からくりと大津絵の混合? (18c.前?-)
レンズのはめこまれた木枠を通して絵を見る。この風習がオランダを経由して日本に伝わったのは、17世紀中頃ではないかと考えられている。蘭館日誌には1646年(正保三年)に「「極楽箱と称えた透視箱(Gocracqbaco
/ de perspectieff cas )」が到着した、という記載があり、スクリーチは(1996/1998)これを、オランダ製ののぞき箱、すなわち「完全に閉じた構造で、内部六面のいくつか、もしくはすべてに絵を描いてあり、覗く者は一個(ないし複数個)の小穴から箱中を覗くと、室内(インテリア)風景がまるで本物のように、三次元に立ち上がって見える」ものか、もしくは「小穴の対(むか)いに絵を一枚描いたのみの、もっと簡単なもの」ではないかと推測している。
先に述べたように、17世紀には「のぞきからくり」は「からくり」を見せていたらしく、絵を単独で見せていた証拠は見つかっていない。
では、からくりが箱の中にあったとして、箱の壁面には何らかの絵が描かれていなかったのだろうか。岡(1992)は、いくつかの文献を挙げてこの可能性を指摘している。
ひとつは「艶道通鑑」(1715 /正徳五年)。「尾を陰(かくし)て法を売(うる)狼共覗からくりをビイドロなしに、大津絵を生(しょう)で見たるけしき」*。これが果たして駄洒落に過ぎないのか何らかの実体を示しているのかはわからないが、覗きからくりがからくりとともに絵を見せる装置となり始めていた可能性が考えられる。
*ここで少し脱線を。スクリーチ(1996/1998)は、「大津絵」を「大つび絵(つび=陰門)」の駄洒落として、「後ろからセックスして安女郎たちは、その得たものを売る。のぞきからくりで男たちはものを使いこそしないが、恥毛で覆われた女の大穴の絵をいやらしく見つめる」という解釈をしている。
この解釈に従うなら「ビイドロ/生」の対立が効いてくる。ビイドロは、ここでは拡大する装置ではなく、見る者と見られる者との間を隔てる障壁であり、生の方がまさに「生々しい」のだ。
もうひとつは本朝文鑑(1718 / 享保三年)。「覗からくりの地獄極楽も都は一銭にて善悪を見れば一刻千金のあそびの中に巾着摺はいかに見るらん」」で、岡はこれを「地獄図を描き因果応報を教える伝統的な『六道絵』の絵説きを、直視式のぞき眼鏡で行っていた」と推測し、さらにここから、のぞきからくりの語りのルーツは仏教的な絵説きであるとしている。
これらの文面には、「浮絵」ということばはまだ現れていない。この時期、仮に絵がからくり箱の中にあったとしても、それは浮絵のような奥行きを持ったものではなく、単純な背景画のようなものに過ぎなかったと考えられる。