「梅坊主数奇伝」

「うきよ」第六五号〜六七号、大正七年一月〜三月)より



 抑(そもそ)もかつぽれ踊りは願人(ぐわんにん)の事から話さねばなりません。
 この願人といふものが何か徳川将軍に御訴訟を申して御扶持を頂だきたいといふので数十人の坊主どもが徒党して江戸表へ出府して時の町奉行所へおうそれ乍らと願文(ねがひぶん)を奉つた処が、町奉行ではどういふ都合であつたのか、多数徒党の訴訟など以ての外だと願文を受付けない、其処で此の坊主どもゝ大いに閉口して神田の橋本町や、芝の新網辺の裏長屋へ籠城して、飽くまで訴訟の上奏を迫つたのですが、奉行所でも田舎坊主の処分に当惑して、終に彼等を説諭して、上野寛永寺へ依頼して、庭掃除人に召抱へてもらうことになり、願人どもゝ追々の貧窮に迫られて、或ひは『山猫まはし』になり、『お釈迦まはし』となり又は奉加坊主になるなど頗ぶる悲惨の境界に陥つたので、即ち願人と呼れたのは其の時からでございました。
 今の梅坊主の親父といふのは元は春木春道と呼れた和尚であつて、願人中の頭目と推された男、文筆にも長じ易学にも達して、蔵前の八幡社内に出張所を設けて吉凶禍福を占ふて居たのでございます、春道の倅を平太郎といひ、次男を梅八と呼んで、目下公園の御園座に妙芸を御覧に入れてゐるのが梅坊主その者でございます。
 その頃兄の平太郎は一寸小唄も出来る、手踊りもやれるといふので、同気相集つて、所謂暢気者の一団は道化芝居を組立て大いに江戸八百八町の暢気社会を驚かしてやらうといふ相談を取極めました、乃はち是れが、『かつぽれ一座』の元祖(はじまり)でございます。
 当時の一座の顔触れを記して見ますと、興行元とも謂ふべきは平坊主の平次郎、次に座頭ともいふべきは太閤の藤吉、首筆(かきだし)どころは初坊主の滑稽役者、中軸(なかじく)どころは八卦(はつかけ)の重吉、次はけし面の藤吉、南京米の米吉、和藤内の鬼松、これに地方(ぢかた)としておきんとおせをといふ汚なごしらへの年増女の三味線弾きを加へて総勢八人、これが一芸団と成て毎朝八時過るころには、挿絵の写生絵のやうな住吉傘の萬燈の柄を打ち鳴して
 『アヽやイとこせイ、よいやな、ありやりやこれわいせー、さゝよいやさア』
と鬨の声を揚げて繰込んでまゐります、先づ前芸(まへげい)の序(じよ)びらきとして、
『住吉さまの岸の姫松お目出度や』
と平坊主(へいぼうず)が唄ひ出すと、一同これに和して、萬燈傘の柄を叩いて、手に反故張の渋団扇を以て拍子をとつて、暢気に囃子立る、彼等の扮装(いでたち)は挿絵に見るやうに白木綿の行衣(ぎやうい)に紺の腰衣をつけて、豆絞りの手拭で鉢巻きして、四ツ竹拍子を合して面白く囃す、これが即はち住吉踊りの元祖(はじめ)であつて、昔し住吉神社で蟲追祭(むしおひまつり)といふ神事が、毎年一回づゝ此儀式を行ひ、土地の若者どもが皆な白無垢に腰衣を着け、この蟲追踊りを踊つたのが此の濫觴だといふことであるが、或る一説には、彼の紀伊国屋文左衛門が紀州から蜜柑を江戸へ送る海上、鳥羽浦にて難風邪に逢ひ多勢の舟子等は九死の中に一生を得た欣喜(よろこび)の余り、江戸へ着いた時、酒を祝つて、唄ひつ踊りつ興じたのが、即ちこのかつぽれ節で、平坊主らが之れに倣ふて、住吉大明神の萬燈傘を作り、坊主姿に擬して、終には深川節、道化芝居などの滑稽芝居を演ずるやうに成つたのだと申します。
 さてその手をどりと道化芝居の種類を挙げて見ますと、第一が住吉踊、豊年をどり、深川をどり、桃太郎、棒づくし、かつぽれをどり、道化芝居はおもちやの鬘を冠り、紙張りの大小をさして、神機妙変一同抱腹絶倒のこしらへを為(し)て、縦横無尽に大滑稽の喜劇をいたすのでございます、彼等は是れをピンと称してをる、其の名題は、化地蔵、三人猫、宝蔵やぶり、夏祭り、二人奴、日高川、梅ヶ枝、お半長右衛門、出家のよし原通ひ、弥次喜太忠臣蔵、二人隠し芸、羽織の隠し芸等で、一人で、踊るのを一人踊り、二人で踊るのを相惚れ、三人で踊るのを三足、四人で踊るのを四羽雀、五人で踊るのを五葉の松、六人で踊るのを陰陽(かげひなた)といひ、又た一人をどりの中に石投げ、車返し、もぢり、友返し、などゝいふ難しい芸がございました。



