細馬宏通(滋賀県立大学人間文化学部)
実をいうと、私はアートの専門家ではありません。たまたま障害者教育の現場や、障害者のワークショップをみに行く機会があり、その感想をあちこちに書いたところ、記事に興味を持った方が声をかけてくださるようになり、だんだん執筆や講演の機会が増えてきました。ですから、アートの専門家からは、「今ごろ何いうてんの」と思われる部分もあるかもしれません。私自身は、人間のコミュニケーションのなかで、どのように身体が使われているかを研究することを専門にしています。絵を描いたり、線を引いたりするときに身体がどう動くのか、そういう興味から出発して、いくつか思いつくことをお話したいと思います。
先日、アメリカの大統領選挙が行われました。多くの方が、恐らくオバマ次期大統領の勝利宣言演説を、テレビでご覧になったことと思います。日本では、ごく一部しか放映されませんでしたが、インターネットで演説を全部見ることができます。すると、いろいろ興味深いことが判ります。まず、面白いのは、勝利演説の場所がシカゴのグラント広場だったということです。シカゴはリンカーンがいたところです。シカゴ生まれではありませんが、30年くらいそこに住んでいました。いわば奴隷解放宣言の記念碑的な場所で、オバマは勝利演説をしたわけです。
もうひとつ、私がおもしろいと思ったのは、演説の最後に、オバマ氏がひとりのおばあさん、今年106歳になるアン・ニクソン・クーパーのことを話し始めたことです。「今回、アトランタで投票したひとりの婦人のことを、私は思い描いている」。オバマ氏は、クーパーさんの人生とその時代時代に起こったこととを重ね合わせていきます。いわば生き証人としてのクーパーさんを描くのです。
106歳の人が生まれた1902年ごろといえば、南北戦争が終わり、ようやく奴隷制の影がなくなったころです。車も飛行機もまだほとんどないころのことです。クーパーさんは大恐慌を、ニューディール政策を、第二次世界大戦を経験しました。日本のテレビではカットされていますが、もちろん真珠湾攻撃もありました。「爆撃が湾に落とされ、暴虐が世界を脅かしたときも、クーパーさんはそこにいて、当時の国民が気高く立ち上がり、民主主義が守られるのを、目撃しました。YES, WE CAN」(笑)。公民権運動の話も出てきます。奴隷制度がなくなっても、相変わらず黒人差別は続いていました。「今は黒人にとって苦しい時代だが、私たちはきっと乗り越える、とキング牧師はいった」。それもまた、クーパーさんは目撃している。さらに1969年、人類がはじめて月世界に降り立った、その映像もまたクーパーさんは見ました。その瞬間をオバマ氏は「あるひとりの男が、月面に“タッチ”した」と表現します。
そして、今年その106歳の婦人は電子投票用の「電子スクリーンの画面に、彼女の指を“タッチ”した」。単に投票したのではなくて、106歳の婦人が、あたかも月に着陸した男のつま先のように、自分の指先を電子投票のスクリーンに“タッチ”したというわけです。これはもう、みんな大感激ですよね。アメリカが一番輝かしかった時代、人類が月面に立つという偉業を成し遂げたアメリカ人の爪先と、106歳のアフロアメリカンのおばあさんの指先とが重ねられているのです。いろんな意味で、すごい演説だなぁ、と思いました。
ところで、その時私は、106歳のクーパーさんの話を聞きながら、もう一人のアメリカ人のことを思い浮かべていました。それは、ヘンリー・ダーガーのことです。オバマが言及したアン・ニクソン・クーパーは今年106歳ですが、ダーガーはちょうどその10歳年上で、1892年にシカゴで生まれました。その翌年、1893年にはシカゴ万博が開催されています。実は、それに先立つ1871年、シカゴの街は大火災で完全に焼失しています。ですからダーガーが生まれたのは、シカゴの街が復興し、アメリカを代表する都市へと変貌を遂げていく時期にあたります。
ところが彼の生涯は、オバマ氏の演説にあるような輝かしいアメリカンの歴史とは、まったくかけ離れたものでした。3歳のときにお母さんが亡くなり、7歳のときにお父さんの体調が悪化、ダーガーは施設に預けられます。この施設の名前は皮肉にも「リンカーン精神薄弱児収容施設」でした。自叙伝によると、ダーガーは施設をほとんど脱走するようなかたちで逃げ出し、シカゴのとある病院の清掃員の仕事に就きます。
