「浮絵」をのぞく時代・のぞきのパーソナル化(18c.中期?-)
軸装とは別に、浮絵の代表的な鑑賞法として、覗きめがねによるものがある。これまた正確な発祥年代は明らかではないが、岡(1992)や岸(1994)の考察から考えて、浮絵は、発生と同時期にのぞきからくりに導入されたか、もしくは少し遅れてから取り入れられたと考えられる。
当時ののぞきからくりが現存しないのではっきりとした証拠はないが、のぞきからくりのパーソナル版、すなわち直視型覗き眼鏡は残っており、その発生の経緯については岡(1992)が詳しい考察を行っている。
床の間にかける浮絵と並行して(もしくは後に)、小型の浮絵は覗き眼鏡を使って見られたものと考えられる。
「透かし絵」の導入
宝暦末期の京都? 岡(1992,p93)
のぞきからくりというと、その遠近感がもっぱら強調されるきらいがあるが、じつは透かし絵の技術も見逃せない魅力のひとつである。
その歴史は古く、18世紀中期の応挙の眼鏡絵などに、紙を切り抜いて色をつけた裏紙を当て、裏から光を透かす技法が試みられている。もともと、日本の和紙は西洋のキャンバスや羊皮紙などと違い、透過性に富んでおり、日本人は灯籠や提灯などを通じて和紙を光に透かすことに親しんできた。和紙文化は透かしと親和性が高かったのである。
山本(1973)は、京伝の「御存商売物」(1782)に収められた「おらんだ大からくり(のぞきからくり)」の図(田中優子氏のサイト内の画像参照)にそえられた説明に、すでに透かし絵技法が読みとれることを指摘している。
京四条川原の夕涼みのてひ、これも夜分のけひへとかはり、つらりつとひがとぼります
しゆびやうおわりますれば、おなごりおしやうはございまするがそうようさまへのおいとまごひ、なんとよいさいくでござりましよう (山東京伝「御存商売物」1782)
つまり、のぞきからくりの最後に、四条河原の光景を夕方から夜へと変化させたらしいのである。描かれた装置を見る限り、特別に照明を調節するための工夫は見あたらないが、岡(1992)によれば、のぞきからくりでは絵の裏側には裏板が仕込まれており、これを引き抜けば裏から光が入る仕組みになっていたらしい。
18世紀中期という年代は世界の透かし絵の歴史から見ても驚くべき早さである。Verwiebe "Lichtspiele
- Vom Transparentbild zum Diorama -"によれば、ただの絵を透かして見ることから、絵に切り抜きを入れたり裏側に彩色を凝らした透かし絵が現れ始めたのは1780年頃のことであり、この後、透かし絵を大がかりに用いた「ジオラマ」がダゲールによって上演されるのはさらに40年後の1820年代である。
しかもこうした透かし絵は、単なる輸入品ではなく、和風にアレンジされていた。その装置では、和風の障子を使った微妙な透過光が使用され、和風の風景画というオリジナルの中ネタが描かれ、おそらくは和紙によって透かしがほどこされていた。
(じっさいの透かし絵の造作に関しては見聞記参照)。
(2003 April 04)