>小島さん
ようこそ。
ニコライ堂は十二階、愛宕塔と並んで眺望絶佳の場所でしたんで、まぎらわしいところですね。山田風太郎の「ラスプーチンが来た」に浅草十二階の眺めからニコライ堂へと舞台を移すところがあって、おお、風太郎先生わかってらっしゃる、と膝を打った覚えがあります。十二階からの眺めの写真はいくつか残っています。
まず、喜多川周之コレクションの絵葉書。これは閣内で販売されていた頂上からの写真絵葉書で、江戸東京博物館の「博覧都市江戸東京展」というカタログに収録されています。写真なのか絵葉書なのか不明ですが、同様のものが「増補改訂 浅草細見」(浅草の会)に収められており、上野から移転された観覧車なども写っています。他にいくつか浅草関係の本で見た記憶があるんですが、ちょっと失念しております。
はじめまして、「探検コム」制作者の小島です。ニコライ堂からの写真を十二階からと
間違ってしまったのは、どうやら僕の単純ミスのようです。申し訳ないです。
とりあえず、サイト上からのすべてのリンクは外しておきました。
ただ、原本にキャプションがない以上、ニコライ堂からの眺めと簡単に断定
するのもどうかと思うので、このあたりを確認の上、修正するつもりです。
>変だと思っていましたが、これは十二階からの写真ではなく、
>明治22年に撮影されたニコライ堂からの
>眺めの写真です。「よみがえる明治の東京」玉井哲雄・石黒敬章(角川書店)
>に掲載された写真とまったく同じですので、まず間違いないでしょう。六区の喧騒がわかるような写真が見当たらないので、もしやとは思いましたが。
ちょっと残念でしたね。それにしても、十二階の内部や眺めの写真はなかなか出て来ませんね。
やはり閣内は撮影禁止だったのでしょうか...
まあ建物内からの眺めが売りであれば、そういう写真を一般に出回らせたら
客が減るのではと思い、近辺の写真屋も撮って売るようなこともしないので
しょうけど。
上の階で望遠鏡を貸してお金を取る商売もあるくらいだから、その辺は
厳しかったのかもしれませんね。
さて、十二階は176個の窓があると書物に書いていることがありますが
いったいどうやって数えてるんでしょう。
(なんかドアなどの部分も窓として数えている感じがするのですが...)1F= 8枚、2F=16、3F=16、4F=16、5F=16、6F=16
7F=16、8F=16、9F=16、10F=8、11F=16、12F=16これで何とか176枚になるのですが、1階と3階はドアがあるはずだし
これはなんだろうと思ってしまいました。
tanken.comの小島さんに写真の件をお問い合わせしたところ、
原本にはキャプションがなかったとのことで、機会をみて訂正
されるとの丁寧なお返事をいただきました。ご報告まで。
「浅草十二階計画」に図像を追加しました。大正期の立体写真、錦絵などなどです。
>吉野さん
押絵って、ただの絵に比べると綿を入れた絹のふくらみがあって、やや3Dに近づいている。アニメでいうと、ややフィギュアとかコスプレ方面に近づくようなもんでしょうか。問題は変換するための「光学系」ですが。その意味でいうと(どの意味だ)松本伊代「TVの国からキラキラ」ってちょっと押絵っぽいお誘いだったのかも。キャラ入りのプリクラはどうでしょう。>石塚さん
リンクいただき光栄です。リンクフリーですのでご遠慮なく。>玉村さん
「吉原炎上」は文庫本も品切れ状態ですが、古本屋でときどき見かけます。江戸東京博物館の模型、けっこうでかくていい出来ですよね。ぼくも写真撮りにいこうかな。>まあさん
確かに大人数で乗るエレベーターを実現するためには、かご本体のみならず、シャフトや巻き上げ機等の強度が必要ですよね。きっと当時としては画期的な技術だったはずなのに、なぜこうも資料が不足しているのか・・・。
浅草富士は、錦絵やいくつかの新聞記事からすると、木骨に石灰を塗ったハリボテで、ぐるぐると周囲を徒歩で登らせたようです。
今日買ってきました。白黒のクリアな写真で、眼下の風景もはっきりと
写っています。これはいい写真だ。
で、ふと次のページをめくったら、吉川潮「突飛な芸人伝」の記事。
あれ?この表紙、石塚さんの御作品じゃないですか。
「オーチスが十二階のエレベーターにも使われている。」
確かにこんな話、ほとんど聞きません。私もやっと見つけたという感じですが
実のところ本当に根拠があるのかもわかりません。考えてみるとオーチスも福助も表立っての十二階関係の記事が見当たりません。
ある意味、据え付けたり掲示したことが自社のプラスの業績とは考えにくい事象なのかも。
>年代的に言って、オーティスの開発結果が何らかの形で関わった可能性はありますね。
おそらくそうだとは思うのですけどね...