ダーガーは1万数千ページに及ぶ『非現実の王国で』という膨大な年代記(クロニクル)を書いていますが、それに着手したのは、どうやら病院の清掃員になった後のようです。約十数年かけて文章はほぼ完成しますが、その後彼は、文章を補うため、さまざまな絵を描き始めます。今回の展覧会で皆さんがご覧になったのはそのごく一部で、全体量は本当に膨大なものです。それだけ大量の作品をつくっていながら、誰一人そのことを知ることなく、1963年にダーガーは病院を退職し、1973年に亡くなっています。ちょうどアームストロング船長が月面に降りた4年後のことでした。
こうして年代を追っていくと、私は不思議な感覚に打たれます。オバマが演説で述べたような、輝かしいアメリカンの歴史と、ヘンリー・ダーガーの生涯とには、ほとんど重なる部分がないのです。もちろん、『非現実の王国』の執筆中には第一次世界大戦が勃発し、末期にはアメリカも参戦しているので、彼が描く戦闘シーンには当時の新聞や雑誌の記事が反映されています。しかし基本的には、大文字の政治、あるいは社会状況と、ダーガーとの間にほとんど双方向の接点を見出すことはできません。そこが非常に不思議なのです。にもかかわらず、彼が亡くなった後、日本にいる私たちまでがヘンリー・ダーガーの名前を口にし、ここ滋賀県に作品がやってくる、そんな事態が起きています。
彼が死の床にあった際、大家さんがダーガーの部屋を片付けるために部屋に立ち入りました。そこで発見されたのが、ホコリだらけの、とんでもない量の作品の束だったわけです。幸いにも、それをみた大家さんは「うわ汚な、捨てよ」と思わずに、直観的に、これはえらいものだと気づきました。ゴミ屑同然の紙束は世間の目に触れることとなり、今ではアメリカン・フォークアート・ミュージアム、アール・ブリュット・コレクション、abcdコレクションほか様々なところに収蔵されています。
初めてダーガーの絵をみたとき、家主さんは何に驚いたのでしょう。もちろんその量もたいへんなものですが、絵そのものが、どうもふつうではありません。まず強烈に違和感を覚えるのは、一枚の絵のなかに、しばしば同時に違うことが起きている、ということです。例えば、今回の展示作品の中には目を覆いたくなるような、少女虐待のシーンが描かれているものがありますが、それ以上に私たちがショックを感じるのは、極めて凄惨な惨劇が起きているにも関わらず、ほかの少女たちはまったくその意味を理解していない、ということです。
たとえばある一枚の絵。画面手前では、男に少女がいままさに首をしめられているところです。いっぽう、同じ部屋の向こうでは、大きなコントラバスのケースを前に少女たちがなにごとか話し合っています。笑っている女の子さえいます。画面の中央下部にはノートの切端のようなものが貼り付けられていて、こう書かれています。「彼女たちは大きなフィドル(ヴァイオリン)のケースに隠れようとしている」。
ふつうに考えれば、これはどう考えてもおかしい。隠れるも何も、もうすぐ眼の前に惨劇が起こっているじゃないか。こんなふうに、ぼやっと笑っている場合じゃない、と私たちは思うわけです。その一方で、もしこの絵がこれで成立しているのだとしたら、逆にこの絵の世界は、いったいどうなってしまっているんだろう、とも考えさせられます。
もうひとつ、非常に不思議なことがあります。彼の絵にはあまりにも同じポーズをした少女が多いのです(→滋賀近代美術館の展示作品例)。一枚の絵なのだから、その中にいるのは、あくまでも複数の女の子たちであるはずです。ところが、彼女たちのポーズは全く同じにみえる。それもそのはずで、ダーガーはカーボン紙やワックス紙を用いて、同じイメージを大量生産していました。まず自分のお好みの新聞や、漫画のイラストを切り抜き、その下にカーボン紙を敷き、さらにその下に紙を敷きます。この状態で輪郭をきれいになぞっていくと、女の子の姿が写し取れるのです。ふつうだったら、同じ絵にひとつのポーズはまずいだろうと思って、違う切り抜きを使いそうなものですが、ダーガーには、お気に入りのイメージを何度も使う傾向があり、隣に全く同じ女の子の輪郭をどんどん描いていくわけです。彼の書斎には、新聞の切り抜きとか、彼のお気に入りの原画がたくさんあって、何度も酷使されたものは、ほとんど穴が開きそうになっていたといいます。
私たちは、「絵画」という空間について、常識的にはある一瞬を切り取った場面だと解釈します。ですから、それぞれ異なる少女たちがいて、ひとりひとりがそれぞれの意思を持って逃げているのだと、ふつうは思うわけです。その一方で、ちょっと違う感覚も起きてくる。もしかすると、私たちはひとつの空間を見ているのでは、ないのではないか、と。
ダーガーの絵の繰り返しは、フォトショップなどの画像ソフトを使って簡単にコピー&ペーストする感覚に似ていなくはありません。が、一方で、ただのコピー&ペーストではない質感も持ち合わせている。それは、カーボンのかすれであり、なぞった線の微妙な輪郭のずれです。版画や印刷物にもそういうところがありますが、かすれやずれを見ると、ああ、これらは同時にできたんじゃなくて、違う時間に刷られたんだな、という感じがする。
