戦争は文化を破壊し文化を生むというが、たしかに日清・日露の戦争時代に手引きの石版印刷機が動力化されています。そして新しい職業として印刷画工が登場しました。手版印刷の亜鉛原板に、原稿どおりの画や文字などを描き写しする、今様人間製版カメラですよ、といっても今ではとっさに理解してもらえることは多くありません。大川向こうの両国駅と国技館に近い川村画板所は小泉町から東両国三丁目と住居表示が変わり、その頃には新米の画工も後輩を得ることができました。現在でもこつこつと進めている、浅草の遊覧塔、凌雲閣十二階の事蹟の追跡は、その年代から始まったものです。それは砂目石版の感触に、さらに明治の色を代表する赤煉瓦の色が溶けこんでいった、幻への憧れかもしれません。また、三三〇万の赤煉瓦の一つ一つを、十二階が公称した二二〇尺(六七m)の高さにまで、職人が手ぎわよく小まめに積み上げてゆく、根気というものの尊さが、心をそこへ引き寄せているのでしょうか。煉瓦積みの道を歩んだ人も、画板の道をゆく者も、その仕事が手工であることも変わりありません。
喜多川周之(きたがわちかし)氏は明治四四年東京生まれ。石版画工を経て、「浅草寺文化」「浅草」など数々の雑誌や単行本に寄稿、資料提供をするとともに、NHK「テレビロータリー」のレポーターや「おていちゃん」の風俗考証など、郷土史家として幅広く活躍した。(なお、喜多川氏の人がらに触れた文章としては、佐藤健二「風景の生産・風景の解放」(講談社選書メチエ)がある。)
「凌雲閣」は『浅草六区』(台東区文化財調査報告書第五集、昭和六二年)に収められたもので、ここでは石版画工であった喜多川氏の思いの記された部分を引用した。
浅草文庫で浅草十二階の話について尋ねたときに、館員の方から、最初に紹介されたのがこの文章だった。そのときはまだ、氏の「十二階ひろい書き」(浅草寺文化)も、江戸東京博物館に喜多川周之コレクションとして収められている数々の絵葉書や十二階の図像も知らなかった。残念ながら、ぼくが遅まきながら十二階に興味を持ち始めたときには氏は亡くなられたあとだった。
氏の文章には、未だぼくの至ることのできない十二階があちこちにあって、それは、通り過ぎてしまったあと、あれ、と気がつくような書かれ方でさりげなく立っている。砂目石版の時代を空気のように呼吸してきた氏は、その空気を愛おしむための手がかりだけをそっと置くように、控えめなことばを用いている。
十二階の資料をひっくり返すうちに何かと何かが照合し、新発見をしたような得意な気になるのは、ぼくが氏と違って、その空気にまだ触れえていないからだろう。氏の文章を読み直すと、その新発見だと思ったことが、織り込まれたことばからほどけてゆっくりと漂い出しているのに気づく。(2001 May 30)
喜多川氏の十二階関連文献のページを追加した。(2001 July 30)