渡辺直己の歌と日記(その2)

細馬宏通

2.
 渡辺直己は、次の有名な歌で広く知られています。

頑強なる抵抗をせし敵陣に泥にまみれしリーダーがありぬ
(アララギ』昭和13年1月号)

 これは昭和13年1月号に掲載された、直己の従軍時代に作られた歌です。「リーダー」とは、英語の授業で使う教科書のことです。作り手の体験を表しているようですが、日記の日付と照合していくと、これは実は直接の体験ではないことが判ります。直己が出征先の中国に着いたのは11月27日、実際に戦闘を体験したのは1月のことです。アララギという雑誌は投稿した翌々月に掲載されるといいますから、その体験は、早くとも3月号以降にしか反映されなかったはずなのです。
 実際、前の号の『アララギ』には、習作と思われる次のような歌が、伝聞形で書かれています。

頑強なる抵抗をつづけし敵陣にリーダーがすててありたりと云ふ
(アララギ』昭和12年12月号)

 一方で、体験ではなかったにしても、このエピソードには、渡辺直己の心を揺らせるだけの力があったことは伺えます。直己は徴兵前、呉市立高等女学校で国語を教え、呉英語学校(夜間)で教鞭をとっていました。英語教員でもあった直己にとって、「リーダー」というのは彼の感性に深く食い込むことばであり、彼自身の教師体験、そして彼の教え子のことを想起させることばだったはずです。おそらく彼は出征の直前にあってこのエピソードを伝え聞き、「リーダー」に激しく動揺したのではないか。まだ見ぬ戦地で、敵と味方としてまみえる人間関係の上に、教師と生徒との間の感情が重なるかもしれない。そんな場所で本当に戦うことができるのか。そういう動揺です。
 この歌は1月号でさらに推敲され、「抵抗をせし」「リーダーがありぬ」という目撃譚として書き換えられます。「すててありたり」は「ありぬ」とされ、まだ使われていたかもしれない温かさが、そこに加わっています。戦闘に向かい、なお、敵との関係に自分に近しい者との関係を重ねようとする覚悟が見えるようです。
 ここで、わたしは、歌作を体験に基づくものにすべきかどうかについての是非を論じたいのではない。このような心象を出征前に持っていた歌人が、戦闘によって、どのようにその歌作を変容させられていったか。そこを考えたいのです。幸い、直己は毎月、雑誌『アララギ』に投稿を行っており、掲載された歌に関しては作歌の年月をおおよそ推測することができます。それと日記とを照合しながら、彼の変容をたどっていこうと思います。

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