ここから先は多少妄想めいてくるのですが、私はこういうものをみると、何人もがひとつの空間に押し込められているというより、あるポーズをとったひとりの女の子の時間が、何度も繰り返しこの空間に降りて来ているように感じるのです。普段私たちは、ひとつの空間に多数が存在すると考えますが、ダーガーの絵においては、複数の時間に存在するひとりの女の子のヴィジョンが現れているようにみえるのです。もちろんダーガーは「ヴィヴィアン・ガールズ」と書いていますし、複数形として捉えていたのでしょうが、彼が実際につくり上げてしまった女の子をみると、ガールズのアイデンティティが複数ではなく、単数にみえる時がある。そこが面白いと思うのです。
ダーガーの絵を見て、私は、手元にある一枚の日本の石版画を思い出しました(→帝都大震災画報其一 浅草公園十二階及花屋敷付近延焼之状況)。その石版画は、関東大震災の直後、被災した浅草の石版画工が、この悲惨な状況を絶対後世に残さねばと意を決して、かなり悲壮な思いで刷ったであろう版画です。浅草十二階という建物が焼け、象が動物園から逃げ出し、人々が逃げ惑うという、そうとう悲惨な絵です。初めてこの石版画をみたとき、これはもう阿鼻叫喚だな、と思ったのですが、しばらく眺めていると不思議なことに気づきました。逃げ惑う人々の表情をよくみると、笑ってるんです、困ったことに。わぁ、あっちに行ったら楽しいことがあるよ、みたいな。
これは別に、石版画工が楽しい場面を描こうと思ったからこうなったのではなくて、彼のスキルに起因するものです。彼は人物の顔を描くとき、石版風に、手っ取り早く鼻をシュシュッと簡略化して描く。ところが、その簡略図を描くときの彼の手癖のおかげで、細かい表情が、ついつい笑い顔になってしまう。本来は悲惨な状況にふさわしい顔が描かれるべきところに、絵のなかで表現されている状況とは相容れない表情が、つい描き込まれてしまう。私は、これがダーガーの場合と非常に似ていると思ったのです。
ダーガーの一連の絵は、先ほど申しましたように、漫画や新聞のイラストの切り抜きをコピーしたものです。ですから、本来ならコピーを選ぶ際、物語の文脈にふさわしい表情を選べばいいのに、彼にはお気に入りのイメージがいくつかあって、つい物語とは無関係に、それらをトレースしている。逃げ惑う少女たちの背後には、南北戦争調の、ものすごい爆撃シーンが起きているのですが、彼女たちの表情ひとつひとつをみていくと、笑ったり、くつろいだり、いわば鬼ごっこでもしているかのような風情です。もちろんすべてがカーボン・コピーというわけではなくて、顔の部分だけ場面に合わせて自分で描いたものも、なくはない。しかし、ここは自分で描けばいいのに、と思うようなところをカーボン・コピーしたために、不自然に明るい表情の子どもたちが描かれているシーンがかなりあります。そういうものをみていると、この女の子たちは、この凄惨な物語のなかを、敵から逃げまといながら生き延びてきたのではなくて、むしろ、この世界のなかに突然ぽん、と放り込まれた、そんなふうに思ってしまう。事実、原画のイラストや新聞の表情が貼り付いたまま、物語のなかに投げ込まれているわけですが、圧倒的な物語性があるにもかかわらず、登場する少女の表情がぜんぜんその物語を背負っていない、そこがダーガーの作品の非常に不思議な点だと思います。
これは、私たちがふつう考えるアートとは、かなり違った作られ方ではないでしょうか。ふつう作品を作ろうと思えば、何らかのポリシーのもと、物語を想定し、そこに描かれる人やモノをできるだけ統制する方向に持っていきます。日本の石版画や木版画がアートと呼ばれず、限界芸術、あるいは境界芸術と呼ばれるひとつの所以は、そういう統制力が弱いからなのかもしれません。本来なら顔の隅々までディティールを描いていくのがアーティストでありアートだとするならば、ある種の石版画ではむしろ、自分の腕がどうしようもなく発揮してしまう線の快楽を前面に出している。快楽、ということばが美化しすぎだとしたら、癖や繰り返しといってもいい。ともあれ、そうした、身体に埋め込まれた技能がはらんでいる力によって、たまさかできてしまうものが、この世には存在する。これまで私たちはそういうものをあまりアートとはみなしていなかったのですが、ほんとはどうなんだろうか。そういう問題を、ダーガーは突きつけているような気がします。
