朝、インドから宿泊者が二人、10時に来るというので、留守番。しかし、二人が到着したのは結局午後の一時半。まあ読書したり飯を作ったりで退屈はしなかった。あれこれと宿のことやこのあたりの事情について尋ねられるが、あいにくぼくも詳しくは知らない。 二人は、「イエス」というとき首振り人形のように首をくねくねと横にふる。インドの人によくあるしぐさだ。このしぐさがいかにも頼りなげで、放っておくのもかわいそうなのだが、これ以上ここにいたら一日つぶれてしまう。鍵を渡して部屋を一通り案内して外出。 ドイツ博物館へ。メインの建物は改装中で残念。向いの建物でやっているワイマール時代の展示を丁寧に見ていると、おっと早くも時間切れだ。 夜、鴎外を読む。幸い、パソコンに主な作品はぶちこんである。「うたかたの記」「ヴィタ・セクスアリス」「かのやうに」、ベルリンで読むと、いちいち外国語の概念で自分を整理し高みから見下ろすような彼の文章の鬱陶しさはいくぶん和らぎ、むしろそういう概念化が立ち上がってくるのを止められない鴎外のいらただしさや屈曲が伝わってくる。事実をいくぶん隠したり曲げるその隠しっぷり曲げっぷりに、自己保身のあとが見え、隠したり曲げたりしながら人に見せざるをえないところに、自己弁護の欲が見える。そのように保身や弁護を見せてよいのだ、という覚悟が感じられる。 自然主義を揶揄しながら、自然主義をなぞらずにはいられず、しかし花袋よりは教養があり過ぎるので、嫌味なほど花袋より的確に外国語を挿入し(花袋の引用する外国語のほとんどは装飾だ)、結果的にオツムの差をひけらかし、感情を描写するのではなく、感情を解釈してしまう。しかし、たとえ「描写」に勤めようが客観的な描写などありえないのだから、鴎外のくどいほどの解釈を、主観的と責めることができるだろうか。そして、多分、責められないと知って書いているのだ、鴎外は。「僕はどんな芸術でも自己弁護でないものはないように思う」(ヴィタ・セクスアリス)だって。ああ、心底イヤな奴だねえ、鴎外は。しかし、そんな心底イヤな奴をなかなか嫌いにはなれない。 昼に来た二人が「学会用にラップトップを充電したいのだが、電源が合わなくて困っている」と言う。変換コネクタを持ってこなかったらしい。学会で発表できないかもしれないという不安はよくわかる。ぼくのラップトップはバッテリーが3時間ほどもつので、3時間たったら返してくれ、という約束でコネクタを貸す。 ところが夜中を過ぎても返ってこない。ガンジス時間か。結局パソコン仕事はあきらめ、昼間買った本を読む。 |