"Ayame-san" (1892) by James Murdoch部分訳

細馬宏通


"Ayame san" 原著の表紙

 ここに訳出したのは、James Murdoch "Ayame san" のPart 3, VIIからの部分訳で、主人公の一人ギフォードが、アヤメさんの手がかりを求めて浅草を徘徊するくだり。
 この部分を訳したのは、わたしの関心が明治期の浅草および浅草十二階という建物にあるからに過ぎない。が、本筋と日本の風物描写が入り交じっている点で、訳出部分は「写真小説」という本書の内容をよく表している。ロチの作品をはじめ、いわゆる異国から見た明治期の日本に関心のある人には、もしかしたら興味を持っていただけるかもしれないと思い、ここに公開する次第。

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 著者のマードックについて、簡単に紹介しておこう。
 大著『日本歴史』の著者ジェームズ・マードック(1856 - 1921)は、スコットランドのアバディーン近郊の村で生まれた。幼い頃から記憶力がよく、数学と語学に興味を示し、スコットランド、イングランド、ドイツ、フランスなどでギリシャ語やサンスクリットなど学んだ後、スコットランドのアバディーン大学にギリシャ語助教授として就任。その後、オーストラリアで教員生活送ったあと、中国を経由して1888年に日本に渡った。そこで教員職の口を見つけると1889年(明治二二年)から第一高等中学校の英語教師に就任。この当時の生徒に夏目漱石がいる。
 "Ayame san" が執筆されたのは、この第一高等中学校教員時代である。

 第一高等中学校教員時代の彼の生活や人柄は漱石の『博士問題とマードック先生と余』からうかがい知ることができる。

 先生の白襯衣(ホワイトシャート)を着た所は滅多に見る事が出来なかった。大抵は鼠色のフラネルに風呂敷の切れ端のような襟飾(ネクタイ)を結んで済ましておられた。しかもその風呂敷に似た襟飾(ネクタイ)が時々胴着(チョッキ)の胸から抜け出して風にひらひらするのを見受けた事があった。高等学校の教授が黒いガウンを着出したのはその頃からの事であるが、先生も当時は例の鼠色のフラネルの上へ繻子か何かのガウンを法衣のように羽織ていられた。ガウンの袖口には黄色い平打の紐が、ぐるりと縫い廻してあった。これは装飾のためとも見られるし、または袖口を括る用意とも受取れた。ただし先生には全く両様の意義を失った紐に過ぎなかった。先生が教場で興に乗じて自分の面白いと思う問題を講じ出すと、殆んどガウンも鼠の襯衣(シャツ)も忘れてしまう。果はわがいる所が教場であるという事さえ忘れるらしかった。こんな時には大股で教壇を下りて余らの前へ髯だらけの顔を持ってくる。もし余らの前に欠席者でもあって、一脚の机が空いていれば、必ずその上へ腰を掛ける。そうして例のガウンの袖口に着いている黄色い紐を引張って、一尺程の長さを拵らえて置いて、それでぴしゃりぴしゃりと机の上を敲いたものである。
(夏目漱石『博士問題とマードック先生と余』)

 しかし、そのマードック先生が、実は大著『日本歴史』以外に写真小説"Ayame san"をものしていたことを漱石は記していない。

 "Ayame san"は、「Ayame」なる日本女性をめぐる男たちの奔放な物語で、きついアイリッシュ訛りを話すO'Raffertyと画家のGiffordが主人公という体裁をとっている。本書の最大の特徴は、小説でありながら、挿絵ではなく数多くの写真が掲載されている点だろう。写真撮影は当時お雇い外国人の衛生技師として在日していたウィリアム・K・バルトン、そして製版は写真師小川一眞と、くしくも十二階関係の二人がクレジットされている。

 そして、この小説では、写真は単なる説明図版以上の役割をになっている。小説の本筋以上に、東京をはじめ鎌倉、箱根など日本の名所旧跡を紹介する場面が多く、いわばガイドブック的小説としての性格を備えており、そうした部分では、文章が主で写真が従というよりは、むしろ文章自体が写真の解説文のような形になっているのである。
 また、本筋じたいも、むしろ撮影された女性の写真を並べることによって着想されているフシがある。それはここに紹介する浅草十二階をめぐるくだりでも感じ取ることができるだろう。

 マードック、バルトン、小川一眞の三人は、"Hakone", "Tokaido"など、Kelly & Walsh社から出版されている数々の日本名所写真帖にかかわっている。故郷のスコットランド訛りを隠そうとしないマードックと、やはりスコットランド出身のバルトンとが、遠く日本で意気投合したことは想像に難くない。彼らにどのような具体的な親交があり、どのように"Ayame san"の執筆と写真撮影がなされたのか、興味深いところだ。

 マードックの遍歴と、『日本歴史』の内容の検討、そして漱石の文明論との対比については、平川祐弘『漱石の師マードック先生』(講談社学術文庫)に詳しい。
 ここではこの『漱石の師マードック先生』に従って、彼の来日以降の遍歴を書きとめておこう。

 日本に滞在していたマードックは、1893年、第一高等中学校を辞して、社会運動に身を投じるべくパラグアイに行く。が、その実態に失望し同じ年にロンドンへ。そこで日本史の資料を渉猟した後、1894年(明治二六年)、再び来日し金沢の第四高等学校に赴任。この頃から日本史の執筆に打ち込むようになる。明治三一年に東京に移り、高等商業学校で教鞭をとる。明治三二年、岡田竹子と結婚。さらに明治三四年には鹿児島の造士館高等学校の教師として赴任する。明治三六年に日本史(後の第二巻にあたる室町期までの日本と海外の関係史)を発行。明治四三年には第一巻を発行。その後も鹿児島で教鞭を執りながら江戸期の部分にあたる第三巻の執筆し続けた。1917年(大正六年)シドニー大学東洋学科教授として赴任。その後も第三巻の執筆を続けたが、1921年(大正十年)に亡くなっている。第三巻は彼の死後、1926年に出版された。

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