図は、宮武外骨の『震災画報』に収められたもので、関東大震災後に流布した石版画を掲載したもの。なにやら朦朧とした画像だが、これはスキャナのせいではない。『震災画報』の図がもともとが相当朦朧としている。外骨はこうした石版について以下のように記している。
大震災の写真は、絵葉書、雑誌、単行本等に、同種異種のものが凡そ三百余も出たが、其中に一種の異彩を放つた俗画は、彩色石版の大判絵である、明治二十七八年頃、日清戦争の当時多く出来た式のもので、これも「旧時物の復興」の一であらう、刺激の強い毒々しい濃厚の彩色であるから火事跡見物に来た無学無知の田舎漢には格好の土産物として多く売れたらしい
復旧物として奇異な絵であるから、試に二葉を写真版にして掲げる事にした、アマリに彩色が濃厚なため、版面が朦朧暗黒で判明しないが、一尺五六寸位隔てて熟視すれば幾分かオモカゲが見える筈である
(「石版印刷の彩色絵」 宮武外骨『震災画報』大正一二年より)
外骨は、「版面が朦朧暗黒で判明しない」のを承知で掲載している。どういうわけだろう。
『震災画報』には、石版画の写しや写真も掲載されているが、目を引くのはむしろ、あちこちのページに描かれている挿絵だ。挿絵は、石版画や写真よりもむしろ線が判然としている。挿絵は簡略であるがゆえに、描いた者が何にとらわれてその絵を描いたかがはっきりわかる。そこに嘘が入っていたとしても、見る者は、何がその嘘を導いたかを追うことができる。
いかにも惨事を惨事として克明にあらわすメディアでは、作者の作為が見えにくくなる。「火事跡見物に来た無学無知の田舎漢」をたやすくとらえてしまう。簡素なメディアでは、誰が何を伝えようとしているかがはっきりする。メディアの作為がはっきりしているからこそ、逆に信頼に足るメディアとなる。外骨は、そうした簡素なメディアに信頼を寄せる。
毒々しい石版画に対する外骨の冷淡な態度は、こうした感性によるものだろう。
外骨の、メディアに対する逆説的態度は、彼が新聞から再掲載した次の川柳にもあらわれている。
絵葉書は少し火を書き煙を書き
これはいったいどういう意味なのだろう。喜多川周之の次の記述がそれを説明してくれる。
復興途上の市内は人の往来が激しく、その往来する人びとを写した印画に、渦巻く火災や黒煙をモンタージュした絵葉書もある。人の表情に気忙しさはあっても、恐怖や苦悶の色はみられない。惨禍を想起させようとする微笑ましい創作なのである。」
(喜多川周之「絵葉書にみる関東大震災」/『カラーグラフィックス昭和史I』研秀出版)
喜多川氏の書くとおり、こうした工夫は「微笑ましい」。しかし、それを単に稚拙な工夫ととらえてはいけない。「火」や「煙」は、描き足されたことがすぐにわかる分、メディアの形をあらわし、メディアを介して何かを伝えようとする人々の存在を生々しくあらわす。
むしろ、あちらこちらの惨状に注意を惹かれるまま映し出してしまう現代のTVカメラこそ、じつはメディアのもつあざとさを覆い隠し、誰が何のためにその映像を送りだしているかを覆い隠してしまうのだ。TVを通じて、より生々しい震災の光景を知っているつもりの私たちは、じつは大正期の人々よりも、よほどメディアに鈍感になっているのではないだろうか。
メディアを透明にしないこと。メディアを可視化すること。そのことで得られる生々しさを、外骨の『震災画報』や震災絵葉書は繰り返し思い出させる。
震災時を描いた絵葉書。十二階はまさに崩れ落ちんばかりに破片を飛び散らせている。写真ではありえない表現だ。左下の囲みには往時の浅草六区が描かれておりいっそう震災の激しさが強調されている。こうした「震災前/震災後」を一枚に収めた絵葉書も数多く販売された。
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