これは個人的な宿題でしたが、手元の絵葉書の撮影年代を
都新聞にあたって調べてきたので、これについてアップしました。
明治四三年当時の浅草六区の雰囲気がよく出てる写真だと
思います。下記のアドレスへどうぞ。
土日に図書館にこもっていくつか宿題を解決してきました
。
その1:まあさんに御教示いただいた「グラフィック
カラー昭和史」の記事をチェック。
エレベーターの入口写真、確かに載ってました。そして
なんと(というかやはりというか)書いたのは喜多川周之氏
でした。
その2:「十二階の福助広告」について。福助
足袋の六十年(昭和十六年)を調べたところ、ちゃんと写
真が載ってました。でかい! 10階から5階付近まで縦
に、福助図像+「福助足袋」の四文字。都新聞(大正12
年5月7日)に全面広告が掲載されていましたので、これ
もチェックしました。当時、都新聞には、「いくらなんで
もあれはひどい」といった趣旨の投書が来たらしいんです
が、これはまだチェックしきれていません。
その3:喜多川周之の「浅草」への寄稿について。「浅草
」のバックナンバーを1号から繰って、喜多川周之の名前
の入っている文章をできる限り拾ってきました。喜多
川周之著作一覧にタイトルと号数をまとめてあります。
sugisikiさんに御教示いただいた文献、すぐにでも
チェックしに行きたいのですが、これは来週以降の宿題という
ことでご容赦を。
sugisikiさん<
ようこそ。新藝、未見でした。
岸源三郎の話は、大正三年の時点のものしか読んでいないので、
その後の話がわかるのはたいへんありがたいです。どうやら
浅草公園の見世物全体が扱われている様子、たくさんヒントが
ありそうで楽しみです。
「伊太利人」バルトン(正しくは英人)というくだりは、
乱歩ファンならニヤリとするところですね。
はじめまして。
歌舞伎などを主とした演芸雑誌『新演藝』(大正5年5月号)に「浅草公園観せ物総捲り」と題して、ルナパーク株式会社、木馬館、金龍館、水族館などとともに、十二階も約1頁載っています(全13頁)。筆者が米山蟻兄(何者か知りません)という人で、建設からだいぶ経っていて、どうかと思われる点もあるかもしれませんが、少し引用すると、
……十二階は明治廿一年六月新潟県長岡の織物商福原庄太郎が東京帝国大学教授伊太利人故バルトンの設計に依り国会開設の記念建築物として十万円を掛け建設に着手したるも七階迄出来て其資金は全滅し一時立腐れの悲境に陥った、浅草の有志今井喜八、江崎禮二、大瀧勝三郎の三君資金を投じて協力し十三万六千円を以て十二階完成の目的を達した、地下を掘る廿尺地上よりの高さ百廿二尺、始め一人十銭なりしが見物人少なく八銭に値下げしたが尚々少なく大いに持て余ましてゐた処へ一人の成金が飛出してきた
以降、岸源三郎のことや、彼が、向島に料理店女夫風呂の太陽閣を作ったが失敗して、巣鴨に退いたこと、などが出ています。
その他に『浅草十二階』239頁と同様の地図も載っています(劇場が20軒ほどあります)。
他にも当時の雑誌に浅草公園関係の記事は見た記憶がありますが(『文藝倶楽部』『東京』など)、あまり関心がなく、読み飛ばしてしまいました。以上、ご参考まで。
中村さん<ようこそ。
雷門でよく人力車の方に声をかけられるのですが、
まだ一度も乗ったことがなく、いつか乗るぞと
思ってます。人力車という高さ、どこか魅力的。
古い絵葉書、目の前にごっそり出物が・・・なんて
ことをよく夢想するのですが、現実はキビシく、
古本屋や骨董市で少しずつ、という月並みな答えです。
雷門前に力車が・・・なんて葉書が一、二枚あったような
気がするのですが、週明けにでも探してみます。
先日はメールありがとうございました。
すごいですね。HP改めてゆっくり拝見させていただきました。
どこで写真やはがきを入手されるのですか?
