文明といえばもう一つ文明的なものがあった。写真機を売る商人である。写真機といっても、今日見るような高級品ではない.橙色に塗った簡単な暗箱に単玉レンズを取りつけ、うしろの乾板をさしこむところは、むきだしのまま入れて蓋をする。シャッターもなければ絞りもない。蓋をとって「一、二、三」と、約一秒間のタイムを計るだけの簡単なものだった。それを洋服姿の男がいとも簡単に実演して、しかもその場で現像して見せていた。
子供たちにとって、こんな誘惑はない。その写真機の価は、わずか五十銭だった。わたしはそれを買ってもらって、いそいそと操作にかかった。もちろん暗室などないから、蜜柑箱に黒い布をかぶせ、頭を突込んで、乾板の出し入れはいうまでもなく、現像もおこなった。まず第一に撮影したのが、瓢箪池を前にした十二階だったが、現像してみると、画面のまんなかに、高い塔が白く、黒くあらわれてきたので、嬉しくてならなかった。
明治の浅草について記した本は数多いが、なかで何度も読み返す本の中に渋沢青花の「浅草っ子」がある。明治三十年代前半に浅草の少年だった筆者の回想を記した本なのだが、この本が他の本にくらべて抜きんでているのは、少年期の回想が仔細にわたっていること、それも、単に事物の回想に終るだけでなく、明らかにこの人の体が動いた結果それが記憶にとどまったのだなと思わせるところにある。だから、明治期をまるで体験していない私にも届く。
上にひいたくだりでも、蓋を取るしぐさや黒い布につっこまれる頭から、写真の本質的な魅力、すなわち箱におさめること、像が現われることの魅力が、それこそ塔が現像されていくように立ち現われてくる。
「わずか五十銭」とあるが、これは正式な写真機に比べれば安いということで、五銭で大人が見世物小屋に入れた時代のことだ、子供にとってけして「わずか」な金額ではなかっただろう。たぶん今でいえば五千円くらいの感覚ではないだろうか。これを手に入れた渋沢少年の喜びはいかばかりだっただろう。
どこを開いても楽しい本なのだが、試みに、明治三十年代の少年の多くがしていた「めくら縞のかくし」の部分を引いておこう。
「前掛の右上の端に、かくしの口がついていて、そこからお金を入れると、お金は前掛の底に落ちて、歩くとその重みが足にあたって、ちょっと好い気持のものだった。お金をつかいきって、前掛が空のときは、ただふわふわとひるがえって、心さびしかったのである。」
この「かくし」の揺れ! 私はかくしのある前掛けをまとったことはないけれど、それでも、大きな袋の底に落ちたわずかな重みがときどき体にあたる「好い気持ち」は分かる。小さくて重たいものを袋に入れてそれを揺らせたときの心地よさ、というのは、たぶんどんな時代の子供も体験したことがあるものだろう。
袋に入っているがゆえに、その重みのぬしは外からは見えない。でも、袋を下げている自分だけは、その正体を知っている。重みのぬしは、袋が揺れ、体にあたるたびに、この重みはわたしだよわたしだよと、秘密の信号を自分に送ってくれる。「浅草っ子」は、そんな少年の秘密を、こっそりと打ち明けてくれている。
口絵写真は喜多川周之の提供によるもので、十二階の姿も収められている。挿絵は渋沢青花の同級生でもあった鴨下兆湖。見返しには明治三十年代から四十年代にかけての浅草の見世物や店舗名が詳細に書きこまれた地図があって、久保田万太郎の文章を読む時に大いに参考になる。
(2001 Dec. 23)