多分、素人の設計で高さ30mの両かごで40人も乗れるエレベーターなんか作ったら
すごい事故が起きそうな感じはします。60Kgの人40名で2.4トン。さらに上下に動く加速度分のウェィトとかご本体の重量。
そしてその重さをはるかに超える重さを支える30mの高さの鉄骨。
(当然、鉄骨はその他に30mの鉄骨の自重にもがっちりと構えるものである。)例えると車3台分のおもりを余裕で30mまで支えて持ち上げられる位の能力がないと
きっと建物自体も脅かしかねない存在になると思うので。(昨日紹介した和歌浦のエレベーターも高さ的には十二階と同規模のようですが、
かごの周りが入口以外鉄骨で覆われています。)こんなことを考えたら双六などに書いてあるエレベーターはあくまでも余興のための
簡略されて描かれたものに過ぎないと思うようになりました。
(綿密なエレベーターの設計図を双六に描かれても、なじまないでしょう。)私の想像ですが、エレベーターは建物とは基本的には独立して作られていて
(建物をはずしてもエレベーターは自立する構造)、先の和歌浦のエレベーターのように
入口以外は斜めにも鉄骨が走っているような構造ではないのかなぁと。
(おそらくかごとかごの間に非常はしごなんかもついているのではと思ったりします。
横についている窓は非常時にかごの外から開けることのできるドアの窓かもしれないと。)ただ、十二階が建つ数年前に浅草富士なるおかしな建物もあったりするので
下手するとモーターだけ輸入で後は自己流で作っているかもしれないとも思えてくるの
ですが。そうだとすると故障が多いのも当然に思えて「いかにも浅草らしい」と納得も
できてしまいますが。
(こうも思えてしまうのが浅草に建っている建物らしいところですね。)
玉村様 あのギャラリーはとても良い方ばかりでしたが、預かり先がどうも・・。
江戸東京博物館の事知りませんでした。
今年の夏は是非気球の乱歩を持って、十二階と乱歩、撮影に行きます。
http://www.tanken.com/nagame.htmlにある展望写真、どうもロケーションが浅草から遠くて
変だと思っていましたが、これは十二階からの写真ではなく、
明治22年に撮影されたニコライ堂からの
眺めの写真です。「よみがえる明治の東京」玉井哲雄・石黒敬章(角川書店)
に掲載された写真とまったく同じですので、まず間違いないでしょう。
ちなみに、このニコライ堂からの撮影者は十二階設計者のバルトンだという説がありますが、
いまのところ田中武ではないかという説が有力です。
細馬さん>「吉原炎上」に12階の絵が出てきたとは気づきませんでした!(もう一度観るしかないですね)
「震災予防調査会」の測量図は見てみたいですねぇ。吉野さん>
「押絵と旅する男」は別ものとして観てみようと思います!
石塚さん>
ホントネットって不思議ですねー!
ご安心下さい。ちっとも失礼ではありませんでした。こちらこそ、2回とも(個展の)仕事のお昼休みに行ったので、ゆっくりと見ることが出来ずに失礼をしてしまったようです。
あのギャラリーが12階も模型を所有しているとは初耳でした!でも非協力的なのは随分ですねぇ。「江戸東京博物館」で夏休みだけ12階の撮影が可能というのはご存知ですか?やはり12階と乱歩の作品を是非!制作して頂きたいのです!
