徳川夢声「自伝夢聲漫筆 大正篇」(昭和二一年)より




 戦後すぐに出た仙花紙本で、装丁は横川信幸。横川信幸は同時期に早川から出版されていた仙花紙本の装丁を何冊か担当しているのだが、詳しいプロフィールはわからない。この表紙の絵も、横川によるものか夢声自身の手によるものかは不明。「活動大写真」の大きな幟と対照的に小さく浮かぶ十二階が泣かせる。その下に描かれているのは、改築後の十二階劇場の門。おそらく大正中期から後期の浅草六区を知る人の筆によるものだろう。
 本の内容は、弁士夢声の誕生のいきさつから大正期の活動弁士時代が活写されていて無類におもしろいが、その中に、浅草のキリン館で上演されたという「ライフトグラフ」に関する記述があって、実体と光を合わせた見世物に関心ある者としては、ひじょうに興味をそそられる。

 其時キリン館の呼び物は何であつたかと云ふと、これが写真に非ずして、「ライフトグラフ」と云ふ大イカ物だ。一たいライフトグラフとは何のことだか今だに解らないが、要するにユニヴアース、キネオラマの類だと思へばよろしい。そのライフトグラフで何を演じたかと云ふと「膠州湾の大海戦−青島落城の実況」と来るから凄い。
 (中略)
 先づ舞台一面にゴム引きのヅツクか何かで一大プールを造り上げた。普通映画常設館の舞台なら知れたものだが、キリン館は後に其のまゝ観音劇場となつた所だけに、舞台は相当ダダツ広いものだつた。これに注入する水だけでも大したものだ。始めの間は毎日少しづゝ水を換へてゐたが、不入になつてからは水道代を恐れて、てんで水換へをしなくなつた。それが為に膠州湾はボーフラが湧いて、客席までプーンと酸へた臭ひが漂ふことになつた。このボーフラ湾の向うに、書き割りのイルチス山、ビスマルク山、モルトケ山などが厳然と並び、市街の中程には白亜造りのワルデツク総督官舎も見えやうと云ふ趣向だ。

 幕が開くと舞台は暗澹たる午前三時頃だ。所々の窓にボンヤリ燈火が映つて見える。やがて弁士が「膠州湾は暁の光景」てな事を云ふと徐々に明るくなつて、アリアリと書き割りの巧拙を見せて呉れる。と、音楽について遥かの港内を敵艦が三雙ほど、時々立留つて嘆息をつきながら右から現はれて左の方へ消えて無くなる。嘆息は、三雙の軍艦を一本の麻糸で引つ張つてる印半纏の小父さんの手加減で生ずる。
 (中略)
 愈々問題の大海戦となる−夜襲だ。青島市街の美しい窓燈火が全部消えて、ワルデツク総督官舎の右手の山上に、サーチライトが物々しくピカリ、ピカリとなる(これは始め懐中電燈でやつたが、後に技師がアーク燈を据えつけて、ヂヤーツと専ら客席を幻惑させた)。舞台の左右から、それぞれ敵味方の艦隊が二三雙づゝ現れて猛烈なる砲火戦だ。これは中々壮観であつた。大砲の中にはチヤンと火薬が填つてゐて、これが組織的に発火する様になつてゐる−即ち楽屋の壁には電流のスウイツチが数十個ズラリと並んでゐて、それに一々第何号大砲とか、第何番水雷とか何々号火災とか記してある。これに依つて全智全能の技師が、縦横の手腕を振ふ訳だ。
(中略)
 さて肝腎の軍艦が如何にして動くかを、未だ御話しせずにあるが、これが実に素晴らしい趣向なのである、ライフトグラフの真価之に有りと云ひたい位のもんだ。
 即ち、軍艦の中には人間が一人づゝ這入つてゐる、この人間が弁士の言葉に従つて水中を四ツん這ひの大海戦なのである。

 この水の中に漏電して、人間軍艦がしびれて飛び上がったこともあるらしい。命がけの見世物ではある。なお、明治三八年に歌舞伎座で初演されたキネオラマも、これに負けず劣らず相当あやしい代物だったことが、当時の新聞記事(万朝報、明治三八・六・二七)から分かる。(2001. 06.02)

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