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19990817




 雲行きはあやしいが、とりあえず天気が変わることを祈って船に乗る。11:07 Luzern発。
 船はあちこちの岸で客を乗り降りさせてWeggsに向かう。山間を分け入るように湖を進。山間にまた山、そのまた向こうにさらに山だ。その山の斜面を黄緑の牧草地が巨大な牛の食み跡のように上っていく。
 Kehrsiten-Burgenstockで正面から丘陵にちかづく。牧草地に点在する木々と家、そこを歩く人々と牛。斜面の角度がとても大きく見える。
 タレルの書いている通り、われわれの眼は斜面の角度を過大視する傾向がある。その結果、斜面の上にいる人が近くに感じられる。にもかかわらず、じっさいにはその斜面は緩く、その分距離があるのだから、人はごく小さく見える。かくして、斜面の上の人や牛や家は、その実際の距離に比べてずいぶんと小さく見える。
 斜面の家々や町並みは、こうした角度の効果、そして山の遮蔽関係によって、どこもおもちゃじみて見える。もちろん、その密度や配置、そしてきれいに塗りわけられた白い壁とチャコールの柱も、おもちゃ感にあずかっているのだろう。スイスの細かい工芸品指向、大げさにパースを強調した木彫りのみやげ物、鉄道模型好きといった性質は、すべてこうした奥行きを強調する景観にあずかっているのではないか。

 で、Weggsからとロープウェイとケーブルカーを乗り継いでRigi Kulm(山頂)駅へ。わははは、雲のまっただなかだ。すぐ先を行く人の姿さえあやしい。とりあえずさらに登って山頂へ。見事に何も見えない。しばらく待っていると、次から次へと雲がやってきて、その切れ目に夢のように湖の影、そしてまた雲。たぶん、夕方まで待っていれば雲が晴れる時間帯もあるかもしれないのだが、それまで待っていたら身体が冷え切ってしまう。ここは寒すぎる。結局1時間くらい山頂にいてから、戻ることにする。帰りは中腹もことごとく雨だった。Viznauで本を物色。今度は「マーク・トエイン、Rigi山にのぼる」なんて本があるぞ。「ルツェルンの休日」の姉妹版だ。これまた数十ページで19CHFと高い。この調子だと「マーク・トエイン、ヨーデルを唄う」「マーク・トエイン、ユングフラウでヨッホッホ」「マーク・トエイン本日休業」とかなんとか、あらゆるマークがスイスでトエインしてそうだ。amazon.comで買えるだろうからここは見送る。
 帰りがけに、Kehrsiten^Burgenstockの崖上を眺めていると気になるものがある。見晴らし台のように見えるのだが、その台あたりで何かが動いている。エレベーターだ。急いで観光船のパンフを繰ると、確かに「lift」の文字。あわてて下船する。もう4時だ。どうやらケーブルカーを下車してさらに30分は歩くらしい。最終のケーブルカーまでぎりぎりというところか。
 で、ケーブルカーを降りてホテルの裏を抜ける。と、見よ。偉大なる光景はわれわれの目の前に展げられたのである。と、ぼくは立ち止まって田山花袋になってしまった。Luzernの向こうに、幕で覆ったように見えるのは雲か。いや、水だ。湖だよ。あんな風にぽっかり水の穴が空いてるなんて。複雑に切れ込んだルツェルン湖のそれぞれの入江に町があり、その奥にまたそれぞれ別の湖、それは遠すぎて、もはや波や反映を失い、金属を置いたように鈍い光の面となっている。
 さてしかし、これから30分ほど島崎藤村モードとなり、ぼくは山の活動に耽溺するのである。暗影と光と熱を帯びた雲の群れの出没に目をやりながら、歩を進め、木々の呼吸の行き過ぎるのに自らの息を合わせ、断崖を巡り、新たな入江を開くのである。
 そして近代の英知の結晶、エレベーターの真下に来た。高い。上部のエレベーター坑は、鉄骨で構成されて剥き出しになっている。建物ではなく、エレベーターの軌跡そのものを見上げる格好だ。ヨーロッパ最速のシースルーエレベーターなんだって。
 往復8CHFを払って、係員に案内されて乗り込む。
 かご本体は三方がシースルーになっている。といっても、ここは岩壁の穴の中で、景色は見えない。係員がスイッチを押す。扉が閉まる。動作を告げるパイロットランプはない。これはもはや手動なのかな、と思ったときにいきなり上昇が始まった。岩肌の中を一気に加速する。あまりの速さで、岩のごつごつの明暗が、まるでストロボで見るようにまたたく。一瞬、正面に穴が空き、湖がちらと見える。そしてまた暗い岩肌。
 にわかに正面が明るくなる。また穴か。いや、今度は決定的に開ける。湖と遠い町を見下ろしながらさらに上昇。両側はあいかわらず岩肌だ。その岩肌がしだいに退き、エレベーターは壁を失っていく。三方が見渡せる。足元を見下ろすと断崖、その断崖に吸い込まれるように減速。そして停止。扉が開くと、木板の短い橋が架けられて向こうには背後の山々が広がっている。橋を渡ってふと振り向くと、エレベーターはチャペルの形に収まっていて、いましも扉が閉じるところ。なんか、MYSTの一シーンみたい。
 ここはHammetschwand、というらしい。エレベーターはHammetschwandlift。乗車時間は1分間。そして雲の晴れ間からは絶景かな。

 地図をくるくる回してたら娘連れの母親がやってきて、ぐるっと反対に向けてくれた。「ルツェルンはほら、こっち」ありがとう。でも、それからまた地図をくるくる回して確かめたら、ルツェルンは別の入江だったよ。そして崖のこちら側には、なだらかな牧草地の向こうにいくつ山があるんだろう。「すべての山に登れ」じゃなくて、バカラックとハル・デヴィッドの歌を思い出した。「もう山はたくさん。山も丘も、登るにはじゅうぶんあるわ。」
 そうやって1時間ほどぼうっとしてたら、最終のケーブルカーまであとわずか。急いで下山。
 
 ケーブルカーで、またさっきの母娘にあった。半年はドイツ、半年はスイスで暮らしているのだという。うっかり最終の船を逃してしまったのだが、ケーブルカーの係員が親切にも自分のボートで送ってあげると申し出てくれた、という。「スイスの田舎ではこういうことがよくあるのよ。こっちの人はほんとに親切で。ドイツでは滅多にないことよ。」
 ケーブルカーを降りると1時間ほど船がない。母娘は係員のボートに乗っていってしまった。港には誰もいなくなる。ほんとに船は来るんだろうか。まあ、ゆるゆると待とう。雲間から太陽が湖のあちこちを照らしては隠れ、遠い山並みが濃くなったり薄くなったりする。かもめが目の前の杭に止まって羽を繕っている。

 ほんとに船は来た。宿に戻って見張り塔の裏の牛の鈴を1時間ほど録音する。

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Beach diary