浅草の古い写真を載せたくて探しています。
もし、協力いただけたら…なんて思ってます。
石井さん<
ぜひぜひ浅草でお会いしましょう。電話番号が載ってると
イタズラ電話とかかかってくる可能性があるので、申し訳ないですが
先の書き込みを削除しておきましたが、もうこれまでの書き込みには
感謝感謝、です。
いやはや石井さんの挙げられる文献は未見のものがどっさり。
ぼくがうかつなせいもありますが、それにしてもすごい。勉強になります。
江崎の写真、素朴な疑問ですが、どうやって江崎撮影とわかったんでしょうか。
浅草寺文化読み直してみます。(うー、週末は台東区図書館だあ。)
フォックス氏は「凌雲閣」の中で喜多川氏と握手してる写真が載ってましたね。
小川一眞についても
"K. Ogawa (1860-1929) Premier Photographer. " D. Fox, 1987
Japan Times Jan. 4, 11. を書いてました。
喜多川氏のことばづかいがかなり伝わってくる本としては、
橋本禎造・きよ 喜多川周之「江戸凧三代」徳間書店
があります。聞き取りの雰囲気がかなり採録されていて楽しい。
凌雲閣の錦絵も(凧が描かれているということで)収録されています。
あやめさんと「歌舞伎新報」の表紙、もう今すぐにでも確認しに行きたいのですが
これまた週末までお預け。
喜多川さんは、残念なことに探索の結果を単行本にして残されませんでしたが、江戸・東京関係のミニコミ誌も含めると、おそらく未見の文献が膨大にあると思います。当方も雑誌リストの作成が遅れていますが、十二階、バルトンに関する文献では、下記のものがあります。
「季刊江戸から東京へ」
1966年3月(No.1)明治100年の浅草塔
1969年7月(No.5)四谷大木戸内外
また新聞記事では、1981年7月12日付「読売」(朝刊)に十二階の遺構発掘に関する記事があり、喜多川さんのコメントが出ています。
ご指摘の江崎に関する文章は、文献ではなく写真を指すものと思います。「ひろい書き」第4回掲載の「浅草寺文化」に、巻頭グラビアの1枚として江崎撮影の基礎工事の写真が出ています。
蛇足1.シアトルのバルトン研究家デニス・フォックス氏が、1986年9月7日付のJapan Timesに"Asakusa's Historic Landmarks Gone"と題して、仁丹塔と十二階、バルトンについて書いています。
蛇足2.黙阿弥の歌舞伎につきましては、明治24年の「歌舞伎新報」で、スペンサーが表紙になっています。台本も数回に分け、分載されています。この雑誌は、どこで売っていたものか不明です。劇場かもしれませんね。
蛇足3.漱石の恩師マードック先生が書いた小説「あやめさん」(挿絵としてバルトンらの撮影した日本の風景写真多数収録)に、主人公らが十二階の美人写真展に行く場面があります。これは国会図書館にありますが、マイクロフィッシュになっており、写真が完全に潰れています。確か東大にもあったはずなのですが、学外の人間には手続きが面倒なので、確認していません。
バルトン周辺で、過去の事をちゃんと書き残せたのは、小川一真だけだった訳ですが、貧乏自慢のような回想しか残しておらず、残念です。後半生の小川は名士様で、夫人(板垣退助の娘)まで化粧品の広告(いまの「ダブなら〜」という類の)に出ているのは笑えます。
とりあえず、手元にあるコピーをもとに
浅草寺文化の連載といくつかの浅草資料に寄せられた
喜多川氏の文章をリストアップしてみました。
喜多川氏の「奥山から十二階へ」という文章には
「凌雲閣十二階の初代社長となり、その基礎工事の現場を撮影する人である」
という一節があって、これまた気になっているのですが、この江崎禮二撮影
の写真の元文献というのもまだ探しあてていません。資料収集の徹底していた
喜多川氏のことですから、何かの資料を探り当てられたのだと思いますが、
いまだ見つからず。どうも十二階のことを調べるにつけ、喜多川氏のあとを
後ればせながら追っているような感じがしてなりません。
すでに喜多川氏の文章の一部は以下のページに載せてありますが、
石井さんの書き込みを拝見しながら、文献リストに載せておくべきだと
痛感し、ただいま制作中です。後ほどアップしますが、漏れがあったら
ご指摘下さい。
いやあ、書き込みから察するだけでも、石井さんの「足」の捜査の徹底ぶり、
参りました。ミルンや石川巖のその後を調べるというのも全く思いつきません
でした。敬服。
それにしても、バルトンの知己として比較的長生きした小川一眞が十二階について
多くを語っていない(と、東京日日やアサヒカメラの資料からは思える)のが
まったくもって残念です。芸者写真を撮った、ということは、当時はあまり
喧伝にふさわしからぬことだったのかもしれませんが。
