大正元年、朝日新聞に入社した岡本一平は、挿絵に簡単な文章を添えることで独特の諧謔を出すスタイルを編み出した。のちに「漫画漫文」と呼ばれるこのスタイルによって、一平は、夏目漱石に絶賛され、一躍有名になることになる。上の挿絵はその初期の頃のもの。
一平は大正期に、かつて十二階演芸場に出演していた梅坊主の一座でかっぽれを習っていたこともあり、どこかしら十二階的気分に縁のある人だ。
挿絵では、いかめしい陸軍隊員が、田舎者と子供が市内見物に上る十二階で、軍の威信をかけた試験飛行を観測している。取り合わせがおかしい。その観測が、投身自殺防止用に設けられた金網ごし、というところも細かい。画面右下から「馬みち」、中央に「よし原」、その向こうに「南千住」とあり、お化け煙突も見える。東京の空は広々としている。
挿絵の描かれた大正二年は、日本陸軍の航空史の揺籃期にあたる。操縦士の長澤中尉は陸軍の第一期操縦将校。『日本航空史』によると、モーリス・ファルマン式1913年型(「モ式」)は、同じ第一期操縦将校の沢田秀中尉が買い求めたもので、前方に突き出た方向舵の恰好から「ちょんまげ」ともいわれ、また大きくて鈍重なところを諷して部内では「からす」と呼ばれていた。
この年、日本各地でさまざまな試験飛行が行われる一方、故障や事故も多かった。つい前月の五月四日には、民間飛行家の武石浩玻が京都深草で着陸に失敗して殉死した。また、三月には徳田・木村中尉が墜死しており、一平はその遺骸室の様子を朝日新聞(大正二年三月三十日)の挿絵に描いている。
実は一平が十二階の上を描いたのは、これが初めてではない。同じ年の二月、彼は「寒い商売」という題で、十二階の双眼鏡貸しを描いている(朝日新聞、大正二年二月二日)。絵には、明治四二年に設置された投身防止用の金網が描かれ、そこでは遠眼鏡貸しが「天辺の吹き晒しの室に遠眼鏡を片手間に貸しながら飛下り自殺などを図る不心得者の版をしている。」と記されている。
つまり、「十二階より観たる飛行機」は、二月に描かれた十二階の金網(「寒い商売」)と三月に描かれた飛行機事故(「飛行機惨事 −両大尉の遺骸室−」)という二つの墜落をめぐる記憶の上に、危うく浮揚しているということになる。
一平の描く機影はやけに小さく頼りない。飛行機は十二階よりもさらに高みを飛んだが、その高さはまだ危うかった。
2002 April