義務を、どうしたら例(いつも)よりも手際よくやってのけられるだろうかと考えると、また新らしい苦痛を感ぜずにはいられない」。その緒言は、病み上がりの自身の具合を確かめるような調子を帯びている。

 そして「彼岸過迄」もまた、青年を主人公に据えながら、動き過ぎることを忌避するように始まる。「敬太郎はそれほど験(げん)の見えないこの間からの運動と奔走に少し厭気が注(さ)してきた」。飲みたくもない麦酒をポンポン抜いてもどうも陽気になれず、早々と布団に潜り込んでしまう。喉が渇いて目が覚める。夢を見て目が覚める。煙草を吸って、まだ眠れない。朝がきて風呂に行く。倦怠の中から、敬太郎はゆっくりと物語を探っていく。

 美川が尊敬してやまない作家漱石は、もうすぐそのような小説を書く。新小説を新聞で読み進めるうちに、美川はいよいよ自身を持て余し、猫は大きくなり、運動と奔走のもたらす華やかな身体の世界からはみ出していくに違いない。

「いだてん」周回遅れその4:弁髪

 物語の上では点景に過ぎないが、羽田の陸上競技場を手伝っている「弁髪の連中」がいる。弁髪は清朝の象徴であり、まもなく始まる辛亥革命によってこの風習は消え去るのだが、この場面を見てわたしはふと魯迅の『藤野先生』を思い出した。

 「東京もどうせこんなものだった」と『藤野先生』は書き出される。「こんなもの」という情景の典型として、魯迅はそこから、上野の桜に集う弁髪姿の留学生の姿を描写し、「まったくお美しい限り」と皮肉っている。同じ留学生でありながら、彼には旧来の清の風習を引きずった同級生たちの姿がおもしろくなかった。

『いだてん』に現れる弁髪の人々は、おそらく嘉納治五郎の作った清国留学生向けの予備校、弘文学院速成班 *1 の学生たちなのだろう。魯迅は『いだてん』の時代より少し前の1902年、この速成班に居て二年間を過ごした。先の『藤野先生』の冒頭に書かれているのもその頃の話だ。魯迅は、東京での生活に満足できず、1904年、仙台の医学専門学校に移り、そこで藤野先生に会う。

 「藤野先生」には、人を教えることに対する藤野先生の誠実な態度が静かに、情を込めて綴られる一方で、いくつか見逃せないできごとも記されている。ときは日露戦争の最中(ちょうど四三が熊本で日本の活躍に飛び上がっていた頃だ)、魯迅は学校で日本に勝っている場面を次々と写す幻灯を見せられる。ところが、映し出される写真にたまに中国人が混ざっていることがあった。「ロシア人のためにスパイとなり、日本軍に捕まって、銃殺されるところで、周りを囲んで見ているのも一群の中国人、講義室にはもう一人僕がいた」(『藤野先生』 *2 )。この経験から彼は「およそ愚弱な国民は、たとえ体格がいかに健全だろうが、なんの意味もない見せしめの材料かその観客にしかなれない」と知り、自分たちの最初の課題は医学ではなく「精神を変革すること」であると考えたと、『吶喊』自序 *3 で記している。

 弘文学院は実際には革命前の1909年に閉鎖しており、羽田運動場を作る頃にはすでになかった。一方、魯迅は1906年から1908年まで東京に暮らし続け、文芸誌の発刊を計画したが頓挫する。彼はその後も1912年までたびたび日本を訪れているが、「狂人日記」(1918)を書いて小説家として名を成すのはまだ先のことだ。

 「弁髪の連中」は、『いだてん』の時代が、実は清から中華民国への革命期でもあったこと、そして東京には、日露戦争の戦勝にわき講和に悲憤慷慨する人々とは全く異なる心情を持つ人々が存在したことを、思い出させるのである。

*1 弘文学院(宏文学院)での教育内容や当時の留学生の感情については、坂根巌子「宏文学院における日本語教育 」など、いくつか論文がある。

*2, 3 「故郷/阿Q正伝」藤井省三訳、光文社古典文庫

「いだてん」周回遅れその3

 まずは手元の絵はがきを一枚。明治期の浅草で、左端から中央にかけて写っているのが活動写真の千代田館。その隣、奥が電気館。右は三友館だろうか。ということは、これは浅草六区を、ひょうたん池の南端から南に向かって見たところ。カメラマンの背中側、池の北端には浅草十二階がでんとそびえているはずだ。

 左手前でピンボケになっている少年が、三友館を見上げる一瞬の表情が、この街に来たことの高揚を示しているようで見飽きない。同じ方向を向いているヒトが何人かいるのだが、あるいは掲げられた看板が見事だったのか、それとも何か見世物があったのか。

東京浅草公園(明治末期の浅草六区を南に向かったところ)

 さて、やはり注目すべきは千代田館にでかでかと掲げられた「不如帰全十一場」の幟と絵看板だろう。これはまさに『いだてん』第三回で、四三と美川が入った演目そのものではないか。

