大正十二年九月一日午前十一時五十八分関東地方に未曾有の大地震起り地は亀裂を生じ家屋は倒壊し次で東京市内八十余箇所に火災起り一面に火原と変ず折柄風勢強烈にして旋風を起し水道又断水消防に術なく逞しき猛威に任するのみ消失家屋三十余万戸死者七八万人負傷者に至りては幾万なるや莫なし火焔に包囲せられ叫声を揚げ親に離れ子を失ひ一家離散し身を以て免れ互に安全なるを喜ぶのみ其悲惨極り無く戒厳令を布かれ救護軍隊は不眠不休にて活動し京橋浅草、日本橋、下谷、芝、麹町、神田、本所、深川の各区は見渡す限り一面の焦土と化し惨害甚大なり
浅草公園六区の興業街は月初の遊覧日の事とて象徴より殷賑雑踏を極め居たるに大震災突発の為観覧者の狼狽一方ならず著名なる十二階の建物は中央より破壊し続て火災起り折柄の強風にて火は忽ち花屋敷へ延焼し園内の動物類は夫れぞれ避難を成さしめたり猛火は益々盛にして右往左往に混乱する避難者は名状すべからずあたら遊覧地も興業建築物と共に烏有に帰し惨怛たる焼野原と化せしめたり
大正十二年九月二十七日印刷
東京市浅草区公園第五区三番地 天正堂 土屋傳
東京市浅草区駒形町五十一番地 集画堂 宇田川安高
古書店のカタログを観ていて、見覚えのある石版画を見つけた。外骨の『震災画報』に載っていた、あの石版ではないか。というわけで、外骨が「版面が朦朧暗黒で判明しない」としながらあえて掲載した石版画のひとつを買い求めた。
震災画報に掲載された図では左上がつぶれて何が描かれているか判然としないが、原画を見るとそれは瓦解した十二階であることがわかる。
図絵の両側には解説が刷り込まれている。上の文章がそれだ。ただの石版絵ではなく、画して報じる「画報」であることがわかる。さらに画作した人物の住所はと浅草公園五区つまり花屋敷付近となっており、浅草公園六区の惨状を伝える文章はただの伝聞でなく、いかにも当事者の書いたものと思わせる。
画面の色は炎の赤を強調しており、明治維新以降の開化絵に見られる赤を思い起こさせる。外骨言うところの日清戦争式で、「刺激の強い毒々しい濃厚の彩色」となっている。
花屋敷から逃げ出している象がとくに異様だ。象を引く人、こけつまろびつする人々という構図は、明治期の浅草公園火事の図像を思い出させる。これもまた、外骨言うところの「旧時物の復興」といえるだろう。
毒々しい描写ゆえに、外骨はこの石版画をあえて「朦朧と」掲載した。しかし、その細部に踏み込むと、そこには意外な表情が見いだされる。明治期の版画とは異なり、人々の表情はいたって漫画的なのだ。めらめらと上がる炎を描く一方で、、描き手の描線は人々の顔に松葉のような口をそそくさと描き入れていく。災害をリアルに描かねばならないという死のふるまいの中にあって、描き手は生き急いでいる。いかにも悲惨な赤よりも、この顔たちにぼくの目は引き寄せられる。