 雑誌「うきよ」に三回にわたって連載された「梅坊主数奇伝」から。
 梅坊主もまた、十二階にかかわりのある人物で、十二階演芸場が開場した明治四四年当時、連日かっぽれを披露していた。後に十二階に登り、朝日新聞に十二階マンガを描いた岡本一平は、その芸に魅せられ、梅坊主一座に弟子入りすることになる。

 上に挙げたのは、連載第一回の冒頭。かっぽれの成立には諸説あるが、この文章はわかりやすく記されていて、また、かっぽれ一座の諸芸の名称が細かく書かれている点で興味深い。
 たとえば「吉原がよい」には「出家の」という但し書きがついている。単なる吉原がよいの話ではなく、坊主頭で吉原がよいという滑稽であったことがここからわかる。そういえば、渋沢青花「浅草っ子」には、滑稽談の最中に「ぶたれる男のほうはかならず坊主頭をしているので、きいた耳にはいかにも痛そうにひびく」とある。かっぽれ一座は、坊主の落魄を坊主頭で笑いへと転ずる芸、もっと言えば、明治によって屈曲させられた江戸の坊主芸だったのではないだろうか。

 このあと、本文は平坊主、梅坊主の行状を紹介していく。その内容をざっと記しておこう。

 平坊主一座は両国広小路で評判を採るようになり、明治三年には猿若町の興行で、彦三郎、菊五郎、らの大一座に取り上げられることになり、平坊主は黙阿弥に所作を教える。その平坊主は、二九才(三三才という記述も他にある)に亡くなり、太閤の豊吉が一座を率いるようになる。梅坊主は平坊主の生前から一座に加わったものの、明治六年、虎松と喧嘩の末に一座を除名され、やはり願人坊主であった西田の一座に加盟、新作阿保陀羅経を生み出す。(この間、明治一九年の「初霞空住吉」の上演に関する記述が抜けているのは、これが梅坊主ではなく、初坊主の指導によるものだったからだろうか)。

 水天宮前で手打ちをした両国の豊吉一座、梅坊主の一座は、ともに評判となり、やがて深川を皮切りにあちこちの寄席に出演するようになる。しかし、寄席芸人の反発も激しく、やがて寄席興行を断念、両国組は吉原廓内を根城に、梅坊主は芝から日本橋を根城とし、縁日ごとに小屋崖の興行を行なうようになった(この、廓内を根城というところが、幇間芸としての「かっぽれ」のありようを忍ばせておもしろい)。

 豊吉一座は浅草公園六区に見世物小屋を出し、後に梅坊主も開場して互いに競争した。その後豊吉の一段の仲間割れが起り公園を退き、梅坊主は京阪地方へ巡業する。

 明治二六年の桑港の(正しくはシカゴだろう)大博覧会に招かれ、洲崎遊郭の幇間桜川長孝を取締役として、豊吉と梅坊主はアメリカに渡る。ここでステテコ踊りでひんしゅくを買いつつも、西洋人の弟子もでき、めでたく海外興行を成功させるという話で連載は終っている。随所によいやなのかけ声もおもしろおかしく調子よく、かっぽれ芸の気分が漂ってくる内容。

 浅草のかっぽれに関しては、渋沢青花「浅草っ子」(毎日新聞社)に明治三十年代の浅草公園での興行の様子がくわしく回想されている。
 また、かっぽれ全般に関しては、二代目桜川ぴん助「かっぽれに惚れた」(朝日ソノラマ)、平岡正明「大歌謡論」(筑摩書房)などが参考になる。録音では、最近、明治三六年の梅坊主初のレコーディングをおさめた「日本吹込み事始(ガイズバーグ・レコーディング)」(東芝EMI)が出た。  以前、大道芸レコードから豊年斎梅坊主のCDが出ており、これにかなりの資料が入っているはずなのだが、買い逃したまま品切れになってしまった。内容をご存じの方、ご一報を。

(2001 Dec. 23)

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