菅野力夫の事歴、少し分かりましたので、簡単にご報告を。明治20年生まれ(年齢から逆算すると)。第1回の世界探検は「頭山氏等の命をうけ孫文第一革命のため渡支」(本人の談話より)とあり、軍事探偵の様なものだったかも。その当時の記事が見あたらないのもその証拠かも。僕が思うには、本人の口が軽く、吹聴して回ったので、そんな役割もなくなり、2回、3回は完全な自己宣伝の手段としての「探検」だったと考えます。彼の「探検」も大正末の第3回で終わり、なんと、僕が、以前住んでいた近く(杉並区和田の蚕糸の森公園辺り)にすんでいたとは!昭和21年の生存は確認しました。少なくともほぼ60歳は生きていた計算になります。没年も分かりそうな感触はありますが。彼の足跡は、点しか残っていませんが、つなげれば、面白そうです。ちょっとそこまで踏み込むと、地獄に落ちそうな気がしますが。
「風景の生産・風景の解放」「壺中軒異聞」読みました。題名からすると、一生読まないものなんですが。前者は絵葉書研究の基本文献をたくさん紹介してくれているし(僕には難しすぎる文もありましたが)、後者は、蒼太の「卑屈、慇懃無礼、強引、この組み合わせによる商法」など表面だけ読んで、ああ、と頷くところ結構ありました。教えていただき、感謝します。
今度の日曜日は、所用があり、拝聴できません。残念ですが。
大学の卒論で浅草について書いているものです。
検索してたらこのページにたどりつきました。
何かと勉強になりそうなページなので、
参考にさせていただきますM(_ _)M
ちなみに締め切りまであと30日強。
あと80枚分の白紙を埋めなくては・・・(−−;
そのお話、じつはぼくも先日橋爪さんから聞いてびっくり
したところです。新聞、とくにマイクロを一日ずつ読んでいて
大ネタを引き当てるときって(めったにありませんが)頭に
ちゅーっと液体が出る感じです。次はいつ味わえるんだろう、
あの感じ。
今日はボロットさん、すごかったです。涙出ました。東京公演
も行こうっと。あ、そうそう、11日の準備をそろそろしなくては。
前の投稿の大阪旭は無論「大阪朝日」の誤りです。失礼しました。
先日たまたま10月17日付東奥日報を見ていたら、「観覧車第一号は大阪」という記事が目に入りました。これまでは明治40年、東京・上野で行われた勧業博覧会のものが第一号だというのが定説だったのが、その前年の5月、大阪・天王寺で行われた戦勝記念博覧会会場のものが第一号では、という内容です。これは観覧車の歴史を調べている福井優子さん(通信社勤務)が、当時の大阪旭、大阪毎日新聞から発見したもので、当時は「展望旋回車」といったそうです。東奥日報の紙面には明治39年4月6日付大阪毎日新聞に載った写真が掲載されています。『日本の遊園地』の著者、大阪市大助教授・橋爪氏の談話も載せられています。恐らく他の新聞にも載ったのでしょう。
直接このページには関係ないかもしれませんが、地道に古新聞を繰っていって「定説を覆す」というのは、研究者冥利に尽きるかと思い、書かせて頂きました。
初めてなもので,いろいろとわからなくて.すみません.
私は寒いから,なべがいいなあ,とか思ってるんですよ.
