わたしの、80年あまり生きてるあいだの記憶してるようなことで、まあ古いことを、ちょっとあのほれ、話をしてみたいと、こう思いますので。
まあ、明治27,8年の、日清戦争のあとで記憶したようなことを、ちょっと、今もう、そんなこと知ってはる人もおへんやろうけんど、いっぺんちょっと話してみたいと思います。
まあその時分の嫁入りの荷物というたら、ハバキ[1]つけてわらじはいて、ほいで箪笥長持というたら、棒を通して、ほうして一つのもんを二人寄って担うて、ほれをずうっとまるで大名の行列みたいな調子で、荷を運んでいったもんじゃけんど。いまはもう自動車でとうっといかれて、さむし(?)のええもんじゃと思いますねんや。ほいでわたしも、ほういう嫁の荷物にも、なんべんも出くわして、そしてまあはあ、あの入口やとか、そのう、はたまでいくと、歌いもって、ほいで青竹の、息杖(いきづえ)[2]をついて、ほいで行きましたんや。ほんときの、ほんでまあ唄をちょっと、いうてみたいと、こう思いますねんや。ほれは...
めでたなー
めでーたーが、三つ重なりてぇ、よおー
鶴がな-、御門に、巣をかけるよ- えっさーえっさ
こう言いもって、なんべんでもいろいろの唄を繰り返し言いもって言いもって、あのう、行きましたんや。こういうことをいっぺんちょっとみなさんに、披露してみたいと思いましたので。ほんでやっぱり箪笥長持いうても今みたいな箪笥長持やおへんわいな。棒の通すようにこう、吊り天がこしらえてましたんや。ほいからー、小箱やなし、ああいうもんは一つにかためてましたけども、その時分にはセッタというて、荷を担う台がこしらえてましたんや。
そのセッタにまあ盥やら鏡台やらアマダイ[3]というようなものはみな載せて、ほいで一人いうてこういっかんに担うていきましたんやで。ほいで、向こうへ着くとそれから、わらじ脱いで足を洗うて、ほいでほれから、あがって、あの、ちょっと一杯よばれるとこんなような調子で。
んで棒だけはまた帰りにかついで帰りますねや。酒に酔うてうだうだうだうだとひょろつきもって、ほいで棒をかついで、ほいでごちそうをちょんと棒の先にひっかけて、ほいで帰ってきた。こんなような調子やったんや。
(そうすっとこう、ずいぶん遠くでもこう歩いて)一里でも一里半でも、歩いていきましたんや。(そうすっとこう、その道のりの中で、字(あざ)をいくつか通るわけですね。)ほするとあの、通る字々でうたいますねや。ひとはだの(?)縄手では、あの、黙って、通っていきまんねや。ほんでまあ、青竹の息杖(いきづえ)もってますねや。ほんでその、ときどき肩を代えるのに、息杖ついて、ほいで肩をこうこうこうお互いにかえもって、ほいで行きまんねや。ほんで、ずいぶん荷があっても、こうやって担うていきましたんや。
にぎやかにもうどうっとこう、箪笥長持がこう、四つも五つもある、まああの時分によっぽど多い家のは七吊りいうて、箪笥長持が七つもありますわな。ほうすると、箪笥長持だけでも十四人いりますがな。まあ、だいたい言うと、あのう、いまの嫁入りの荷物は、ほの、その行く嫁さんのもんだけちゅうことおへんわな。ほの時分はその、だいたい嫁入りの衣装というものは、ほの嫁さんのものだけやわな。自分の着たりはいたりするもんだけ、持っていくということやったわな。
だいたいほれがなくなったのは、車がでけるようになってから。まあだいたい始まりは、荷車に乗せて、ほいで、二人ほど寄ってやなあ、一つの車に、箪笥長持、三本くらいつけて、そして、車二台くらいでいきましたわいな。ほうすると、小箱となにで三人くらいでいけるようになりました。ほんでその次には、リヤカーができましたで、ほいでリヤカーに乗せてまた運ばはりますねや。
ほいでまあ、ほれからこんどは、また自動車ができたけんども、字によっては自動車が入れん字が、その時分にはありました。ほんで、ようこの辺でも、中一色(なかいっしき)やたら、ほいから磯部やとかこの辺で、ああいう在では、その時分の自動車が入れんちゅうてましたわな。ほうすっとその、入れるとこまで自動車で行ってほいで車で、ほの在で、通うてはったこともあるんやし。こらまあ、だいぶん、もう五十年も六十年も昔のことですさかいな。嫁入りの荷物運ぶようなときには、歌いもっていくとにぎやかにおすやない。
【注】
談:辻甚蔵さん(明治22年生まれ)/放送:1973年1月/文責:細馬宏通