事後になってしまいましたが、リンクさせていただきました。
不都合あればお知らせ下さい。
よろしくお願いします。
私にはサイトを共同運営している相方がいるのですが、その相方とこのサイトの話から「押絵と旅する男」になりました。
相方曰く、「押絵…」の兄は現在アニメキャラに「萌え〜」とか言ってるいわゆる「二次コン」のはしりであると。
すると現代の「兄」達はゲームやアニメの中に入って美少女キャラと戯れることを夢見ているのでしょうか。そのためには、望遠鏡ならぬ何を逆にすれば入れるのでしょうか。光学系を通していないだけに中に入るのはなかなか難しそうです。
やや、まあさんも仙台でしたか。
詳しく書いてくださりありがとうございます。万国実体写真協会の
写真と知りようやく得心が行きました。この写真、数年前に東京写真美術館で
「3D LAB」という展示をやったときにも展示され、パンフレットにも載りました。
実はぼくも立体映像の作品展示をしたので手元に写しがあるのですが、ヴュワーで見ると
十二階の反映が池面の向こうに映って吸い込まれるようです。いい写真ですね。
中の島のポール(アーク燈?)の向こう、よく見ると中将姫の看板の頭部が!
たぶん、左の民家というのは、玉乗りの清遊館ではないかと思います。残念ながらぼくもこのステレオカードの現物は持ってません。でも、
手元にいくつか十二階の立体写真がありますので、これもおいおい
図像コーナーに入れようと思っております。
オーティスは確かに電動式の乗客用エレベーターを1889年に開発して実用化してます。が、はたして日本に輸出したのかどうか。うーん。ぼくの手元には日本オーティスの「エレベーター・エスカレーター物語」他いくつかエレベーター文献があるのですが、そうした話は出てきません。なので、単行本にも何製かは書かなかったのですが、年代的に言って、オーティスの開発結果が何らかの形で関わった可能性はありますね。週刊新潮、未見なのですが、漱石の「行人」と和歌の浦の昇降機については、拙ページで手元の絵葉書と文献を挙げて取り上げたことがあります。「漱石の昇降機」と、日記をどうぞ。
話はかわってエレベーターのつくりの続きの補足。平凡社の世界大百科事典の
エレベーターの項を読むとエレベーターの押しボタン運行制御ができるように
なったのは1890年代の半ばとなっています。ということは現在のように一般の人が
エレベーターを操作するのは十二階が開業した当時では難しかったのかもしれません。
>モーターの簡略図からは線が三本出てます。
うーむ、何でしょうね? これはモーターの構造がわからないと断言はできないでしょうね。
でもモーターの外側の金属とつながる接地点(アース)のような気はしてるのですが...十二階のエレベーターはどこで作られたか? 「建築の絵本・夏目漱石博物館」という
本の中には十二階の竣工の前年、アメリカのオーチスが開発したと書かれています。
かつて1853年に蒸気式エレベーターのロープを切って安全性の実証実験をした会社。
エレベーターの納入実績も蒸気式ながらそれなりにあるでしょう。そういうことを考えると故障が多かったのはもしかするとエレベーターがおかしいとは
限らず、単に電源の供給状況が悪かったからなのではとも思えてきます。P.S
今発売中の週刊新潮(6月14日号)のP170には明治43年に和歌浦に日本初の
鉄骨製のエレベーター(30m)の写真が大きく載っています。
屋外設備で骨組み丸出しのエレベーターで夏目漱石も小説「行人」の中でこのエレ
ベーターの印象を書いているそうです。(これはお店でご覧下さい。)
>ところで、仙台で、「マクシム・デュ・カン」展をやってまして、実は遅ればせながら、私も仙台に住んでいます(笑)。
仙台市内のせんだいメディアテーク※の6階で7月4日まで行われてます。
※
今年の春にできたばかりの図書館や公演会や上映会や各種展示を行う
建物の支えが13本の巨大な鋼管の結合体だけで支えられている7階建ての
奇妙なつくりの複合施設。
http://www.smt.city.sendai.jp私も3階の図書館の書物を返すついでにこの展示会(6階)ものぞいてきました。
(展示会は有料です。)「150年目の旅 −マクシム・デュ・カン展」
マクシム・デュ・カン展の写真ですけれども
1849年10月の終わり頃、デュ・カンさんが友人のフロベールとともに
約1年にわたる中近東の旅を行い2000余枚の写真を残しました。
しかし彼が写真家として活躍はこのわずか1年に過ぎませんでした。写真機を携帯するのがまだ非常に珍しかった時代に撮られたそれらの写真は