和食系の予定ですが、なんでも食べる(様に努力しておられる)
とのことですので、形式ばらないお店にお連れすればいいかな、
なんて考えてます。なんかいい加減ですいません。
細馬さん、石井さんへ
親切に対応有難うございます。
あの画像の配水塔なんですが、大谷口と野方にある配水塔の事は解ったのですが、
百人町の配水塔の事は不明で、十二階と関係あるのかなと思いまして、
私、いろいろ努力してみたんですが全く資料が見つからなく、ここに来ました。
時間はかかっても構いません。よろしくお願い致します。
自分の事を優先して下さい。私の事は何かついでと言っては失礼ですが、
よろしくお願い致します。
それと、北区のゴミ焼却場の煙突も近いうちに見て来ます。
では、また来ます。
水道の世界でも、バルトン=十二階という連想が働く人は、そう多くないと思いますので、まあ直接は関係ないと思いますが、稲場先生が言われるには、THE WATER SUPPLY OF TOWNというバルトンの著書に、ほとんど十二階と同じような多角形の塔の設計図が載っている(私は本の現物を持っていませんが、不鮮明な複写でよろしければ、写真を探します)……、十二階も上水道設計の守備範囲の技術で出来るのではないか、という訳です。ただそれでも、給水塔と十二階では、スケールが違いますので、実施設計が大変だっただろうと思いますが。明治34年2月の火事で、ありとあらゆる資料(十二階関係や、コナン・ドイルの手紙も含む)が焼失しましたので、決定的なことは何も言えないのが残念です。似ていると言えば、東京・北区のゴミ焼却場の煙突(赤羽辺りから見える)は、もっともっと十二階そっくりです。外装はレンガではなく、コンクリート打ちっぱなしみたいです。もし写真の配水塔について、時間がかかってもよろしければ、酒井先生か誰かに聞いてみますが?
11月11日の講演会、ジモティとしてはぜひとも参加させて頂きます。ヨロシク。
静岡で「アルタイ・コンサート」主催するLOROです.
こちらもうすぐですね.
打ち上げは,ちなみにどうするんですか??
メニューダブると悪いから聞いてもいいですか.
ところで,わたくし,アルタイの場所を今日ここで確認しました.
取材の時は,「モンゴルの隣です!」って言っていたんですが,
内心「違ったかなー」と不安でした.
どうもありがとうございました.
TOSHIさん<ようこそ。
下水文化研究会の稲場先生が、バルトンは給水塔から十二階の
デザインを発想したのではないかという説をどこかに書いて
おられました。むしろ十二階が給水塔に似てる、というわけです。
しかし、この配水塔、十二階と関係があったらおもしろいですね。
十二階を設計したバルトンは東京の水道
設計を行なった人でもありましたので、水道施設とは縁のある人です。
もしかして、バルトンの業績を記念して設計者が十二階に似せたのか?うーん。
石井さん何かご存じじゃないですか。
はじめまして、TOSHIと言います。
早速ですが、新宿区百人町にある、配水塔を御存じでしょうか?
なんか、十二階に似ています?詳しい事を御存じの方がおられましたら
教えて下さい。画像は以下の所をコピーしてに行ってみて下さい
http://www.dab.hi-ho.ne.jp/hatsuhatsu/photo/tank/yodobashitank/
では失礼します。
十二階の画像を使用させて頂きました。
20人で、ギャビン・ブライヤーズの「イエスの血は私を見捨てない」、みたかったなー。
テプコ浅草館の講演も、いきたいなー。
もう、ぼやきですみません。
もしかしたら、ふらりと、行くかも知りません、とおもったら、その日は、展示会のプレゼンの日だった。あー、またぼやきが。
ひとりごとで、お騒がせしました。
ぽろっと、CDで聴きました。
なみだしてます、このごろ。
・・・
以前ちらとお知らせしたテプコ浅草館での話の詳細が決まりました。
平成13年11月11日(日)
13:30〜16:00
(受付 13:00〜)
会場:テプコ浅草館3階ホール
講師:細馬 宏通
会費:無料
申込み先:時代屋/台東区浅草3−26−8
電話:03−3873−0290
来聴歓迎です。あれこれ図像を用意いたしますので、
お時間のある方はぜひお越しを。
オプションで人力車ツアーもあります。
場所の地図や詳しい内容は以下のページに。
細馬様
橋爪様にお問い合わせいただきありがとうございます。
「日本の遊園地」(講談社現代新書)も見てみたいと
思います。
柏野さん、ようこそ。
3代め友綱の詳しい話、ありがとうございます。
江戸から明治にかけての経歴、どこか山田風太郎の小説に
出てきそうな屈折があって、興味をそそられます。
