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19990820



 いい天気だ。観光客ならユングフラウでヨッホッホするところだが、ぼくはそれよりもいと高き町を目指す。ThunからBern, Luzern経由でEinsieldenへ。約3時間。
 駅に近づくと、いきなり左手前方にパノラマ館が見える。Einsieldenは清教徒の地で、ここにはキリストの磔刑場面を描いたパノラマがある。それを見て、もし気に入ったら日曜のミサまでいようという計画。
 着いて案内所で予約したホテルの場所を聞くと、ここからわずか10分だという。確かに手ぶらなら「わずか」だ。しかし、荷物はすでに本でふくれあがり、10mと歩けない重さに達している。車付きのトランクでなければいまごろどこかで沈没している。
 で、石畳をトランクを引いていく。上り坂だ。しかも雨。坂はいと高き場所に向かっているらしい。しかし回りの観光客はおしなべて年寄りだな。
 そして上りきると正面に教会。向かいがホテル。入口をくぐってみたが誰もいない。しばらくすると車が表に止まり、降りてきたのがどうやら女主人らしい。案内されてエレベーターに乗り込むとハート型の鏡。例の引き戸式でSchindler製の三人乗り。部屋に入ると壁には十字架、そしてキリストを抱く聖母の絵。女主人は明日の朝食の時間を告げると、じゃ明日、バイバイ、といって出ていった。
 とりあえず荷を降ろしてからパノラマを見に行く。教会から少し降りて右の道をまっすぐいくと、屋根に十字架をかざした大きなパノラマ館が目に入る。

 暗い回廊に宗教画がかけられている。そこから階段を上がるといよいよパノラマだ。天井にはメスタグのものと同様、覆いがかけられている。
 これまで見たのと同じように、上った瞬間、ああ、ただの絵だなという感じがやってくる。さて、あちこち眺めながらゆっくりパノラマの効き目が表れるのを待とう。
 キリストの磔刑の部分はさすがに前景のオブジェ岩と絵の岩の連続に配慮がなされている。面白いのは左右のオブジェ岩の配置だ。右のオブジェ岩の方が、左のオブジェ岩より高くなっている。そして、左のオブジェ岩の奥の、絵の中の岩が、ちょうど右のオブジェ岩と同じ距離に描かれている。つまり、オブジェのエッジは等距離に設定されているのではなく、高いオブジェはより遠く、低いオブジェはより近く設定されているのだ。このオブジェの上下関係を遠近関係に変換して見せる方法は、確かに効果的なillusionで、絵とオブジェの境界をうまく隠している。
 これは、オブジェのラインが右手の井戸に向かって下がっていく部分にも表れている。井戸のそばの岩塀は、磔刑の岩よりも明らかに手前に設定されている。
 もう一点、このパノラマではっとさせられるのは、「Strasse n. JAFFA (Tel-Aviv)」の場面で、手前の砂で覆われた道の入り口から、ラクダ、水平線にいたる連続がすばらしい。
 これまで見たパノラマでは、こうした部分の錯覚が全体に波及して、虚実のあわいに引き込まれていったのだが、このパノラマではどうもうまく行かない。部分が孤立している。その原因は、消失点以外の(つまり見せ場以外の)表現が明らかに粗雑なせいだ。
 たとえば、もし上下関係を遠近関係に変換するのがこのパノラマのコンセプトならば、井戸への階段を降りてくる女はもっと大きく描かれるべきだが、そうはなっていない。井戸塀そばの男たちもそうだ。
 消失点以外の場所における道や建築物の歪みは、崖やギャップなどで遮蔽すれば逆におもしろい不連続の効果になるはずなのだが、このパノラマでは、前景のオブジェと連続させようとしているため、かえって矛盾が浮き出てしまっている。
 しかし、そうした遮蔽のテクニック以前に、空や岩のテクスチャの粗略さがひどい。遠い山の木々や町並みの描き方も明らかに力量不足で、この時代、この絵の場面に対する想像力の及ばなさが露呈している。一人一人の人物の表情も紋切り型で魅力に乏しい。

 これまで、パノラマ館を見ると、その後かならずその町への執着がわいた。でも、このパノラマはいけない。この町に長いは無用かもしれない。少し憂鬱な気分になる。
 すぐ近くにはジオラマもあるので、ついでにと思って見たら、こちらはずっと出来がよかった。
 天使の降りるシーンの、赤みを帯びた微妙な光。ヨセフの家の裏の塔のテクスチャ、そしてその裏手に続くベツヘレムの家々の積み重ねの細かさ、そして何より、それぞれの人々や動物の表情の豊かさ。
 特に、この奇跡の瞬間に気づかぬかのように、眠りこける男、臼をひく女、羊飼い、荷を降ろし首をのばし切っているラクダ。これら日々の生活のドキュメンテーションこそ、このジオラマを聖なるものにしている。神を知らぬ者にこそ聖性が宿る。
 すべてせいぜい数十センチ程度の木製の人形なのだが、その人形の世界がずっとジオラマの向こうまで続いているように思わせる。絵はおそらく半円に近く歪曲しているが、オブジェとの連続性がうまくほどこされている。
 ここにもテレビ型のミニスライドがあったので買っていく。

 金曜の夕方のミサ。寺院の中には巨大なフレスコ画に漆喰細工。後から塗り変えたらしい毒々しいサーモンピンクの天使たち。マイクで拡声される説教の声のありかが確かでない。フランス語で「Notre bell, notre bell」と大仰に語られるのも、手を大きく振り上げる讃美歌の指揮も、何か押し付けがましく、なじめない。
 などと無宗教者がたわごとを言っている場合ではない。隣人と握手を交わす段になって、前列の老人が振り向いて完璧な笑顔で手を差し伸べる。固い握手。信仰なき審美に災いあれ。
 外に出ると、左手の丘の一角に、木々に埋もれるように照らし出される磔刑の像。こんなところにゴルゴダの丘か。そして目の前の宿を見上げると、そこにも聖者の像が。その横の、カーテンをいい加減に開けた窓こそ、ぼくの部屋だ。さっき、窓から寺院を眺めていたぼくの阿呆面は、聖ヨセフと並んでいたのだ。悔い改めよ。

 なんだか教会から離れたくなった。地図を広げて散歩道を検討。教会裏の湖なら徒歩圏内だ。墓地を過ぎ、丸みを帯びた牧草地を見上げながら行くと、前方に湖が開ける。西にちらほらと雲が浮かんで夕暮れの赤を眺めるには絶好の空。湖畔に沿って、暗くなるまでゆっくりと歩く。

 部屋に戻って、Migrosで調達しておいたパンとチーズとワインで夕食。備え付けの聖書をぱらぱらと読む。意外なほどおもしろく読める。物語そのものよりも、その語り口の潔さ、唐突さ。見よ見よと金縛りに会わせるような命令。視線を釘付けにすることば。さすがは世界のベストセラー。

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Beach diary