ダーガーの作品のもうひとつのポイントは、他人に作品をみせる意志の希薄さであり、それはアール・ブリュット全般にもいえることです。なかには美術展への出品を考える作家もいるのでしょうが、基本的に多くの作家が、そういうことにあまり頓着していないようにみえます。
今回の出品作のなかに、アドルフ・ヴェルフリの大作があります。あまりの緻密さに圧倒されて、つい見逃してしまうのですが、この作品はまったく美術のフォーマットではありません。
もし通常の画家が、こうした細密な絵を描こうとしたら、まず額縁に収まるような、真四角の画面を選ぶはずです。ところが、この作品は通常の絵画の定型から大きく逸脱しています。推測するに、最初は、縦長の一枚の矩形に収まるように描いていたのだと思うのです。ところが、だんだん収拾がつかなくなってきて、恐らく絵を延長したくなったのでしょう。そこで紙を継ぎ足す場合、ふつうなら同じ縦長3枚で、という風に継ぎ足す紙の大きさを工夫すると思うんです。ところが、この人は画面の下の絵柄を描くところが足りないからと、その部分から横向きに継いじゃうんですね。しかも、さらにその右側の紙のサイズも微妙に違っている。細かいことを気にする人だったら、さぞかしイラッとするやり方でしょう。このちょっとした幅を揃えてくれたら、もっとアートらしいのに(笑)。これだけ圧倒的に細密な絵を描く人が、ふつうのアーティストだったら気にするはずの、画面の大きさやプロポーションにまったく頓着していない、そのことに見る者はびっくりさせられるわけです。
素材の紙にしても、アール・ブリュットの作品には、妙に無頓着なものが目立つ。アーティストによっては、「私は100年後に残るアートを目指す」という矜恃を持って努力している人だっているのに、アロイーズの作品(→滋賀県立近代美術館の展示例))を見ると、紙が破れていたりする。で、破れ目にところどころシールが貼ってある。それが困ったことに、またキュートだったりする。上の方はもう、雑誌がそのままくっついてるし、画面は真四角じゃないし、破れたら継いでるし、この頓着のなさは一体何なのでしょう。
実はダーガーとアロイーズの作品に、ひとつ重要な共通点があります。それは紙の両面、裏表に描いていることです。しかも紙が薄いので、裏がちょっと透けてみえてしまっているんです。こんなの、ふつうの美術作品ではあり得ない。せっかくすごい絵を描いてるのに、裏が透けたらダメじゃないですか。描かれた絵の世界に浸りたいのに裏側がチラチラ透けてるって、おかしいでしょう。でもそういうところにぜんぜん頓着しない、そこが面白いんです。
アンナ・ゼマーンコヴァーという人の、非常に美しい作品があります。一見すると絵なんですが、実物をよくみると、部分的に切り絵がコラージュされています。支持体の紙に直接描いた絵と、切って貼付けた絵とが融合した、非常におもしろい画面です。ところが、よくみると非常にずさんな部分もあります。画面の上の方に、色が少し変わっているところに注意してみて下さい。そこから下は切り絵なんですが、ちょっと足りなかったんでしょうね。上の花びらの部分は、下地の紙に描き足してあるんです。切り絵の面白さをアピールし、アーティスティックに表現したいのであれば、私なら、せめてエッジをもう少し切り詰めて、花びら全体を地に描くでしょう。その方がつじつまもあうし体裁もいいのに、この人は絵柄の途中でズバッと切っている。他の部分は非常にきれいにカットしてあるのに、突然ずさんになる。
ずさんと言ってますが、これは褒めことばで、私にはこういう点が非常に面白い。ここでは、私たちがアートに求めている体裁に対するこだわりがまるでない。そういう作品を見ることで、逆に、普段私たちが無意識のうちに持っているこだわりが照射される。普段私たちは、真四角な画面がいいと思い、切り絵は輪郭に沿ってきっちり切るのがいいと思い、後世まで残る丈夫な紙を使うことがいいと思っていますが、それは、ほんとうにアートに必要な条件なのか? もしかしたらこれらの作品のインパクトがあまりにも素晴らしいので、別に多少ツギハギでも、作品的には全然オッケーというか、むしろそれを気にしている自分の方がおかしいような気ががしてくるわけです。
アロイーズにしても、歯磨き粉や脱色性のあるインクを使ったり、コラージュにも非常にはがれやすい紙を使っている。アール・ブリュットの作家はよくコラージュをするのですが、あまり耐久性を考えているようには見えません。糊をベチャーッと塗ってベチャーッと貼る。で、年月が経つとボロボロはがれてくることもよくあらしい。搬送中にはがれた、という話もときどき漏れ聞きます。しっかりつくっていないので、どうしても作品が非常に傷みやすいんですね。