浅草国技館の花相撲を終えた力士が、当時小屋がけだった
十二階演芸場に現れて、かっぽれや曲芸を見ていたのではないか、な
どと、力士と十二階の関係を思い浮かべる今日この頃。
それにしても力士と鉱山がつながるとは。
昨日、橋爪さんにお会いしたので、ちょっと鉱山の
話を聞いてみました。正確なルーツはわからないけれども、
おそらくは海外でそういう展示があったのを真似て、日本
でも作られるようになったのではないかということでした。
ちなみに「日本の遊園地」(講談社現代新書)には、
東京大正博覧会の鉱山模型館の写真が一枚載ってます。
剛田明治様、柏野利助様
さっそくのご回答、大変恐縮致します。
>当時は必ずしも成績によって番付が編成されるわけでもなく、
>また上位が詰まっていれば、どんないい成績であろうとも、
>上がることはできませんでした。
なにやら、政治の世界のようですね。江戸時代の力士は各藩の
お抱えだったようなことを聞いたことがありますが、藩の力関係
で、地位は決まったのでしょう。
>延岡藩主・内藤公のもとで働き、槙峰の鉱山開発に尽くし、
>明治3年に鉱山の西部鉱区を藩主から拝受して経営に当
>たったと伝わっています。
後進の指導に功績があっただけではなく、実際に鉱山の開発
にも力を発揮したのですね。なにかご褒美にと、鉱山をもらう
というのも変な話だと思ってました。
最近、明治39年頃作られたと思われる槙峰鉱山の写真帳を
古書店で見つけました。明治の格調高さを感じさせる写真が
魅力的です。
剛田明治氏からの依頼で、友綱について書かせていただきます。
現在、大関・魁皇を擁する友綱部屋の当主は元関脇・魁輝で10代目(部屋では11代目と言っている)ですが、日平銅山の友綱は3代目に当たり、現在の宮崎県延岡市柳沢町の出身です。文化3年(1806)に生まれ、本姓は伊福。
初め大坂(大阪)相撲の竹縄の門に入り、その後江戸相撲の玉垣の門下に移りました。岩ノ戸、荒木野、千田川と改名して文政9年(1826)10月入幕、14年正月に延岡藩の抱え力士となり、友綱楫之助(のち良助)と改名、現役のまま年寄を兼務しました。幕内最優秀成績を挙げたこともありながら、4年、8場所連続前頭筆頭の位置にいて、三役に上がることはできませんでした(大関はおろか、三役にも上がってはいません)。当時は必ずしも成績によって番付が編成されるわけでもなく、また上位が詰まっていれば、どんないい成績であろうとも、上がることはできませんでした。嘉永4年(1851)11月限り46歳(数え年齢)で引退、年寄専任となりました。しかし、安政2〜3年ごろに角界を離れて帰郷。延岡藩主・内藤公のもとで働き、槙峰の鉱山開発に尽くし、明治3年に鉱山の西部鉱区を藩主から拝受して経営に当たったと伝わっています。明治4年9月10日、現在の西臼杵郡日之影町黒原で66歳でなくなり、延岡市昭和町1丁目の来迎寺に立派な墓が建てられています。戒名「勇進院徹譽友綱居士」。子孫は大阪にいるそうです。
金山様
情報提供ありがとうございます。
おたずねの友綱は天保9年に入幕し、嘉永4年11月場所限りで引退した友綱良助のことのようです。最高位は前頭筆頭、明治4年に没しています。
僕よりも詳しい方がいますので、とりあえず、簡単に。
宮崎県の日平銅山の文献を調べていたところ、「九州の金属鉱業
福岡通商産業局鉱山部編 九州地方鉱山会発行(昭和34年)」という
文献の宮崎県槇峰鉱山を記述しているところに、江戸末期?の大関・
友綱良助に関する、以下のような記述がありました。
>・・・その後、数人の手を経て、安政2年(1855)東勝右衛門の所有となり、同
>5年ごろには、延岡の藩士本吉武士の所有に移り、さらに元治元年(1864年)延
>岡藩主内藤家の稼行するところとなった。
> 明治3年、この鉱区を東西に分割し、東部は日平鉱山として、内藤家がこれを引続
>き稼行し、西部(現在の槇峰鉱山の地区)は、関取友綱良助の所有となった。この分
>割の経緯は、延岡藩出身の友綱良助が、東京相撲で大関まで昇進し、その晩年に後進
>の指導のため帰郷した際、延岡藩主内藤家はその功を讃え、これに鉱区を与えたもの
>と伝えられている。
この友綱良助とは、どんな力士だったのでしょうか?お殿様から、鉱山を与えられるく
らいなのでよっぽど強かったのでしょう。
ちょっと、こちらの掲示板に趣旨にあわない質問かもしれませんが・・・
しらないことばをわらわ
ないのはことばがわか
るからなかないのはは
じめてわかったから
パソコンが使えないので、ちょっと日記。
10/26
午後、東京へ。ひさしぶりに小島さん夫妻に会う。
なんと小島さんは最近口琴を自作している。その材料は
どうやらホームセンターにあるらしい。おそるべしホームセンター!
