浅草国技館は、明治四五年二月に開館した。読売新聞(明治四五・二・六)に開館式の様子は詳細に記されている。「同館正面前には二十間余の大緑門をこしらへ五個所に日章旗を掲げ其の四方には寄贈にかかる幟数百本を立つらね又金色燦爛たる蒸気ポンプ三台を正面に備えつけ尚又千束町二丁目、下谷入谷町より公園内瓢箪池に至る間は縦横に万国旗を吊下げ五彩陸離たる物あり」。設計には両国国技館と同じく辰野金吾、葛西万司があたった。回教(#サラセン)風の四階建、二〇人乗りのエレベーターを備えた大建築だった。読売は「内外の色彩余りに浅草式にせるためやや不快な感を与へるの憾みあり」と伝えている。今で言えば「キッチュ」とでも言うところだろうが、「余りに浅草式」ということばがおもしろい。この日には花相撲も開かれた。
蒸気ポンプはいったい何に使ったのだろう。あるいはエレベーターの稼働用だろうか。ともあれ、金色のポンプは外観の異様さをかなり増したはずだ。
絵葉書(k-1)には、新聞記事通りの光景が写されている。国技館前には緑門が見え、四方に万国旗が垂れ下がっている。おそらく開館当時のものだろう。
華々しく開館した国技館だったが、実際に国技館として機能した期間は短かった。その原因としてはいくつかの説がある。膨大な設営費、観客席の設計上のミス、力士と運営者とのトラブル、同じ年の七月三〇日における明治天皇が崩御、などである。ともあれ、開館後、相撲が行われた回数はわずかであることは確かだ。大正になって菊花展が催されるなどしたものの、結局大正三年、日活に買い取られ、大改修の後、四月に遊楽館(k-2)として再出発する。この改修で「遊楽館」という文字看板がつけられたことが図k-2の絵葉書から分かる。
この後、さらに大正六年に吾妻座と改称、芝居を中心とした劇場となり、文字看板ははずされる。そして、大正九年、吾妻座は焼失してしまう。豪奢な建物は国技館時代からわずか九年あまりで消えてしまったのだった。
では、国技館変遷の過程を、周囲の建物の変遷も含めて絵葉書で追ってみよう。大正期の浅草六区の変貌がそこには見てとれるはずだ。
->浅草国技館の変遷(2)