クフ王のピラミッドはもとより中近東のいろいろな建物や遺跡などがどれも
白黒なのに立体的に見えた(言い換えるとその場で見ているような奥行きが
感じられた)のには驚きました。また、メインのデュ・カン展の一角には関連資料展示コーナーも設けられ
そのデュ・カンさんが写真を撮り始めた1850年代から1900年代の初期にかけての
写真機の流れ(ここでは主に2数の写真を両眼に対応したレンズを使い立体感を
実現するステレオ写真が中心)が展示されており、東京都写真美術館所蔵の
中近東の遺跡や日本のいろいろなステレオ写真(いずれもデュ・カンさんが撮った
ものではないですが)ガラスケースの中に収められていました。またそのステレオ写真を見るためのビューアも2台備えてありその中にもそれぞれ
ステレオ写真が入っていました。また立体的に見るという別の意味でのアプローチだと思いますが、蛇腹状の紙製の
作り物の窓からのぞくと奥行きが楽しめるというおもちゃもあり、楽しめました。参考例(以下のHPの《ロンドン万博博覧会記念ピープ・ショー》1851年 の写真を
参照)
http://www.tokyo-photo-museum.or.jp/ev/2000/event46.htm
さて、この掲示板の主題である「十二階」についてですが、ここまでじっくりと
読まれていればわかるかと思いますが、デュ・カンさんが日本にやってきて
写真をとったという話ではなく、その関連資料の話となります。そのステレオ写真ですが、1908年当時赤坂にあった「万国実体写真協会」という
団体がステレオ写真観光旅行セット(全25巻)を発行しており、そのうちの一枚が
「浅草、凌雲閣」というタイトルの写真です。上記のようにガラスケースの中に
他の写真と一緒におさめられており、ビューアでは見ることはできませんでした。しかしながら見てみるとなんか違和感があります。いや2枚も同じ写真が並んでる
からではありません。少し経ってわかりました。少し色は薄いですがこの十二階の
写真はカラーで撮影されていたのです。
館内は撮影禁止だったので写真は撮れません。仕方ないので雰囲気だけでも...辺りは薄く青い空、しかし太陽が横から照っているせいか暗くはありません。
そして写真の中央よりやや右側にそびえる十二階。その壁面は太陽に照って白く
輝いている面があります。またその他の面は焦げ茶かと思うとそうではなく
茶色といっても薄く明るい茶色に染まっていました。
十二階の右手前にはすらりと上に伸びた黒い街灯のポール。また写真のごく手前の左側
には噴水が水しぶきをあげています。また左端の民家は屋根が真っ黒ではなく、何か
混じりけのある黒に近い群青色、そして壁面は白壁になっていました。ここには錦絵などで賑々しく書かれている十二階はなく、落ち着いた公園に溶け込んで
いる今でもその辺に建ってそうな感じのするモダンな十二階がありました。(雰囲気的には以下のHPの イタリー ナポリ停車場 / NAPOLI に近い)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~postcard/gengaku/photo4.htmlなんか白黒の写真と錦絵によって現代の人には本当の十二階のイメージが歪曲して
みえているのかなと思った次第。
え? マクシム・デュ・カンって
ステレオ写真撮ってたんですか? ちーとも知らなかった。>細馬さんいえいえ、デュ・カンは撮っていないのですが、同時に、当時の写真技術の進歩の背景みたいなところでいくつか、展示がありました。ステレオ写真のほかにはオブスクラとか、ビューワーもありました。
いろはに十二階で思い出したのですが、萩原朔太郎の以下の詩、
なんで、「いろは」なのかと思ってたのですが、
もしかして「いろはにこんぺいとう」を意識したものかもしれないです。
淺草の十二いろはの三階の
色硝子より見たる町の灯
じゃいさん、どうもです。え? マクシム・デュ・カンって
ステレオ写真撮ってたんですか? ちーとも知らなかった。
しかし時代的には19世紀中期だからおおいにありうるかも。
その「凡庸さ」も含めておおいに気になります。
仙台・丸善にて購入しました。まだ読みはじめたばかりです。
「低さ」のパノラマ、映画「シン・レッド・ライン」の映像を思い出しました。ところで、仙台で、「マクシム・デュ・カン」展をやってまして、
「凌雲閣・浅草」なんてステレオ写真のセットが展示されていました。
でも、凌雲閣は一枚しかなくて、鎌倉の大仏とか、いろいろはいってるのですけども。では、もっと読み進めてから。
すでに、引用されている本を2、3冊はよまなくては、と思っている今日この頃。