彼らがいかに通常の「作品性」を省みていないかを強調してきましたが、そのかわりに彼らが執着しているのは、一体何なのでしょう。ひとつには線だと思います。今回の展覧会でもそうですが、ほとんどの作家が色鉛筆やインクを使っていて、しかも線が非常に細かいことに驚かされます。さらにいえば、ベタを塗るべき部分を、線の集積で表現している例がすごく多い。これは日本のアニメや漫画の文化と対極的です。アニメや漫画は、ベタの部分を、基本的に線の要素がない、フラットな黒い領域として表現します。ところがアール・ブリュットの作家たちのほとんどは、黒い領域をつくるために、執拗に線で埋め尽くしています。
線に対する執着が極端にみられる作家のひとりに、ズデニェク・コシェックがいます。非常に変わったタイプの作家で、妄想系というか、統合失調症の傾向がある人です。アメリカ大陸の地図をみたとき、彼には、フロリダ半島からメキシコ湾にかけての海岸線が、インディアンの横顔に見えたんですね。で、アメリカの東海岸あたりが、鳥に見えた。そんなのただの妄想や、といわれるかもしれませんが、実は我々も似たような妄想をすることがあります。たとえば、大陸移動説を唱えたアルフレート・ヴェーゲナーは、南アメリカ大陸とアフリカ大陸の輪郭がぴったり一致することに気づいて、両大陸はもともとくっついていたのではないか、すなわち大陸は移動するのではないか、と思いつきました。これだって、形の相似からくる空想の1つと言えなくありません。輪郭を検出し、そこから形を判定することは、おそらく私たちが誰しも持っている基本的な視覚認知だと思います。それを、コシェックは非常に極端に押し進めているのでしょう。
もうひとつ重要なポイントは、輪郭を検出して終わり、ではなくて、さらにすき間をどんどん埋めていることです。まるで「耳なし芳一」のように、輪郭線に何らかのかたちを検出した途端、そこにどんどん注釈を記入し、すき間を埋めないと気が済まない。そういう感覚が、アール・ブリュットの作家に共通しているように思います。
たとえば、齋藤裕一の作品を、そうした文脈で見ることができるかと思います。線の集積で画面が埋められているのですが、よくみると個々はひらがなです。ぜんぶ「にゃ」です。ひたすら「にゃにゃにゃにゃにゃ…」と書いてある。ところが、だんだん違うものになってきて、「し」と「に」に分解されてしまったり、場所によってはかたちが崩れて、もはや識字できない部分もあります。
ここでおもしろいのは、表音文字であるはずのひらがなが、斎藤さんの手にかかると、だんだん音を離れて、象形になっていくように見えることです。
ここで、わたしが思い出すのは、以前、武庫川すずかけ作業所の方とワークショップをやったときに、参加者の咲さんが書いていた絵です。彼女はスプレー缶の絵を描くのですが、カタカナが好きで、缶のラベルに「メンソール」と書きます。なるほど「メンソール」か、筋肉痛に効く、エアー・サロンパスみたいなもんかな、と思ってたら、別の絵には「メデゾール」って書いてある。なんだ、「ン」と「デ」、「ソ」と「ゾ」が似てるから、間違えたちゃったのかな、とはじめは軽く見てました。ところが、制作風景をしげしげみていると、どうも違うのです。カタカナを書くときに、彼女は原則的に曲線を使わず、タテ線、ヨコ線で構成します。「デ」を書くときも、ヨコ、ヨコ、タテというふうに書いていきます。衝撃的だったのは、「デ」の濁点を、ふつうは斜めにちょんちょんと書くところを、タテ、タテって書くんです。しかもその濁点が、「止め」のない、縦方向にシュッと消えていくような線なんです。ペンが画面あたった部分は、濃く太くなります。それをシュッと引っ張ると、ペンが紙から離れるに従って徐々に細くなり、最後はかすれて消えていく。いかにもスプレー塗料で描いたような線になる。その濁点の線は、スプレー缶からでる線の筆致が同じなんです。つまり「メデゾール」っていうのは単なる間違いではなくて、彼女は自分の知っているカタカナのなかから、タテ線とヨコ線で構成された、自分にとって一番気持ちいいかたちを選んで描いているんです。逆にいえば、タテヨコの具合さえよければ、「ン」でも「デ」でも「ゾ」でも構わないのです。
我々は、「メンソール」や「にゃ」をみた時に、ついそれらを読む対象として捉えてしまいます。「に」が「し」と「こ」に分解されたり、「メンソール」が「メデゾール」になったらおかしい、と思うわけです。が、よく考えれば文字というものは、音声になる以前にかたちであり、極端にいえば、一番コンパクトな絵なわけです。しかもそれは、カタカナやひらがなさえ学習すれば、いつでも取り出すことができます。あたかもダーガーが、お気に入りの切り抜きからコピーを取るように、頭の中にカタカナやひらがなのコピーがあって、このかたちをトレースしたいと思えば、カーボン紙を使わなくてもなぞることができる。恐らく、彼や彼女たちにとって、カタカナやひらがなとは、そういうものなのではないか。