box東中野で口琴ナイト。巻上さん、ブリューヒン、Yuko Nexus6、サム・ベネット
という取り合わせ。ビデオを撮ったのはいいが、席が近すぎて一度に二人
しか入らない。こんなときワイズマンならきっとこうするだろう、と
思って、ゆっくりパンして撮る。音を出していないものを撮るのが
ミソ。サムの下敷き技が絶妙だった。
ライブには何年ぶりかで会う人が何人も。口琴縁。しかし自分には
つくづくノスタルジー感がないのだと思う。ひさしぶりに会った人
ともはじめて会った人とも、同じような感覚になってしまう。
10/27
神田の古本まつり。前からほしかった火星双六をえいやっと買って
しまう。いずれエレベーターの本に使って元をとろう。他に
龍たん寺雄の「シャボテン」など。
今日もBOX東中野へ。今日は岸野さんのうずまきナイト。
ギャビン・ブライヤーズの曲にゆっくりとした深まり。
倉地久美夫の歌をはじめて聞く。これ、すごい。もっと聞きたい。
「trumpi」。これ、すごい。映画として。
イワン・シューマッハーという人はただならぬ監督だ。
ここにはシベリアらしき土地が出てくるが、そこは
不思議惑星キン・ザ・ザよりも遠い。そして東京らしき都市も
出てくるが、そこは惑星ソラリスよりも遠い。にもかかわらず
この映画はノンフィクションである。いったいどうなってるのだ。
最近話題になってるテルミンもドキュメンタリーとしておもしろい
映画だが、あれはテルミンについての映画だった。それに対して、
これはドキュメンタリーのふりをしているが、じつは口琴語によって
物語られる口琴的映画である。物語はロシアや東京に似た口琴国が
舞台である。口琴を持って旅するアントン・ブリューヒンは
底なしの目をもつ書記官、直川礼緒とともに旅をしている。
直川礼緒は、ビデオに似たあやしげな記録装置によって旅を
記録し、日本語に似たマジナイを書きつける。
口琴国では、人間以外の動物はみな口琴語を解する。馬は
よろこび、牛は驚き、猫はまた繰り言かというように歩き去る。
ぼくが特にこの映画でおどろいたのは、二人がホテルをチェックアウト
するときに口琴を置いていく(ように見えた)シーン、そして日本に
よく似た国で、ブリューヒンの演奏を聞いた皇太子(なのだろう)
が「ハッピーミュージック」とその音楽を評するシーンである。
シネフィルを自称するものはどうしていますぐBOX東中野に直行して
この映画を見ないのか。見ろ!
昨日から東京にいるので今日は神田をせめ、むろんa店にも
寄ったのですが、菅野をまたも見送り、そのかわり博覧会ものを
ちょびっと買いました。菅野とペンギンの絵葉書とかいいんです
けどねー。競走馬の絵葉書がやたらあると思ったら、中で店員さんが
電話で馬券の相談。なるほど。
パソコンがクラッシュして悲しい。というわけで、まんが喫茶から
お送りしております。