久保田万太郎の「雷門以北」は、浅草の昔の地名に疎い者には必ずしも読みやすいものではない。その文章は、固有名詞につぐ固有名詞の連続である。それは記憶について書いた文章というよりも、名を呼ぶ文章であり、召喚の呪文である。
呪文の意味を解いても呪文の効力は失われないだろう。だからわたしは安心して、それらの固有名詞と地図とを照合してみる。
・・・・・・広小路は、両側に、合せて六つの横町と二つの大きな露地とをもっている。本願寺のほうからかぞえて右のほうに、源水横町、これという名をもたない横町、大風呂横町、松田の横町、左のほうに、でんぼん横町、ちんやの横町。− 二つの大きな露地とは「でんぼん横町」の手前のさがみやの露地と浅倉屋の露地とをさすのである。− 即ち「さがみやの露地」は「源水横町」に、「浅倉屋の露地」は「名をもたない横町」に広い往還をへだてゝそれぞれ向い合っているのである。
(『雷門以北』/「大東京繁昌記・下町編」平凡社ライブラリー)
明治40年の浅草公園地図は、おそらく万太郎がすごした幼年時代と少しく異なる浅草を示してはいるが、広小路を歩きながら、右に左に横町を数え、露地を想起する手がかりにはなる。また、浅倉屋露地に入り、北に「でんぼいん」へ、そこから仲見世に抜け、そばの「万屋」から仁王門を抜けて浅草小学校へ抜ける彼の足取りを追うにも役に立つ。私は地図を見ながら「雷門以北」を読む。小学校は遠く、さまざまな道草がこちらを呼んでいる。地図の白い部分はもはや白ではなくなる。呪文はますますその効力を増すようである。
毎日、わたしは、祖母と一しょに「馬車みち」−その時分まだ、東京市中、どこへ言っても電車の影はなかったのである。どこをみても「鉄道馬車」だったのである。だからわたしたちは「電車通り」という代りに「馬車みち」といった。東仲町のいま電気局のあるところに馬車会社があった−を越して「浅倉屋の露地」を入った。いまよりずっと道幅の狭かったそこは、しばらく両側に、浅倉屋の台所口と、片っぽの角の蕎麦屋の台所口とのつゞいたあと、右には同じく浅倉屋の土蔵、左には、おもてに灰汁桶の置かれてあったような女髪結のうちがあった。土蔵のつづきに、間口の広い、がさつな格子のはまった平家があった。出羽作という有名なばくちうちの住居だった。三下が、始終、おもてで格子を拭いたり水口で洗い物をしたりしていた。− ときには笠をもった旅にんのさびしいすがたもそのあたりにみられた。
(『雷門以北』同上)