凌雲子「浅草公園廻り」(明治三九年)より



 昇つて見ると、三階あたり迄は戦争画の窺(のぞ)き眼鏡を据へて縦覧させて置くが、早く上へ上へと急いで居るから、誰れも碌に窺くものがない。之は矢張り素通りで目に入る様な、大ざつぱな書画や、人形其他の骨董品を飾らなければ嘘である。四五階あたりからは、百美人の写真になるが、此の美人、何れも相撲にして十両以上の剛の者と見えて、ズングリの太ツちよ、明治式、衛生的美人ばかり、之が浅草趣味と云ふのでもあらう。九階十階では、拙(まづ)ひ顔の婆やお多福の姐さんが、おかけなさい、お休みなさいと命令する様な語調で二銭茶代を迫促(はた)ること劫々(なかなか)厳しい、誠に怪しからんことである。十一階は縁側を〆切つて置く。愈(いよい)よ十二階に上つて縁側に出ると、天風逢々(ぼうぼう)息を塞げて先づ心胆を寒からしむる。欄に拠つて眺むれば、新緑の樹木を織り交ぜて、際(は)てもなく唯だ一調子の瓦屋根を並べた人家(ひとや)が、所々真黒な棒の烟突を高く突き出した外には、何等の色彩も変化もなく遠望十里の外に、大和も海ともなく唯だ灰色の烟(けぶ)り行くばかり、秋か冬の澄んだ空なら雪冠の富嶽も青黛(せいたい)の筑波も鮮かに見らるゝであらうが、今初夏(はつなつ)の霞んだ空気は一切を朧ろげに封じ込めて、登閣者をして何を見、何を攫まへて何を感じて良いのか、うつとりと自失するのである。

 稍(や)や視覚が整ふて来ると先づ近く墨田川が、緑の帯を伸べたらん如くに目に付く、葉桜の堤が見付かる。言問辺の白い建物は特(こと)に明白(はつきり)と見える。漸々(だんだん)遡つて、鐘ヶ淵紡績会社の烟突から先きは、水の色も樹木の色も、人家も、見分けが出来ない。と、近くに高壮な吉原の建物が見付かる。青田の田圃が見える。左へ目を注ぐと、上野の杜道灌山から延(ひ)いては王子辺の烟突が、呼べば答ふるびかりと見られる。猶ほも左へ廻ると、ニコライ堂が見付かり、日本銀行三井銀行が見付かり、日宗生命保険会社の高塔が見え、芝浦の瓦斯貯留所が見付かる。品川沖の白帆が見える。軍艦一艘居ると云ふが、見えなかつた。愛宕の塔を捜したが、之も見えない。詰り、下町丈けは能く見えるが、山の手は少しも見えない。斯様(こん)な高い建物を山の手へも設けて欲しいと思つた。

 扨(さ)て、遠く欲張り眺めて疲れた目を、今度は直下に投げた、今日の半日を足が棒になる程迂路付いた跡を、俯して瞰ると、紅塵の、俗悪のと言はるゝ浅草公園は、中央に繁つた樹木を取囲んで、周囲に人間の入る家屋があるばかり、目に付くものは、パノラマ館と、観音堂と、五重塔丈(だ)け、一攫みに印籠へ入れて腰にぶら下げて家づとにも仕得べき池迄添へられた灑洒(しゃれ)たる箱庭である。斯様な小ツぽけな処に、半日も一日も、送迎に暇なく耳目口腹を活動させて、大した遊楽を尽くした積(つもり)で居る人間の寡欲なことを、天帝はどんなにか神秘の感にうたれてみそなはして居らせられ給ふだらう。之を低しと言ふ勿れ、吾人が日常見馴れて居る高さの廿倍に突起した地位から眺むることは、人間の視覚に取つて、将(は)た脳神経中枢に取つて、実に廿倍の革命であるではないか。

(『趣味』第一巻第二号、明治三九年七月)



 明治三十年代以降、十二階にのぼった記述は数多くあるが、内部の様子を書いた文章は少なく、この「凌雲子」なる人物の記述は貴重である。

 十二階前の看板には「日露戦争ジヲラマ」とあり、戦争ジオラマ展示のあることを示しているのだが、その実態は「戦争画の窺(のぞ)き眼鏡」であったことがわかる。おそらく、明治二四年ごろ花屋敷に出展された「美術パノラマ」と同じく、暗箱内部に絵画と模型を組み合わせたものを作っておき、それを覗かせるという趣向だったのだろう。また、百美人写真の展示は4、5階からであったこともこの文章から分かる。

 そのあとはおなじみの眺望の描写となるが、遠景から近景、最近景へと移る順序、そして、最近景のさきほどまでいた浅草公園に思いをはせることで卑小なる私に思いいたるあたり、後に木下杢太郎が書く十二階からの眺望と、トーンがよく似ている。明治三十年代後半、すでに十二階の上には、公園を歓楽する私に対する物悲しい視線が発生している。

  (2001 Dec.)

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