そう考えると、「にゃ」が集積していく感じ、私たちにとっては読むべき対象であるところの文字が、どういうわけか読む対象としては崩壊してしまい、もう真っ黒になってしまう感じがよくわかる。線をとにかく集めて面にしたい。しかもただの線では嫌で、タテヨコの線から構成された「にゃ」じゃないとだめなんだ、そういうことが作品から伝わってくるのです。
その背後に何があるかといえば、やはり何かで紙をこする、という快楽でしょう。ただ空中に描くのでは面白くない。現実の面にボールペンなり鉛筆なりを当て、それをギュッと引っ張るときの、手に感じる抵抗、あるいは線が抜けていくときの、手から放れていく感覚が、私たちが絵を描いたり、線を引くときの一番根本的な快楽だと思います。アール・ブリュットの作品からは、そのことが非常に強く感じられるのです。
マルティン・ラミレスの作品には、塗りつぶされて、テカっている部分があります。色鉛筆でこすりすぎて、紙の繊維が毛羽だって、それでもまだこすっているから繊維が摩滅して、その上に鉛筆の鉛が乗っているんです。つまり鉛筆の鉛が紙と一体化して、分厚い層になってしまっている。画集などでこういう絵の図版をみると、どうしても構図や物語にまず眼が行きますが、実物をみて衝撃を受けるのは、それがものすごい筆圧で擦られている、ということです。それは、ある意味必要ないことかもしれないんです。塗りつぶされてしまえば、あとはいくら擦ったって、黒にしかならないじゃないか。私たちは普通、そんな風に考えます。
しかし、一見無駄に思えることをやり続けていくと、予想外の事態が発生します。
漫才コンビ「麒麟」の田村が、自らの極貧体験を『ホームレス中学生』という本に書いて話題になりました。そのなかで、“味の向こう側”というエピソードが出てきます。食べ物がなくて、ごはんを噛みつづけていると、いったん味がなくなって、もうダメだと思った瞬間にジワッと甘みが出てくると。これを彼は“味の向こう側”と表現しています。鉛筆で擦ることもそれと似ていて、擦って擦って、もう充分黒が塗れてるやん、と思いつつもさらに擦る。紙の繊維がはがれて、さらにそれが鉛筆になめされる。そういうことを繰り返すうちに、常人ではたどり着けない鉛色、つまり“鉛筆の向こう側”が出現するわけです。
彼らは別に、鉛筆を擦り続けたらきっとこういうテクスチャーになるから、それまで止めないぞ、みたいな目的意識を持ってやってるわけじゃないんだろうと思います。さっきの齋藤さんにしても、ふつう「にゃ」ばっかりだと飽きるでしょう。こんなにまで描かなくてもいいと思うんです。恐らく、はじめから計画してこうした黒い領域をつくったのではなくて、とにかく「に」の三本線、あるいは「ゃ」の三本線を取り憑かれたように描いてて、気づいたら“向こう側”にたどり着いてしまった、そういう感じではないでしょうか。彼らの作品が見る人の心をギュッと締めつけるのは、多分この点、ひたすら繰り返すことで気が付いたらたどりついてしまった、という点だと思うのです。
ジョージ・ワイドナーのカレンダーにも、そういった繰り返しへの執着が、また別のかたちで表れています。これも変わった作品ですが、まず惹かれるのは、やはり線画で表現された、緻密な俯瞰画です。明らかに、ワイドナーも輪郭線を抽出するのに長けていて、それを埋めていくのが好きだということがわかります。もうひとつ面白いのは、カレンダーの部分です。1 SUNDAY, 2 MONDAY, 3 TUESDAY, 4 WEDNESDAY, 5 THURSDAY, 6 FRIDAY, 7 SATURDAYと順序通りに並んでいますから、一見すると常識的にはどうみてもカレンダーです。ところがよくみると、このカレンダーは、私たちの常識とはまったく異なる論理で書かれています。NOVEMBER 1 2201, APRIL 2 2248, JANUARY 3 2258…というように、ひとつのひとつの日曜日の名のもとに、デタラメな月がリストアップされている。ここにどんな魔術的な、あるいは彼なりの法則性があるのかわかりませんが、非常に面白いのは、数字をカウントすることに対する、根本的な快楽があることです。ふつう私たちが考えるような、1999の次は2000、2008の次は2009、あるいはJANUARYの次はFEBRUARYとか、単なる時系列ではない、ある時間のまとめ方が感じられるわけです。