 この絵はがきは明治のいつ頃ものなのだろう。日本映画データベースによれば明治期に『不如帰』は1910年と1911年と二回映画化されている。さてどちらか。その奥の『苦学生』の幟に注目してみよう。こちらは1911年11月15日に電気館(!)で封切りとなっている。ということは、これは1911年(明治44年)の浅草、秋から冬というところではないか。服装もそれらしい。
 もう一押しして、明治44年秋以降の都新聞の広告をしらみつぶしにあたれば、千代田館、電気館その他の上映館でいつ何がかかっていたかが明らかになり、時期がはっきりするはずだ。この作業、都新聞のある図書館でいつかやろうと思いつつ、さぼっております。すみません。

 不如帰のかかっているのが仮に千代田館だとすると、専属の人気弁士がいたはずで、こちらも当時の新聞をくまなく繰っていけば誰かわかるかもしれない。というか、ドラマの中で見事な活弁をふるっておられた坂本頼光さんがすでにご存じかもしれない。

 絵はがきの画像を見るときは、モニタいっぱいに引き延ばして見ることにしている*。片目をつぶって見ていると、だんだん写真の中に入っていけそうな感覚が立ち上がってくる。そうすればしめたもので、あの左端の少年の横を抜けて、雑踏の中にまぎれることだって、できてしまうのだ。活動写真を見終わった四三と美川がひょいとまぎれていったように。

注:* 拡大用の大きな画像へのリンクはこちら
この画像を右クリック(Macならcontrolボタン+クリック)して「別名で画像を保存」すると、お手元で3Mほどの画像ファイルになります。これをモニタいっぱいに拡大表示してお楽しみ下さい。

「いだてん」周回遅れその1と2


 cakesでの連載「今週の『いだてん』噺」は、一回2000字、最大3000字という約束で書いているのだが、すでに書いた二回ともこの最大字数を大幅に超えている。にもかかわらず、噺から削った考えもあちこちある。この調子でいくと、書かなかったことがどんどんたまってしまうだろう。というわけで、ここでは、連載で記さなかったいくつかのことを思いつくまま書いておこう。まとまった論点を示すのではなく、あくまで目についたものを拾い上げる落ち穂拾いの要領で。まあ、気楽にお読み下さい。

クーベルタンの背負い

 第一回、クーベルタン男爵が「日本でライトマンを探してくれ」と言ったあと、気合いをこめて背負い投げを真似るショットが入る。ほんの短いショットで、筋書きの上では必要はない。でも、このショットは、実に井上剛さんらしい演出だなと思った。体で真似てみることには、新しいこと、まだ自分では体得していないことへのあこがれが表れる。この一瞬のショットのおかげで、クーベルタンは単なる好奇心から日本への接触を試みたのではなく、Jiu Jitsu という呪文のようなことばのもとに伝来した、わざへのあこがれを持っていたのだということが、体感される。

 それは、この第一回に漲っている、まだ見ぬものへのあこがれに通じている。

Harry H. Skinner “Jiu-Jitsu” 1904より

四三朦朧

 予選会でゴールした四三は、大きく腕を振り上げて合図を送り、両腕を広げて身構えていた嘉納治五郎の方とは異なる方向へ倒れこもうとする。疲労困憊していた四三にはもはや前方が朦朧としていたのか、それとも目の悪さゆえによくわからなかったのか。おそらく抱きとめられたときも、自分が誰に抱きとめられたのか、四三にはよくわからなかっただろう。あの嘉納先生についに抱きとめられたのだ、という感慨は、そういう意味でも、物語を見る者が特権的に感じているのだと思わされる。

机の上の十二階

 このドラマにはいたるところに浅草十二階のアイコンがでてきて、十二階好きにはたまらないのだが、第二回、海軍兵学校の試験勉強をする四三の机の上に、どういうわけか、十二階の置物があり、避雷針の代わりに鉛筆が差してある(欲しい!)。横には地球儀。つまり、地球の中の東京へのあこがれが、この机上に配置されているようにも見える。
 それにしても誰がこの熊本の山の中に、十二階の置物を持ち込んだのか。病弱の父親が東京見物をしたとも思えない。誰か来客の土産物か。その人はこの不思議な塔のことを、なんと説明したのだろう。

スッスッはーはー

おそらくこのドラマの基調となるであろう、この印象的な呼吸法は、第一回の冒頭、顔のわからない謎のランナーが登場するときにも用いられていた。おそらくドラマの時空を駆ける音のアイコンとして、今後用いられていくのだろう。ところで第二回、子供の四三がこの呼吸法を思いつくとき、さりげなくバックグラウンドの劇伴にも、スッスッはーはーという声がまぎれていなかっただろうか。しかも、スッスッはー、からスッスッはーはーへと移り変わるように。ほんの短い劇伴だったけれど、これがこの呼吸法を、走法のための発明以上のものとして、何か新しいアイコンの誕生として印象づけていたように思う。