喜多川周之著作一覧(1)


「浅草寺文化」(第1-10号)


喜多川周之「十二階ひろい書き」(「浅草寺文化」第1号、昭和三八年)

石井柏亭の浅草富士話。高村光雲の大仏の話。十二階株式会社は昭和十七年に創立三十年を祝賀して記念の「そろばん」を配ったという。(巻頭図版:バルトン(小川一眞撮影)、創建当時の十二階(江木松四郎撮影)、明治三十年頃の十二階(江崎礼二撮影))

喜多川周之「凌雲閣十二階の周辺状況」(「浅草寺文化」第2号)

ウォートルスによる煉瓦導入。仲見世の煉瓦。明治初期の浅草奥山。この号にバルトンの写真集からの写真引用あり。

喜多川周之「十二階建設前の建設契機(一)」(「浅草寺文化」第3号)

風俗画報(明治三十年)記事の検討。吾妻橋。浅草富士への送電。真木痴嚢「東京繁華紙取写真」。
(巻頭図版:開業日の凌雲閣(梅田静吉撮影)、凌雲閣の正面(梅田静吉撮影より拡大)、明治二七年の改修以降露台はない

喜多川周之「十二階建設前の建設契機(二)」(「浅草寺文化」第4号)

大阪の五階と九階。この号に、十二階建設中の写真(組み上げ中のもの、十階までの建設途中のもの)あり。十階の予定が十二階に? 建築学会「第二回明治建築座談会(昭和七年六月)。鳥海たゑ氏の証言(バルトンの意図がうまく伝わらなかった?)。
(巻頭図版:バルトン(小川一眞撮影)、凌雲閣の基礎工事(江崎礼二撮影))

喜多川周之「浅草公園(一)」(「浅草寺文化」第5号、昭和四十年)

ひょうたん池追慕。明治十五年の火除け地の埋め立てと公園の誕生。

喜多川周之「浅草公園(二)」(「浅草寺文化」第6号、昭和四十一年)

公園の奥山時代。松本喜三郎の生人形。江戸末期の奥山。
(巻頭図版:凌雲閣上より奥山を望む(江木松四郎撮影))

喜多川周之「浅草公園(三)」(「浅草寺文化」第7号、昭和四十一年)

浅草勧業場と吾妻座開場。後藤庄吉郎、江崎禮二らの私費による公園開発。水上自転車。吾妻座。

喜多川周之「浅草公園(四)」(「浅草寺文化」第8号、昭和四十一年)

奥山閣の誕生。四層楼の持ち主。その移転。「凌雲閣」の命名と扁額の筆は福地桜痴では? 奥山閣の扁額は勝海舟。屋上の鳳凰は、神田明神の祭礼に使う神田雉子町の雉子の改変。
ここまで、「十二階ひろい書き」連載。
(巻頭図版:丸山家庭園の四層楼、園内改良一周年の花屋舗正門(明治世相百話より)

喜多川周之「久保田万太郎先生の『十二階』」(「浅草寺文化」第9号、昭和四三年)

「仲見世今昔」の座談記事。十二階開館当時の混乱、引き札には日付のあるものとないものの二種類あった。永井久一郎とバルトン。十二階の裏門の写った爆破写真。
(図版:大正2年の幸龍寺境内(現国際劇場)左端に十二階)


網野宥俊・喜多川周之編「浅草寺明治百年史年表」(「浅草寺文化」第9号、昭和四三年)

上段に浅草寺関連、下段に浅草関連の詳細な年表。出典付き。


喜多川周之「明治33年 浅草大通り両側一覧 その一 浅草橋より雷門まで」(「浅草寺文化」第10号、昭和五〇年)

「東京営業便覧」(博報堂)から。当時の大通り沿いの業種、店名を詳細に列挙。




「浅草」


喜多川周之「隅田川の渡し場」(「浅草」第32号、昭和四八年八月)

喜多川周之「五重塔で高見の見物」(「浅草」第35号、昭和四八年一一月)

喜多川周之「汗かきスタンプラリー」(「浅草」第50号、昭和五〇年二月)

喜多川周之「隅田川の一銭蒸気」(「浅草」第102号、昭和五四年六月)

喜多川周之「夜鳴きの鶏」(「浅草」第116号、昭和五五年八月)

喜多川周之「心の中の芝居の碑」(「浅草」第121号、昭和五六年一月)

桂米丸・喜多川周之「浅草を愛すればこそ・・・」(「浅草」第96号、昭和五三年一二月)

NHK「おていちゃん」の風俗考証の話題など。

桂米丸・喜多川周之「昭和の浅草写真集を出版」(「浅草」第131号、昭和五六年一一月)

「浄化の浅草」、大いちょう、川、地下鉄ビルの五階など。





浅草関係本


喜多川周之「奥山から十二階へ」(「増補新訂浅草細見」昭和五一年、浅草観光連盟)

喜多川周之「浅草十二階の崩壊」(「グラフィックカラー昭和史1」昭和五二年、研秀社)

エレベーターの入口写真など。

喜多川周之「浅草十二階とバルトン」(「浅草双紙」昭和五三年、浅草の会)

六区上空写真絵はがきなど。

喜多川周之「凌雲閣」(「浅草六区 −興行と街の移り変り−」昭和六二年、台東区教育委員会)





その他


喜多川周之「石版画工」(画・文とも、『太陽』昭和四六年、平凡社 p72-76)


「歴史読本」絵はがき近代史 ->(2)を参照


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