のぞきからくりの歴史(3)


細馬宏通

 

複眼で見られた「浮絵」

 やがて、18世紀中期になると、「浮絵」と呼ばれる和風遠近法絵画が登場し、これがのぞきからくりに導入される。ここでは岸(1994)にしたがってその経緯を確認しておこう。

 初期の浮絵には画題や構図に中国の影響が多く見られることから、西洋から中国経由で輸入されたのではないかとされている(山本 1973; 岡 1992; 岸 1994)。現存する最初の浮絵は1739(元文四年)の市村座場内之図(無款)だが、以降の作品について、岸は大きく3つの時期に分けている。まず1745(延享二年)ごろの奥村政信を代表とする第一世代で、近景には遠近法、遠景には旧来の構図が相克して、透視法に破調が見られるものが多い。これに続くのが1767(明和四年)ごろの歌川豊春を代表とする第二世代で、これらの図では画面全体が透視図法のもとに構成され、透視は舞台という「消失圏」に集まるとともに、視点がより後退し振動している。1770(明和七年)の第三世代では、やはり豊春を中心としながら、画題が戸外に求められることが増え、視点がより高く俯瞰的になり、深さよりも広さが強調される。そしてこの第三世代の浮絵の流れが後の広重の風景版画へと接続していく。

 のぞきからくりとの関連で重要なのは、第一世代のものが大判ないし大大判で、軸装が多かったことである。つまり、初期の浮絵は覗きの対象ではなく、むしろ床の間にかけて両眼で眺められることが多かったのではないかと考えられる。両眼で見るとき、両眼視差によって透視の消失点がずれるために、単眼で見るときに比べて一点透視の奥行き効果はあいまいになる。初期の浮絵で透視図法が徹底していないのは、もちろん透視図に対する知識の問題もあるが、それが「のぞき」という単眼視の対象でなかった点も原因ではないかと私は考える。

 いっぽう岡(1992)はこれらが芝居小屋や遊興の場面を描いていることに注目し、

 いわば、床にひとつの窓が開けられ、その窓ごしに別の空間がのぞめるという面白みをねらうわけで、にぎやかな交歓が行われている『絵』を、同様の歓をつくしながらながめる、といった状況が多々あったかも知れない。

と推察している。
 この指摘に従うなら、初期の浮絵は必ずしも「のぞく」対象でなく、同時に何人かの人間によって共有され、同時にあれこれと指し示しができるものだったことになる。浮絵は両眼で見られただけでなく、複数の人間の眼によって見られた。つまり二重の意味で複眼で見られたというわけだ。 

  ちなみに、文楽の書き割りには、浮絵的な、遠近法を強調した絵がよく見られる。これが、文楽発祥以来の趣向なのか後の趣向なのかは、発祥当時の背景画が残っていないため明らかではないが、からくりと人形の組み合わせは、あたかものぞきからくりの初期を思わせて興味深い。もしかすると、浮絵は、のぞきの対象としてだけではなく、書き割りのような開かれたものとしても発展していったのかもしれない。

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覗きと遠近法
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