ダーガーにも共通する特徴ですが、みた目はひとつのカレンダーでありながら、実際はここにぶち込まれているひとつひとつの時間は、それぞれ全く異なる文脈に由来しています。それらが理路整然と並ぶことで、あたかもひとつの空間であるように感じられる。でも本当は、NOVEMBER 1 2022みたいな記号は、本来はそれぞれ個別の文脈を持っている、それらが寄り集まったメガロポリスなんですね。鳥瞰図的に俯瞰すると、一見非常に統制のとれた大都市であるかのように思えるのですが、実はそこに含まれている世界は、ひとつひとつが全然別の世界なのです。
ローザンヌのアール・ブリュット・コレクションを初めて訪れたとき、もう魂を抜かれたみたいに疲れたのを思い出します。あまりにも密度が濃すぎるんです。ひとつの画面に込められた情報量があまりにも圧倒的で、始めは一枚一枚丁寧にみていたんですが、こらあかん、日が暮れる、ということで駆け足になる。すると、見逃した作品の怨霊みたいなものが降りてくるんです。あれも見逃した、これも見逃したって。今日ご覧になった皆さんも、多分2、3時間かけたとしても、あれを見逃した、あのディティールみてなかった、そういうことのオンパレードだと思います。そういう澱みたいなものが溜まってきて、疲労困憊するんですね。私も今日の午前中に展覧会をみて、それなりに疲れたんですが、最近はもう無理もないと思うようになりました。例えばワイドナーの作品にしても、なにも彼は、これを一日や二日で描いたわけではありません。非常に長い時間をかけて、チマチマ描いていったのでしょう。今日は橋の下の船を描こかなぁ、あるいは今日はこの道描こうかなぁ、みたいな調子です。つまり、これは一朝一夕に出来た絵ではなくて、非常に長い時間をかけて、ようやくここまでたどり着いたものなんです。私たちは、それをいっぺんに賞味しているわけですが、この一枚の空間が、実はものすごい時間の集積であることを忘れて、一枚の絵だと思ってみると、すごい焦るわけです。いっぺんに見切れないのも当然で、最近は、また観に来ればいいわ、と割り切ることにしています。
アール・ブリュット=生の芸術というものは、我々がふつうに思う美術の範疇をのり越えてしまっているわけですが、我々が揺さぶられるのは一体何なのか、そのことを最後に、私なりに再考したいと思います。
まず、多くの作り手達が、作品を見せるという行為に対して、不思議なほど無頓着だということ。いま私たちは展覧会としてみているから、これらを美術の文脈でとらえ、「作品」と呼び、そのつくり手を「作家」と呼びますが、本来彼らはそういうことを想定していなかったわけです。ダーガーに至っては、生前、作品を人にみせることなんてまったく考えていなかった。他者にみせる意志が希薄だからこそ、形式にこだわらない。額縁におさまるような四角いフォーマットを意識したり、後世に残すためにしっかりした画材を選んだり、というようなことを全然考えないわけです。とにかく今やっている作業を続けるためには、この画面をどう使ったらいいのか、画面が足りなくなったらどうしたらいいのか、というふうに、目の前の事情に左右されてどんどん逸脱していく。それが非常に特徴的だと思います。しかも、すごく長い時間をかける。私たちが圧倒される一枚の画面空間のなかには、非常に長大な、行為の繰り返しの時間が含まれているのです。
もうひとつの重要なポイントですが、彼らの絵は、放っておけばそのまま芸術になるのかといえば、そう簡単な話ではありません。その絵を、いいなと思って見る立場の人が必ずいる。例えばヘンリー・ダーガーの場合は、大家さんのネイサン・ラーナーが、作品をみて直観的にこれはすごい、これは大変なことだと思って、しかるべきところに相談した、ということがあります。ここが結構重要で、つまりヘンリー・ダーガーという作家、あるいは作品は、ダーガー一人の力では、残念ながら誕生しなかったわけです。ダーガーは自分から作品を誰かに見せる人ではなかったし、見せるべき相手に巡り会うこともなかった。それがいいことか悪いことかはわかりません。とにかく事実はそうだった。作品かどうかわからないようなものを、これは面白い、と思ってみる人がいること、それが非常に重要だと思うのです。
今回の出品作家ではありませんが、今村花子さんという方がおられます。彼女にはごはんを食べたあと、食べ残しを畳の縁に並べて置くという癖がありました。お母さんの知左さんは、始めはしょうがないなぁ、と片づけていらしたそうなんですが、あるとき、どうやら花子さんは残飯をわざと置いてるんじゃないか、と気づかれたそうです。そこで、定期的にそれらを写真に撮りはじめました。ぐちゃぐちゃのもあれば、整然としたものもある。で、何人かに写真をみせるうちに、だんだん「それって、もしかしたらすごいことなんちゃう?」という話になってきた。やがてその写真は展覧会で発表されるようになり、映画にもなりました。
