戦前には全国あちこちの境内などで「のぞきからくり」の見世物があった。これは、いくつものレンズを備えた巨大な箱状のものに、子供たちがとりついて、交替するおどろおどろしい絵を覗くという見世物で、かならず香具師が横で竹の棒などを打ち鳴らしながら「覗き節」「からくり節」と呼ばれる口上を述べて絵を説明するのがならわしだった。
竹の棒を叩きながら調子よく唄われるのぞきからくりの語りは、人々が容易に口ずさめるほどに広まった。落語「くしゃみ講釈」の中には、物覚えの悪い男が「八百屋お七」のからくり節に乗せて買い物の内容を覚えるというくだりが残っており、全盛期のからくり節の流行のほどが伺える。
のぞきからくりは各地の縁日の盛り場、社寺の境内でよく見られたが、活動写真の流行とともに衰退し、昭和9年(1934)になると、覗き屋の盛んだった大阪とその周辺でさえ神戸、大阪、兵庫にわずかに4軒(河本 1934)という状態であった。戦後に撮影された小津安二郎の「長屋紳士録」(1947)で、笠智衆と飯田蝶子がのぞきからくりの歌を「懐かしい」芸として披露する場面があるが、この時分にすでに、珍しいものになっていたことが伺いしれる。昭和55年(1980)に大阪天王寺を中心に活躍していた黒田種一氏が引退したのを最後に、覗き屋による興行はほとんど見られなくなった。かつての覗き屋の口上は小沢昭一による「日本の放浪芸」の記録で見聞できる。また、新潟県巻町には、覗きからくりの箱と絵が保存されており、現在でも保存会の方による口上の再現が行われている。
愛荘町の有線放送アーカイヴの中に残っているのは、明治生まれの古老が赤穂浪士の「覗き節」を思い出して歌う録音である。これは、覗きからくりの基本資料である河本正義 (1935/1993) 『覗き眼鏡の口上歌』にもないもので、記憶に基づくものとはいえ、音声とともに残されているのはたいへん珍しい。語り手がかつて多賀神社や愛知川などで覗き節が見られたことを証言していること、こうした覗き節が、語り手のようにそれを子供時代に享受していた人によって克明に記憶されている点も興味深い。以下、清水忠次郎さんの語りと唄を文字にしてみよう。
「いまは若い者にはちょっと向きが悪いかもしれませんが愛知川とか、お多賀さんで香具師が非常に歌った、覗き節というのがございます。これから、下手ではござりますが、ちょっと真似方だけさしていただいて、みなさんにその昔の思い出を考えてもらいたいと思うのでございます。ええ、さっそくはじめます。」
ころは元禄十四年
しゅがや宵のなかばごろ
七重八重咲く九重の
花の都の空よりも
勅使が幕府にご到着
さてもその日のまかなえやくが
たくみのかみ
ししょうはばんたる上野(こうづけ)に
まかないそできんなきために
あれやこれやの手違いを
受けてこうむる身の恥辱
おのれやれとははられども
殿中でやいばを抜いたなら
家は断絶
身は切腹
死するこの身は厭わねど
残る家中が不憫ぞと
こらえこらえた十四日
こともあろうが、松の廊下のいりぐちで
いぬざむらいだの人非人ぬすびととののしられ
もうこれまでの堪忍袋の緒が切れて
まいはんにたばさんだ小さな刀がみつかり
はってまってのはっと切り込む太刀先が
額の金輪にじゃまとなり
無念や本懐遂げられず
たむら屋敷にあずけられ
無念の最期あそばずばかり
怨みはあつごの雪の夜に
吉良の
主君のカタキ
上野の首討ち取って
これに○○か
無事に泉岳寺にとあずけられ
四十七人、そろうて切腹なされ
武人の鏡いつまでも
泉岳寺にて線香(せんこ)のたえまなく
武勇残るは
誉れは高輪泉岳寺
おそまつでございました。
語りと唄:清水忠次郎さん(明治22年生まれ)/放送日:1973年1月/文責:細馬宏通