バルトンがどういう経緯で十二階の設計に関わったか、現状では何も分かっていないとのが実情だと思います。喜多川さんの「浅草寺文化」の連載では、江崎の事業家としての一面、つまり浅草の田圃を払い下げてもらい、勧工場を開設したことが紹介されていますので、デベロッパーのはしりのような存在でしょうか、その流れでは十二階建設に関わるのは自然ですが、福原とどういうつながりなのか分かりません。福原は横浜の居留地で、グラヴァルトだったかキリスト教の牧師さんからドイツ灯台ビールの輸入を引き継いだ貿易商なんですが、バルトンはフリーメーソンでしたからねえ……。稲場先生は、よくフィクションの形式で踏み込んでいかれるのですが、当然リスクもご存知だと思います。バルトンの生涯を実証的に追っていると、「こう見るのが妥当」という推測が必ず裏切られるので、私などは足の捜査から離れられなくなりました。稲場先生には、「石井さんはパイプをくわえて推理してるんでしょう?」とからかわれるのですが。松山さんの本は、ちょっと調べ方が不足しているように思います。黴と埃にまみれている身としては、たったあれだけの参考文献で書かれては、たまりません。伊沢雄司は東京水道改良事務所でバルトンの助手をしていたようですが、病気のため途中で「写真叢話」の編集人を降り、静養中との短い記事を最後に消息不明です。またバルトンの写真関係の弟子に、近藤操という日本人がいましたが、マグネシウムの暴発事故で指を失い、余病まで併発して静養中という記事が最後ですし、「写真新書」を訳した石川巌も早く亡くなってしまいました。バルトン家は火事で全焼しており、何も資料が残っていませんし、友人のミルンにしても離日直前に火事で焼け出されています。ジャパンメイル編集人ブリンクリーの家も火事や戦災に遭っています……。これでもか、これでもかという具合に関係者が早逝したり資料が消えたりしています。正確なバルトンの伝記を書きたいとは思うものの、考古学並みの苦労が必要なようです。今年のバルトン忌は、8月5日(日)3時15分に青山霊園の島村花店前に集合だそうです。墓前でバグパイプの演奏がある予定ですが、目を覚ましたらどうしようかと思います。バルトンのことを4年ぐらい調べていますが、悪い夢を見たことがあります。東大医学部の標本室で、バルトンの病んだ肝臓のホルマリン漬けを見せてもらうのです。何だか正夢になりそうな気もしないこともありません。
そういえば、バルトン忌が近いですね。
毎年、この時期に不在で失礼していたのですが、今年は
墓参に伺おうかと思っております。じつは稲場先生にも
まだお目にかかったことがなく、あれこれお話を伺えれば
と思っています。
もしかしたら石井さんがご存じかと思いひとつお尋ねです。
松山巖の「乱歩と東京」(ちくま文庫)に、江崎禮二がバルトンに設計を依頼した
という内容の文章があるのですが、残念ながらぼくはまだこれを確かめる文献に
行き当たっておりません。一方、稲場先生は「東京人」に書かれた文章の中で、
福原庄七がバルトンに依頼した様子を活写しておられるのですが、こちらも、
まだ裏が取れていない状況です。もし、このあたりのいきさつについて何か
ご存じでしたら御教示いただければ幸いです。
石井さん、さっそくありがとうございます。
どの話もいままで知らなかったもので、わくわくしてまいりました。
「心」はあちこちの大学にバックナンバーが所蔵されている
ようなのでなんとか入手方法を探してみます。
伊沢雄司の件もじつは気がついていませんでした。しかし、写真叢話は
バルトン,伊沢雄司と、十二階関係者が名を連ねているのに、十二階の
話が見当たらないのも不思議なことです。もしかしたら見落としがある
のかなあ。また国会図書館に行ってみなくては。
江崎禮二の親族の方は渋谷におられるのですか。
江崎写真館にゆかりのある方は浅草にもおられるらしく、言問通りの
北の方にいまも写真館を開いておられるという話を聞き取りで伺った
ことがあります。が、こちらもまだ未探索です。
バルトン・データベース、楽しみにしております。手元に、小川一眞
の「Illustrations of Japanese life」という写真集があるのですが、
この中にもバルトンの撮影した写真がいくつか含まれているようです。
もしかしたら「Out of doors life in Japan」からの転載かもしれません。
早速のご回答ありがとうございます。
バルトン・データベースをつくるために、膨大な記事をいちいちコピーしてしまったため、見ようと思う時、いつも出てこないので、不正確になりますが、例のエッセイには、鳥山家の隣人が瀧大吉一家で、廉太郎を含め、家族ぐるみのつきあいをしており、家人の話として、バルトン設計の十二階を実施設計したのが建築家だった大吉だと聞かされたとあります。雑誌初出は戦後間もないころで、物資の事情から、国会図書館の所蔵誌は劣化が激しく、ゼロックス出来ませんが、瀧廉太郎の伝記にまるまる引用されていました(これもいまどの本か分かりません。申し訳ありません。必要でしたら調べます。一般向けの本で、いまも書店にあると思うのですが)。
ちなみに十二階の現場監督を務めた伊沢雄司は、「写真叢話」編集人と同一人物です。彼が長生きしていれば、もっといろいろ書き残してくれたはずなのですが。また江崎礼二の子孫が、いまも渋谷で写真館をやっているのですが、この前通りすがりに寄ってみたところ、シャッターがしまっていました。
いろいろ書きましたが、何かのお役に立てれば幸いです。