私は知左さんと、あるトークショーでお話したことがあります。印象的だったのは、このお母さんご自身も、いたって作品に対して淡泊なんですね。写真を撮った理由は「面白いなぁ」って思ったからで、撮った写真も最近では引き出しに入れっぱなしだなんておっしゃって、いい具合に力が抜けているのです。
ふつう美術の世界って、画廊に売り込んで、個展で赤札をたくさんつけて、10万円で仕入れたものを20万円で売る、みたいなビジネスの側面がどうしてもあるし、いかに人より目立つか、ということをいくばくかは気にするわけですが、どうもアール・ブリュットの人たちはあんまりガツガツしていないし、それを見つける人もアート・コンシャスとは限らない。ラーナーは写真家でしたから、それなりの心得はあったかもしれませんが、別に評論家でも画商でもなくて、基本的には大家さんです。花子さんの場合もお母さんという、身近なひとが気づいて、直観的に面白いと思って世に出ることになるんですが、それも、そんなにアートアートしてないんですね。
知左さんに、「花子さんが残したご飯を写真に撮って、その後どうされるんですか」って聞いたら、「片付けちゃいます」って事も無げにおっしゃるんです。それが、すごくいいなぁと思うんです。作品をつくっておられる方からすれば、ムッとする話かもしれません。自分がつくった作品が片づけられる瞬間って、イメージできますか? 結構ショックやと思うんですけど。花子さんの「作品」は、写真には撮られますが、片づけられちゃうわけです。でもそこが面白い。つまり、ある表現には必ず終わりがあるんです。ご飯がなくなったらあきらめる。インクがなくなったらあきらめる。そういう、あきらめのポイントがあって、それがいい感じを出してるんです。ダーガーの場合も、描きかけみたいな作品も結構あって、恐らくは紙がなくなったり、インクがなくなったり、突如もういいや、と思ったりしたんだと思いますが、そのあきらめのよさも非常に印象的なんです。
この場でいうのもなんですが、画廊や美術館で取り上げられたものを、私たちは芸術として受容しているわけですが、果して画廊や美術館という制度だけが芸術の場なのでしょうか。それなら、ストリートがそうなのか。果して、一体どこが芸術の場なのでしょう。もちろん画廊や美術館、ストリートなどは、アートが分かりやすくなる場ではあると思いますが、もっと大事なことがあるのではないでしょうか。
そもそも、アーティストってどうやってなるもので、どうすれば「アート」なるものが作れるんでしょうか。美大に入ったら、アーティストになれて、アートが作れるのか。そういうわけでもなさそうです。別に、「美術界で大物になりたいのなら、まずこういう勉強をして、こういう画廊で展示して買ってもらって、学芸員とコネをつくって云々」なんてお決まりの「アーティスト」コースがあるわけでもない。たとえ美大に入っても、誰も教えてくれるわけではなくて、同級生や先輩、先生などからぼんやり教わるだけです。つまり、作家とは何か、作品とは何か、それを成立させるための制度とは何かなんて、教科書には書いてない。現在の社会制度が画廊や美術館をたまたま持っているから、ぼくらはぼんやりとそういう場所にあるものがアートだと思ったりしますが、もしそういう場所に飾られるために作られたのがアートなのだとしたら、ダーガーの自宅にあった絵は、アートでもなんでもないことになります。だから、他人にみせることへの意識の高さは、実は必ずしもアートを成立させるための、必須条件の欠如、とはいえないのではないか。
それでは、アートが成立するためには何が重要なのでしょう。コロンブスの卵みたいですが、それは作者ではない、と思います。つまり、つくり手が「俺がアートをつくってるんだ、俺の作品を買え」というんではなくて、逆ではないのか。その人がつくったものを、だれか別の人が見届けること、それが恐らく、アートが成立するための一番最初の条件なのではないかと、アール・ブリュットを観ていると思うわけです。誰かが、ある人のつくったものをみたいと思ったり、それを取っておきたいと思ったりすること、それがたぶんアートの出発点なのではないか。もし現代芸術を簡単に定義してしまうなら、「ある人がつくったものを他の人がもっとみたいと思うこと」でいいんじゃないでしょうか。こういう考え方は、もしかしたら作家にとってはショッキングかもしれませんが、アール・ブリュットをみていて強く感じるのは、この人たちが自分たちのことをちっともアーティストだと思っていないという、その意外さなのです。